【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

好き嫌い

2010-03-16 19:10:32 | Weblog
 私にとって「食べ物の好き嫌い」とは「食べたら美味い/不味い、だから、好き/嫌い」なのですが、世の中にはまるでそれを憎んでいるかのように嫌う態度を示す人がいます。人生でエネルギーをどう配分するかは個人の自由ですが、そこまで何かを嫌うことにエネルギーを使うとは贅沢なことだ、と私には思えます。

【ただいま読書中】『藤子不二雄Ⓐ 藤子・F・不二雄 ──二人で少年漫画ばかり描いてきた』藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄 著、 日本図書センター、2010年、1800円(税別)

 1975年に「TBS調査情報」に藤子不二雄Ⓐが連載した「ぼくはこの歳になって、まだ少年漫画を描いている」に藤子・F・不二雄が加筆して1977年に発行された『二人で少年漫画ばかり描いてきた』が本書の底本です。なお、二人のコンビ解消は1987年です。
 手塚治虫さんの前書きが印象的です。昭和20年代の「漫画少年」に投稿の常連として知っている漫画家の名前がずらりとならんでいますが、その中に、篠山紀信・和田誠・眉村卓・横尾忠則なんて名前もさりげなく混じっているのです。もしこういった人たちが「漫画家」に無事育っていたら、今の日本の文化はどう変わっていたんでしょう?
 二人が出会ったのは昭和19年、国民学校の5年生の時でした。二人でぱらぱら漫画を描いたり反射幻灯機のスライドを合作したりしていましたが、昭和22年、「新宝島」(手塚治虫)に出会った衝撃で著者(ら)の運命は変わります。(当時としては驚異のベストセラー(40万部)となったこの作品で運命が変わった人として、他にも、石森章太郎や赤塚不二雄が有名です) 映画と漫画に夢中の青少年は「戦後」という時代の中、せっせと「漫画少年」に投稿を繰り返します。
 高校を卒業、就職する直前に二人は富山から宝塚に手塚を訪ねます。そこで見た「プロ」の厳しい実像に二人は「少年から青年」「学生から社会人」「アマからプロ」へと変化させられることになります。(手塚は逆に二人が持ち込んだ長編の「ベン・ハー」に驚くのですが)
 就職はしたものの、二人ともすぐに辞めてしまい(F氏なんか3日です)、仕事の当てもコネもろくにないのに上京してしまいます。ところが数ヶ月後、二人は「売れっ子漫画家」になっていました。昭和29年5月、運輸省は「木材や布、金属を用いた付録は雑誌並みの料金では扱わない」と決定し、それに伴い少年雑誌の付録はそれまでの工作付録から漫画付録にいっせいに切り替えられました。第二次少年漫画黄金期の到来です。著者はまさにそのとき東京にいたのです。ただし、能力以上の注文を抱えた新人漫画家は、あちこちに「穴」を開けてしまいます。さらに「悪書追放三ない運動(売らない、買わない、読まない)」なんてものが起き、児童漫画家を「社会の害虫」呼ばわりする評論家も登場します。私見ですが「良いものを育てよう」ではなくて「気に入らないものに“ワルイモノ”のレッテルを貼って攻撃する」のは楽なんですよねえ。なにより「何が良い」かの「自分の判断」を示さなくて良いから何をするにも無責任を通すことができます。さらに「攻撃」している限り「自分の方がエライ」という錯覚を楽しむことができます。全然違うんですけどね(私は「自分はこれが良いと思う」を示せない“評論”は、信用しません。示していてもそれがつまらないものだったら無視(あるいは非常に低く評価)します)。
 トキワ荘からばらばらになっていた仲間が再結集したのは昭和38年、スタジオ・ゼロというテレビアニメの企画制作会社の立ち上げでした。みな、子供時代の「映画への憧れ」を忘れていなかったのです。ただし“会社ごっこ(「社員は全員重役」「社長はくじ引きで回り持ち」)”は紆余曲折。
 そして「オバケのQ太郎」。連載された少年サンデーにはすでに「伊賀の影丸」と「おそ松くん」の“横綱”があり、オバQは力を入れずに開始され、あまりに反響がないので13回で中止となります。ところがそこで「なんでやめた」という葉書が編集部に続々と。再開、テレビアニメ化、それが大ヒット……
 本書は、一時青年コミックに迷い込んでいた著者が、また“初心”にかえって少年漫画に取り組むところで終わります。(少年漫画は「どらえもん」の連載だけだった時期があるそうです) “その後”については、ファンなら当然説明が必要ないでしょうし、ファンでない人にも説明は必要ないでしょう。