映画の「ハンサム・スーツ」は、不細工な男が「洋服の青山のハンサム・スーツ(まるでマシュマロマンみたいなもの)」を着用したら、まるで別人の「ハンサム」に変身できる、というお話でした。「美女と野獣」と「シュレック」で使われる変身の魔法を「ハンサム・スーツ」というギミックに変えて二つのお話を混ぜ合わせたようなもの、と言ったら良いかな。結局「中身が(中身も)大事」ということになっていくのですが、青山がよく協力したもんだ、と私はその度量に感心しました。「人間は中身が大切」って、「ハンサム・スーツ」のコンセプトというか“文字面”に喧嘩を売ってません?
【ただいま読書中】『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ 著、 木村博江 訳、 草思社、2000年、1900円(税別)
ジュディス・ラングロワ(心理学者)は様々な人種・年齢・性別の人々の顔のスライドを数百枚準備し、まず大人たちにそれぞれの魅力の度合いを評価してもらいました。ついで、生後3ヶ月と6ヶ月の乳児に同じ写真を見せました。すると大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました。つまり人間の顔の「美」に関して、赤ん坊は美しさを感知することと、そして人間の顔には人種を越えた普遍的な美の特徴があることが示唆されたのです。
逆に「赤ん坊の可愛さ」はどうでしょうか。動物でも人間でも無力な赤ん坊は「可愛らしさ」で自分の身を守ります。ジャネット・マン(心理学者)の調査では、難産で生まれ誕生時に体重が足りなかった双子の観察で、どの母親もより元気な方の子を可愛がる、という結果が出ました。特に非常に貧しい家庭では、弱い方の子ははっきり無視されていました。これは、進化の過程で母親の生殖適合能力を高めるためのメカニズム、とマンは結論づけているそうです(要するに、限られたエネルギーは“より見込みの高い方”に注ぐのが進化論的には(非情だが)合理的、ということでしょう)。また、世界各地で、生まれたての赤ん坊は「父親似だ」と評価されることが多いそうです。これは「父親の不安(自分の子ではないのではないか)」を取り除くための有効な手法だ、と著者は評しています。(逆に、家庭内で虐待されるのは「父親に似ていない子」であることが多いのだそうです)
「見かけの良い人」は、明らかに社会の中で“得”をしています。敬意を払われやすく、それによって得た自信で困難に立ち向かいやすく、それが自身や強さとなって敬意をさらに払われるようになります。ポジティブなフィードバックです。アメリカには「おつむが弱いブロンド美人」ということばがありますが、実際は逆で「頭がよい」と評価されやすいのです。これは「光背(ハロー)効果」と呼ばれます。陸軍士官学校の調査では、昇進するタイプには共通の顔貌(威厳や決然とした表情)の特徴が認められました。ただし、そういった周囲からの“期待”を裏切った場合には、彼らは周囲からひどい扱いを受けることになるのですが。「三高」という死語がありますが、アメリカ大統領も有力な企業のCEOも明らかに長身優位です。トップには「大もの」が望ましい、が社会の合意のようです。
「対照効果」というものもあります。パーティー会場にすごい美人が入ってきた瞬間、それまでの美人の魅力が急に薄れて感じられる効果です。だから美人は他の美人を好まないのかもしれません。
スーザン・フレイザー(人類学者)は454の文化での調査で、結婚平均年齢は女性が12~15歳、男性が18歳、と報告しました。これにはいくつかの理由があるでしょう。若年での出産の方が健康な子が得られやすい。壮年で死亡する確率が高い場合、早く出産しておいた方がよい。
そういった社会では「美」は「健康」と強く関連しています。つまり「美人」は子孫を残すのに有利であることのシンボルなのです。
こういった顔やスタイルに対する美の評価は、人類の進化の過程で有効に機能していたのでしょう。その結果が「若い女を好む男の群れ」なのですが。
しかし、現代社会では、多くのセックスは避妊が前提となっています。となると過去の「美」に基づく性衝動や性行動は“時代遅れ”なのでしょうか。
ただ、そういった本能的な「美」以外の「美」もあります。たとえば、マルセル・デュシャンの便器やアンディ・ウォホールのスープの缶詰といったものは、文化的な学習で得られるものでしょう。つまり「美」は「それ自体」ではなくて「それを見る人間の目」の方に存する場合があるのです。
本書には、フェミニズムの主張(「美」によって男性支配が強化される)も紹介されていますが、著者はそれには与していないようです。フェミニストの主張は20世紀限定だったら“正しい”意見かもしれませんが、「美(の認識)」が有史以前からのものであることを認めたら、その主張の力が半減するように私も感じます。「美」そのものを知ろうとしているのではなくて、自分の主張を強化するために「美」を使っているだけではないか、と思えるものですから。
