今からン十年前、大学受験のために単身上京した私は「少しは勉強しようか」と図書館に出かけました。忘れもしない、田町駅のすぐそばにある港区立三田図書館です。でまあ“気分転換”しようと本棚の間をうろついたらとても強力な呼びかけをしてくれた本がありました。それがブラッドベリの『火星年代記』です。半日読みふけりました。
結局翌日の受験は……結果は秘密です。
【ただいま読書中】『火星年代記』レイ・ブラッドベリ 著、 小笠原豊樹 訳、 早川書房、1970年
1999年1月「ロケットの夏」で本書は始まります。火星への探検隊が出発したのです。しかし、第一次も第二次も、探検隊は行方不明になります。このあたりのお話は、抱腹絶倒。
第三次探検隊は、用心のために前の二つの探検隊の着陸地点のまるで反対側に着陸します。彼らが発見したのは数十年前のアメリカの田舎町でした。そこで彼らは、すでに死んだはずの懐かしい人々に再会し、全滅します。
そして第四次探検隊。彼らが発見したのは、死に絶えた町でした。火星人たちは、地球から持ち込まれた病気によって、全滅していたのです。地球人は、火星人を(意図せずとはいえ)殺したあと、火星そのものも壊し始めます。遺跡を破壊して町を作り、自然を改変して地球人が住める環境にしていくのです。移民が続々と到着し、「火星」は変わっていきます。
かろうじて生き残った火星人は、まるで幽霊のように出現しては消えます。地球人はそういった「過去の亡霊」は無視して開拓を続けていきますが、地球で原子戦争が勃発。人々はカバンを買い地球へと急ぎます。しかし「沈黙の町」と似たシチュエーション(人々が消えた町、ひとりぼっちの男、急になり出す電話)で私が思い出すのは『こちらニッポン…』(小松左京)ですが、物語の展開が全然違うのが笑えます。「沈黙の町」はひたすらビターなのです。
そして2026年。懐かしい名前が次々登場する「長の年月」では、過去の作品でも登場したロボットのモチーフが形を変えて静かに語られ、「百万年ピクニック」ではから逃げてきた一家の前に「火星人」が登場します。「火星人たちは、ひたひたと漣波の立つ水のおもてから、いつまでもいつまでも、黙ったまま、じっとみんなを見あげていた。」という文章にたどり着き、私は小さく震えます。
本当はこの物語は、100年くらいかけて語られるべきファンタジーだったのではないか、と私には思えますが、それは「もっとこの世界に浸っていたい」というファンの望みすぎなのでしょう。「27年間」に凝縮されたからこそ本書は「SF歴史物」ではなくてファンタジーとして成立したのかもしれません。
なお、最新の文庫本では「ロケットの夏」は2030年になっていて、以後の各章はすべて「31年」ずつ原作よりプラスされています。現実の2010年ではまだ火星ロケットは出発していないから、という“配慮”からなのでしょうが、余計なお世話だと私には感じられます。「2010」から「1999」を引き算して「なんだ、未来と言っていながら過去の物語じゃないか」なんて言う人にはこの壮大なファンタジーを楽しむ“資格”は最初からないでしょうから。
結局翌日の受験は……結果は秘密です。
【ただいま読書中】『火星年代記』レイ・ブラッドベリ 著、 小笠原豊樹 訳、 早川書房、1970年
1999年1月「ロケットの夏」で本書は始まります。火星への探検隊が出発したのです。しかし、第一次も第二次も、探検隊は行方不明になります。このあたりのお話は、抱腹絶倒。
第三次探検隊は、用心のために前の二つの探検隊の着陸地点のまるで反対側に着陸します。彼らが発見したのは数十年前のアメリカの田舎町でした。そこで彼らは、すでに死んだはずの懐かしい人々に再会し、全滅します。
そして第四次探検隊。彼らが発見したのは、死に絶えた町でした。火星人たちは、地球から持ち込まれた病気によって、全滅していたのです。地球人は、火星人を(意図せずとはいえ)殺したあと、火星そのものも壊し始めます。遺跡を破壊して町を作り、自然を改変して地球人が住める環境にしていくのです。移民が続々と到着し、「火星」は変わっていきます。
かろうじて生き残った火星人は、まるで幽霊のように出現しては消えます。地球人はそういった「過去の亡霊」は無視して開拓を続けていきますが、地球で原子戦争が勃発。人々はカバンを買い地球へと急ぎます。しかし「沈黙の町」と似たシチュエーション(人々が消えた町、ひとりぼっちの男、急になり出す電話)で私が思い出すのは『こちらニッポン…』(小松左京)ですが、物語の展開が全然違うのが笑えます。「沈黙の町」はひたすらビターなのです。
そして2026年。懐かしい名前が次々登場する「長の年月」では、過去の作品でも登場したロボットのモチーフが形を変えて静かに語られ、「百万年ピクニック」ではから逃げてきた一家の前に「火星人」が登場します。「火星人たちは、ひたひたと漣波の立つ水のおもてから、いつまでもいつまでも、黙ったまま、じっとみんなを見あげていた。」という文章にたどり着き、私は小さく震えます。
本当はこの物語は、100年くらいかけて語られるべきファンタジーだったのではないか、と私には思えますが、それは「もっとこの世界に浸っていたい」というファンの望みすぎなのでしょう。「27年間」に凝縮されたからこそ本書は「SF歴史物」ではなくてファンタジーとして成立したのかもしれません。
なお、最新の文庫本では「ロケットの夏」は2030年になっていて、以後の各章はすべて「31年」ずつ原作よりプラスされています。現実の2010年ではまだ火星ロケットは出発していないから、という“配慮”からなのでしょうが、余計なお世話だと私には感じられます。「2010」から「1999」を引き算して「なんだ、未来と言っていながら過去の物語じゃないか」なんて言う人にはこの壮大なファンタジーを楽しむ“資格”は最初からないでしょうから。