会社では有能な人間は仕事ができて無能な人間は仕事ができない、と単純に考えていましたが、最近考え方が変わりました。無能な人間の中には「他人に自分の仕事をさせること(たとえば「自分にはとてもできない」などと、他人に自分の仕事を押しつける口実を見つけること)に有能な人間」がけっこうな割合で混じっているのではないか、と。でないと、あそこまで“無能”にあぐらをかけるわけがわかりません。
【ただいま読書中】『在郷軍人会 ──良兵良民から赤紙・玉砕へ』藤井忠俊 著、 岩波書店、2009年、2800円(税別)
在郷軍人とは、軍人が現役を退いて帰郷した存在で、西洋では「軍服を着た市民」と表現されます。では日本では?
在郷軍人会では定期的に簡閲点呼が行なわれました。連隊区司令部の命令で召集される純軍事的行事ですが、初期に残された写真では軍服を着ている人は意外に少ないのです。明治末期、福井県西安居村には、軍服6・羽織袴21・羽織8・袴2・着流し10、という服装調査が残されています。羽織袴は当時の正装ですからよしとしても、着流し?
田中義一大佐(のちに大将)は満州派遣軍の参謀として、後備師団(在郷軍人を召集した兵を主力に編成された師団)が常備軍に比較して弱いことに気づいていました(田中はロシアのその弱点を突いて勝利を得ていますが、同時にそこが弱いのは日本も同じと冷静に述べています)。しかし、今後の戦争では在郷軍人が主力になると彼は断言しています。そこで必要になるのは、訓練と戦意、そして国民の支持です。軍は在郷軍人会の強化に乗り出します。日露戦争(10万人の死者)からの帰還兵問題も重なります。(当時はこのことばはありませんが)「PTSD」をどうするか、です(モラルの落ちた帰還兵に対して当時「兵隊上がり」という蔑称が使われました)。さらに都市部と農村の関係もあります(当時強兵は農村部から得られていました)。社会主義への警戒感も高まります。米騒動で検挙された人間の1割が在郷軍人であったことは軍と在郷軍人会に衝撃を与えます。「良兵→良民」が否定されたのか、と。
さて、全国に作られた在郷軍人会組織ですが、大正初期にそこで奨励されたのは「早起き、勤勉、時間を守る、質素倹約」などでした。在郷軍人は、軍や在郷軍人会の思うとおりに動く人ばかりではなかったということでしょう。その時代は「大正デモクラシー」とも重なっていました。普通選挙運動に代表される「市民」の誕生です。都市では労働争議も多発します。これは「農村を基盤とする軍」を是とする帝国には都合の悪いことでした。ところが農村では小作争議が起きていました。そしてシベリア出兵に対して国民の支持は近代日本の戦争の中で最低でした。
軍は危機感を持ちます。在郷軍人会の活動にてこ入れを図り、同時に「国防思想」の普及に努めます。「顧客の創出」ではなくて「軍の必要性の創出」と言ったらよいでしょうか。そこには恰好の“敵”がいました。社会主義者です。さらに軍縮(職業軍人を失業させる世界的悪だくみ)を日本に強制する諸外国も。
第一次世界大戦後の軍縮に対応するため、「国家総動員」が持ち出されます。現役兵の期間を短縮するかわりに平等に割り当てよう、と。また、余剰となった現役将校を現役のまま学校軍事教練にあてます。青年訓練は在郷軍人会が担当。「平等」があったせいでしょうか、大正デモクラシーの盛り上がりの中でもこの「国家総動員」はほとんど反対を受けずに成立しました。こうして「良民→良兵」のラインが作られます。
昭和となり、国家総動員は少しずつ強固になり……ますが、その道筋は決して一本道ではありません。けっこう当時の日本人はしたたかで、お上の思うように一致団結して動く、といった感じではありません。それでも、満州事変が近づき、在郷軍人会は軍の下請けとして「国防思想普及運動」を行ないました。そこでは、新聞や映画も活用されました。こうして「銃後」が形成されていったのです。言うなれば「徴兵制」を維持するための“装置”(召集を受けた“後”の受け皿)として在郷軍人会が機能することを期待されていたのでしょう。
満州国が建国され日本からの移民が募集されましたが、その先陣が在郷軍人による武装移民でした(ただしこれは結果としては失敗に終わり、日本政府は分村移民(日本の村を二分してその半分の村民を送り込む)に方針を転換します)。
美濃部達吉の「天皇機関説」に対する攻撃は、出発点は「天皇」を「機関」とするとは不敬であるという感情論でしたが、大正デモクラシーと帝国大学に対する国家主義・国粋主義の“反撃”でもありました。在郷軍人会は国体明徴声明を発し、軍の代行のように政治運動を開始します。その頃から「国軍」は「皇軍」と呼ばれるようになり、「忠君愛国」は「尽忠報国」に変容します。これはやがて「天皇陛下万歳」につながっていきます。2・26事件は在郷軍人会には大きな影響はありませんでしたが、直後「勅令団体(=公的な存在)」への移行が行なわれます。それまでは地方自治体に根を下ろした団体でしたが、軍の直轄事業団体としての存在へと。
1937年の大動員は兵93万人の規模でした。現役兵は33万6000で、残りのほとんどは在郷軍人の召集です。ところがこの応召兵が、軍紀の点で問題が多かったという指摘があるそうです。ともかく在郷軍人会は「送る側」から「送られる側」に位置をシフトし、「銃後」は国防婦人会が担当することになりました。
文章に繰り返しが多く、読んでいてもどかしい思いをすることが多いのですが、取り上げられている資料は魅力的です。また、制度としての「在郷軍人会」と個人としての「在郷軍人」とを別々に捉える視点から見える世界も、単純に「帝国主義」でくくれないもので、非常に興味深いものです。沖縄戦についても興味深い記述があります。イデオロギーではなくて資料に密着した戦史ですが、日本は複雑な国だなあ、とつくづく思います。為政者は大変だ。
【ただいま読書中】『在郷軍人会 ──良兵良民から赤紙・玉砕へ』藤井忠俊 著、 岩波書店、2009年、2800円(税別)
在郷軍人とは、軍人が現役を退いて帰郷した存在で、西洋では「軍服を着た市民」と表現されます。では日本では?