「美の体験は思考を止める」という印象的なフレーズが本書にあります。ただ、美に出会ってそこで簡単に思考停止するのではなく、簡単に否定するのでもなく、思考を深化させ、表面だけではなくてもっと深いところにある美も愛するようにできないか、と著者は問題提起を行なっています。「美」は人類の歴史とともに“そこ”にずっとあったのですから。そして、これからもずっとあるでしょうから。
【ただいま読書中】『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ 著、 木村博江 訳、 草思社、2000年、1900円(税別)
ジュディス・ラングロワ(心理学者)は様々な人種・年齢・性別の人々の顔のスライドを数百枚準備し、まず大人たちにそれぞれの魅力の度合いを評価してもらいました。ついで、生後3ヶ月と6ヶ月の乳児に同じ写真を見せました。すると大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました。つまり人間の顔の「美」に関して、赤ん坊は美しさを感知することと、そして人間の顔には人種を越えた普遍的な美の特徴があることが示唆されたのです。
逆に「赤ん坊の可愛さ」はどうでしょうか。動物でも人間でも無力な赤ん坊は「可愛らしさ」で自分の身を守ります。ジャネット・マン(心理学者)の調査では、難産で生まれ誕生時に体重が足りなかった双子の観察で、どの母親もより元気な方の子を可愛がる、という結果が出ました。特に非常に貧しい家庭では、弱い方の子ははっきり無視されていました。これは、進化の過程で母親の生殖適合能力を高めるためのメカニズム、とマンは結論づけているそうです(要するに、限られたエネルギーは“より見込みの高い方”に注ぐのが進化論的には(非情だが)合理的、ということでしょう)。また、世界各地で、生まれたての赤ん坊は「父親似だ」と評価されることが多いそうです。これは「父親の不安(自分の子ではないのではないか)」を取り除くための有効な手法だ、と著者は評しています。(逆に、家庭内で虐待されるのは「父親に似ていない子」であることが多いのだそうです)
「見かけの良い人」は、明らかに社会の中で“得”をしています。敬意を払われやすく、それによって得た自信で困難に立ち向かいやすく、それが自身や強さとなって敬意をさらに払われるようになります。ポジティブなフィードバックです。アメリカには「おつむが弱いブロンド美人」ということばがありますが、実際は逆で「頭がよい」と評価されやすいのです。これは「光背(ハロー)効果」と呼ばれます。陸軍士官学校の調査では、昇進するタイプには共通の顔貌(威厳や決然とした表情)の特徴が認められました。ただし、そういった周囲からの“期待”を裏切った場合には、彼らは周囲からひどい扱いを受けることになるのですが。「三高」という死語がありますが、アメリカ大統領も有力な企業のCEOも明らかに長身優位です。トップには「大もの」が望ましい、が社会の合意のようです。
「対照効果」というものもあります。パーティー会場にすごい美人が入ってきた瞬間、それまでの美人の魅力が急に薄れて感じられる効果です。だから美人は他の美人を好まないのかもしれません。
スーザン・フレイザー(人類学者)は454の文化での調査で、結婚平均年齢は女性が12~15歳、男性が18歳、と報告しました。これにはいくつかの理由があるでしょう。若年での出産の方が健康な子が得られやすい。壮年で死亡する確率が高い場合、早く出産しておいた方がよい。
そういった社会では「美」は「健康」と強く関連しています。つまり「美人」は子孫を残すのに有利であることのシンボルなのです。
こういった顔やスタイルに対する美の評価は、人類の進化の過程で有効に機能していたのでしょう。その結果が「若い女を好む男の群れ」なのですが。
しかし、現代社会では、多くのセックスは避妊が前提となっています。となると過去の「美」に基づく性衝動や性行動は“時代遅れ”なのでしょうか。
ただ、そういった本能的な「美」以外の「美」もあります。たとえば、マルセル・デュシャンの便器やアンディ・ウォホールのスープの缶詰といったものは、文化的な学習で得られるものでしょう。つまり「美」は「それ自体」ではなくて「それを見る人間の目」の方に存する場合があるのです。
本書には、フェミニズムの主張(「美」によって男性支配が強化される)も紹介されていますが、著者はそれには与していないようです。フェミニストの主張は20世紀限定だったら“正しい”意見かもしれませんが、「美(の認識)」が有史以前からのものであることを認めたら、その主張の力が半減するように私も感じます。「美」そのものを知ろうとしているのではなくて、自分の主張を強化するために「美」を使っているだけではないか、と思えるものですから。
「美の体験は思考を止める」という印象的なフレーズが本書にあります。ただ、美に出会ってそこで簡単に思考停止するのではなく、簡単に否定するのでもなく、思考を深化させ、表面だけではなくてもっと深いところにある美も愛するようにできないか、と著者は問題提起を行なっています。「美」は人類の歴史とともに“そこ”にずっとあったのですから。そして、これからもずっとあるでしょうから。