今日の読書日記に書いた『カーマ・スートラ』の解説に挙げられているのは、古代ローマの『恋の技法』(オウィディウス)、古代中国からは『素女経』『洞玄子』ですが……私としては「日本の『医心方』(の「房内篇」)もお忘れなく」と言いたくなります。山田風太郎がこの「房内篇」を題材に面白い小説を……は前に書きましたね。
【ただいま読書中】『完訳 カーマ・スートラ』マッラナーガ・ヴァーツヤーヤナ 著、 岩本裕 訳、 中野美代子 解説、平凡社(東洋文庫628)、1998年、2800円(税別)
先日読んだ『インド・新しい顔』によると、ヒンドゥーの神は三神一体で動くことが原則だそうですが、『カーマ・スートラ』も巻頭で「ダルマ(法)アルタ(利)及びカーマ(愛)に礼し奉る。」で始まります。基本は「3つ」です。古代中国が陰陽・五行と「二つ」か「五つ」で世界を把握するのとは基本発想がまったく異なるようです。本書で人生は三つに分割され、少年時代はアルタ、青年時代はカーマ、老年時代はダルマと解脱に専念すべし、だそうです。なんとなく説得力があります。(ついでにプラトンの「知性」「感情」「欲望」に魂を三分割、も思い出しました)
女性の性教育は、実技に関しては“先輩(男性経験を持っている友人や親戚など)”を師とし、さらに「六十四芸」を学ばなければなりません。唱歌・花冠の作り方・化粧・香料の使い方・調理・針仕事・楽器演奏・謎々遊び・水遊び・朗読……などまではなんとなくわかりますが、大工・建築・冶金術・地方語の知識・見取り図作成・作詩・変装・賭博・狩猟の知識、なんてものも必要と言われると、なんだかセックスへの敷居がずいぶん高いものに感じられます。インドに敷居があるのかどうかは知りませんが。ただ、性交に至る前にはまず多人数での宴会とか談笑が行なわれる、と本書では決まっているようで、「教養」はそのために必要な様子です。江戸時代の吉原で太夫が何をやっていたか、をちょいと思い出します。そして、楽しく過ごしている皆の前で女性を口説いて雰囲気が盛り上がったところで他人には退場願って二人きりに、という流れです。
性器の大きさで男女はそれぞれ3種に分別され、したがってその組み合わせは9種類となります。情欲の強さもまた男女はそれぞれ3種で、組み合わせは9種類。持続時間は、男は3種類ですが、女に関しては論争があるのだそうです。
「3」づくしですが、快感の種類は「4」です。従事によるもの・我執によるもの・確信によるもの・感覚の対象によるもの、だそうです。説明が書いてありますが……よくわかりません。キスの快感は我執による、と言われてもねえ。
接吻では、処女への接吻は三種類、それ以外のは何種類あるかな、まあすごいバリエーションで読んでいて圧倒されます。次は爪による掻爬。性交や口唇性交についてもそれぞれのバリエーションと地方による風習の違いとがばしばし説明されます。
そして、口説きの作法。男尊女卑の国のはずなのに、ここでは女性はとても大切にされています。男は細心の注意を持って女性を口説かなければならないのです。で、首尾良く行ったら、こんどは性交の終り方。二人でゆっくり飲食をする、あるいは露台に出て月の観賞(そのとき男は彼女が好む物語をするべし、だそうです)。単に欲望が満たされたらそれでよし、ではない、と。
「愛のいさかい」なんて節もあります。この場合にも、するべきこととするべきではないことが示されます。しかし痴話喧嘩をやってる最中に本書の内容を思い出せるかなあ。
処女が相手の場合には、3夜をかけて徐々に彼女の信頼を獲得しなければなりません(またまた「3」の登場です。)。もっとすごい話もあります。幼女の時から信頼を獲得してじっくりと愛情を熟成させる場合がある、と。気の長い話です。逆に女の方も、「少女に言い寄ること」で記述された女性の振る舞いをきちんと行なうことで望ましい夫を得ることができる、とあります。
人妻の誘惑も「若し男が或る人妻を見て強い愛着を感じ、層一層愛慾の心の昂進するときには、自身の破滅を防ぐために、その人妻に近づくべきである」とさらっと書いてあります。「べき」ですよ。だけど妻への章には「貞淑であれ」です。一体どうしろと? 実はそれは男の責務なのです。他人の人妻は誘惑する、しかし自分の妻妾は他人の誘惑から守れ、と。結局女性は「誘惑されるだけの存在」?