在郷軍人会では定期的に簡閲点呼が行なわれました。連隊区司令部の命令で召集される純軍事的行事ですが、初期に残された写真では軍服を着ている人は意外に少ないのです。明治末期、福井県西安居村には、軍服6・羽織袴21・羽織8・袴2・着流し10、という服装調査が残されています。羽織袴は当時の正装ですからよしとしても、着流し?
田中義一大佐(のちに大将)は満州派遣軍の参謀として、後備師団(在郷軍人を召集した兵を主力に編成された師団)が常備軍に比較して弱いことに気づいていました(田中はロシアのその弱点を突いて勝利を得ていますが、同時にそこが弱いのは日本も同じと冷静に述べています)。しかし、今後の戦争では在郷軍人が主力になると彼は断言しています。そこで必要になるのは、訓練と戦意、そして国民の支持です。軍は在郷軍人会の強化に乗り出します。日露戦争(10万人の死者)からの帰還兵問題も重なります。(当時はこのことばはありませんが)「PTSD」をどうするか、です(モラルの落ちた帰還兵に対して当時「兵隊上がり」という蔑称が使われました)。さらに都市部と農村の関係もあります(当時強兵は農村部から得られていました)。社会主義への警戒感も高まります。米騒動で検挙された人間の1割が在郷軍人であったことは軍と在郷軍人会に衝撃を与えます。「良兵→良民」が否定されたのか、と。
さて、全国に作られた在郷軍人会組織ですが、大正初期にそこで奨励されたのは「早起き、勤勉、時間を守る、質素倹約」などでした。在郷軍人は、軍や在郷軍人会の思うとおりに動く人ばかりではなかったということでしょう。その時代は「大正デモクラシー」とも重なっていました。普通選挙運動に代表される「市民」の誕生です。都市では労働争議も多発します。これは「農村を基盤とする軍」を是とする帝国には都合の悪いことでした。ところが農村では小作争議が起きていました。そしてシベリア出兵に対して国民の支持は近代日本の戦争の中で最低でした。
軍は危機感を持ちます。在郷軍人会の活動にてこ入れを図り、同時に「国防思想」の普及に努めます。「顧客の創出」ではなくて「軍の必要性の創出」と言ったらよいでしょうか。そこには恰好の“敵”がいました。社会主義者です。さらに軍縮(職業軍人を失業させる世界的悪だくみ)を日本に強制する諸外国も。
第一次世界大戦後の軍縮に対応するため、「国家総動員」が持ち出されます。現役兵の期間を短縮するかわりに平等に割り当てよう、と。また、余剰となった現役将校を現役のまま学校軍事教練にあてます。青年訓練は在郷軍人会が担当。「平等」があったせいでしょうか、大正デモクラシーの盛り上がりの中でもこの「国家総動員」はほとんど反対を受けずに成立しました。こうして「良民→良兵」のラインが作られます。
昭和となり、国家総動員は少しずつ強固になり……ますが、その道筋は決して一本道ではありません。けっこう当時の日本人はしたたかで、お上の思うように一致団結して動く、といった感じではありません。それでも、満州事変が近づき、在郷軍人会は軍の下請けとして「国防思想普及運動」を行ないました。そこでは、新聞や映画も活用されました。こうして「銃後」が形成されていったのです。言うなれば「徴兵制」を維持するための“装置”(召集を受けた“後”の受け皿)として在郷軍人会が機能することを期待されていたのでしょう。
満州国が建国され日本からの移民が募集されましたが、その先陣が在郷軍人による武装移民でした(ただしこれは結果としては失敗に終わり、日本政府は分村移民(日本の村を二分してその半分の村民を送り込む)に方針を転換します)。
美濃部達吉の「天皇機関説」に対する攻撃は、出発点は「天皇」を「機関」とするとは不敬であるという感情論でしたが、大正デモクラシーと帝国大学に対する国家主義・国粋主義の“反撃”でもありました。在郷軍人会は国体明徴声明を発し、軍の代行のように政治運動を開始します。その頃から「国軍」は「皇軍」と呼ばれるようになり、「忠君愛国」は「尽忠報国」に変容します。これはやがて「天皇陛下万歳」につながっていきます。2・26事件は在郷軍人会には大きな影響はありませんでしたが、直後「勅令団体(=公的な存在)」への移行が行なわれます。それまでは地方自治体に根を下ろした団体でしたが、軍の直轄事業団体としての存在へと。
1937年の大動員は兵93万人の規模でした。現役兵は33万6000で、残りのほとんどは在郷軍人の召集です。ところがこの応召兵が、軍紀の点で問題が多かったという指摘があるそうです。ともかく在郷軍人会は「送る側」から「送られる側」に位置をシフトし、「銃後」は国防婦人会が担当することになりました。
文章に繰り返しが多く、読んでいてもどかしい思いをすることが多いのですが、取り上げられている資料は魅力的です。また、制度としての「在郷軍人会」と個人としての「在郷軍人」とを別々に捉える視点から見える世界も、単純に「帝国主義」でくくれないもので、非常に興味深いものです。沖縄戦についても興味深い記述があります。イデオロギーではなくて資料に密着した戦史ですが、日本は複雑な国だなあ、とつくづく思います。為政者は大変だ。