ところが女性には常に“拒否権”がある、というのも印象的です。現実がどうだったのかは私にはわかりませんが、本書によれば、王でさえも女性を王宮に招待して豪華な庭などを見せながら口説いて、それでも女性が同衾を拒否したらすごすごと引っ込むことになっているのです。古代インドの辞書には「強姦」とか「無理強い」という言葉はなかったのかな。
遊女に関してもちゃんと一篇が準備されています。面白いのは「金銭のためにする行動は不自然である。併し、金銭のための場合でも、(その不自然な行動を)自然であるかのように装うべきである」だそうです。理想と現実の両方に目を配った、なんだかとても“現実的”な性典です。
で、最後に「勝れたる婆羅門たちに、幸いあれ」。カーマだけではなくて、ダルマとアルタを知ることが重要、って、若いときには無理なような気がするのですが、結局本書のターゲット読者は、どんな人だったんでしょうねえ。
【ただいま読書中】『完訳 カーマ・スートラ』マッラナーガ・ヴァーツヤーヤナ 著、 岩本裕 訳、 中野美代子 解説、平凡社(東洋文庫628)、1998年、2800円(税別)
先日読んだ『インド・新しい顔』によると、ヒンドゥーの神は三神一体で動くことが原則だそうですが、『カーマ・スートラ』も巻頭で「ダルマ(法)アルタ(利)及びカーマ(愛)に礼し奉る。」で始まります。基本は「3つ」です。古代中国が陰陽・五行と「二つ」か「五つ」で世界を把握するのとは基本発想がまったく異なるようです。本書で人生は三つに分割され、少年時代はアルタ、青年時代はカーマ、老年時代はダルマと解脱に専念すべし、だそうです。なんとなく説得力があります。(ついでにプラトンの「知性」「感情」「欲望」に魂を三分割、も思い出しました)
女性の性教育は、実技に関しては“先輩(男性経験を持っている友人や親戚など)”を師とし、さらに「六十四芸」を学ばなければなりません。唱歌・花冠の作り方・化粧・香料の使い方・調理・針仕事・楽器演奏・謎々遊び・水遊び・朗読……などまではなんとなくわかりますが、大工・建築・冶金術・地方語の知識・見取り図作成・作詩・変装・賭博・狩猟の知識、なんてものも必要と言われると、なんだかセックスへの敷居がずいぶん高いものに感じられます。インドに敷居があるのかどうかは知りませんが。ただ、性交に至る前にはまず多人数での宴会とか談笑が行なわれる、と本書では決まっているようで、「教養」はそのために必要な様子です。江戸時代の吉原で太夫が何をやっていたか、をちょいと思い出します。そして、楽しく過ごしている皆の前で女性を口説いて雰囲気が盛り上がったところで他人には退場願って二人きりに、という流れです。
性器の大きさで男女はそれぞれ3種に分別され、したがってその組み合わせは9種類となります。情欲の強さもまた男女はそれぞれ3種で、組み合わせは9種類。持続時間は、男は3種類ですが、女に関しては論争があるのだそうです。
「3」づくしですが、快感の種類は「4」です。従事によるもの・我執によるもの・確信によるもの・感覚の対象によるもの、だそうです。説明が書いてありますが……よくわかりません。キスの快感は我執による、と言われてもねえ。
接吻では、処女への接吻は三種類、それ以外のは何種類あるかな、まあすごいバリエーションで読んでいて圧倒されます。次は爪による掻爬。性交や口唇性交についてもそれぞれのバリエーションと地方による風習の違いとがばしばし説明されます。
そして、口説きの作法。男尊女卑の国のはずなのに、ここでは女性はとても大切にされています。男は細心の注意を持って女性を口説かなければならないのです。で、首尾良く行ったら、こんどは性交の終り方。二人でゆっくり飲食をする、あるいは露台に出て月の観賞(そのとき男は彼女が好む物語をするべし、だそうです)。単に欲望が満たされたらそれでよし、ではない、と。
「愛のいさかい」なんて節もあります。この場合にも、するべきこととするべきではないことが示されます。しかし痴話喧嘩をやってる最中に本書の内容を思い出せるかなあ。
処女が相手の場合には、3夜をかけて徐々に彼女の信頼を獲得しなければなりません(またまた「3」の登場です。)。もっとすごい話もあります。幼女の時から信頼を獲得してじっくりと愛情を熟成させる場合がある、と。気の長い話です。逆に女の方も、「少女に言い寄ること」で記述された女性の振る舞いをきちんと行なうことで望ましい夫を得ることができる、とあります。
人妻の誘惑も「若し男が或る人妻を見て強い愛着を感じ、層一層愛慾の心の昂進するときには、自身の破滅を防ぐために、その人妻に近づくべきである」とさらっと書いてあります。「べき」ですよ。だけど妻への章には「貞淑であれ」です。一体どうしろと? 実はそれは男の責務なのです。他人の人妻は誘惑する、しかし自分の妻妾は他人の誘惑から守れ、と。結局女性は「誘惑されるだけの存在」?
ところが女性には常に“拒否権”がある、というのも印象的です。現実がどうだったのかは私にはわかりませんが、本書によれば、王でさえも女性を王宮に招待して豪華な庭などを見せながら口説いて、それでも女性が同衾を拒否したらすごすごと引っ込むことになっているのです。古代インドの辞書には「強姦」とか「無理強い」という言葉はなかったのかな。
遊女に関してもちゃんと一篇が準備されています。面白いのは「金銭のためにする行動は不自然である。併し、金銭のための場合でも、(その不自然な行動を)自然であるかのように装うべきである」だそうです。理想と現実の両方に目を配った、なんだかとても“現実的”な性典です。
で、最後に「勝れたる婆羅門たちに、幸いあれ」。カーマだけではなくて、ダルマとアルタを知ることが重要、って、若いときには無理なような気がするのですが、結局本書のターゲット読者は、どんな人だったんでしょうねえ。