昨日のニュース。パンダが到着したと盛んに言っていました。私は昔のことを思い出します。カンカンとランランが到着したときには、本当に日本中が大騒ぎだった記憶があるものですから。だけど今は、現場の記者が「檻の中で、白と黒の動物が動いています! パンダでしょうか!?」と大げさな口調で空騒ぎをしているだけ。
しかし、パンダの檻の中にいるのはパンダだと思います。別に騒ぐことではありません。むしろ、パンダの檻の中にパンダではないものがいた場合に大騒ぎするべきでしょう。マスコミもそろそろ「煽ればいい」から卒業して欲しいものです。
さて、来年にでも、スカイツリーとパンダ見物にでも行こうかな。
【ただいま読書中】『高橋是清伝』高橋是清 口述、上塚司 筆録、矢島裕紀彦 現代語訳、小学館、1997年
著者は安政元年(1854)の生まれですが、生後すぐに仙台藩の足軽高橋家に里子に出されました。父親は幕府お抱えの絵師でしたが母親はそこの侍女で幕府に実子として届けることができなかったようです。
元治元年(桜田門外の変の直後)、仙台藩は若者を洋学修行させることにします。選ばれたのが12歳の著者です。横浜でヘボン夫人に英語を習い、アメリカに留学することになります。しかし著者はヤンチャです。よからぬ者と交際したり大酒をかっくらってせっかくもらった餞別の大金を飲み干してしまったり……って、まだ14歳の時ですよね。で、アメリカではなかなか思うようにならず、とうとう身売りの証文にうっかりサインをしてしまいます。奴隷売買は公式には禁止されていたはずですが、東洋人にはOKだったのかしら。
日本からは明治維新の話が伝わってきます。日本人留学生たちは気が気ではありません。著者も急いで帰りますが、仙台藩は賊軍。著者は一時森有礼のところに身を寄せて教育を受け、明治2年に大学南校(東大の前身)ができるとそこに入学。ところが英語ができるものだから“教える側”に回されてしまいます。さらに、降伏した仙台藩では尊王攘夷派が台頭していて洋学者は危険だったため、森有礼が著者らの身をもらい受けます。かくして著者は鹿児島藩士族森有礼附籍となります。ところがまたヤンチャの虫がうずうずと。著者は茶屋遊びを覚えてしまったのです。身を持ちくずしてしまいますが、そこで唐津藩の英語学校教師の口が。攘夷気分が濃厚な地へ著者は乗り込みます。
東京へ戻ってきたのは明治5年(19歳)のとき。これまでも「運命の変転」を嫌と言うほど味わっているはずなのに、ここからもまたあっちに行ったりこっちに行ったり、著者の運命は大忙しです。酒を飲み過ぎて血を吐いたり、詐欺に引っかかったり、翻訳で大忙しだったり、相場に手を出して大損をしてみたり……ただ、そこで「ちぇっ」でやめないところが著者の性格でしょう。相場を研究しようというので自分で仲買の店を出して実地に金を動かしてみています。そうこうしていたら、またお役所から口がかかり、専売特許所長を拝命。特許の調査研究で欧米諸国を回り、日本の特許制度を整備します。するとこんどは、ペルーの銀山経営の話が降ってきます。山師によって話がふくらみすぎ、結局著者(たち)は大損をすることになります、というか、美味い話で大損をするのは著者はこれで何回目でしたっけ?(新聞は面白可笑しく書き立てますが、内情はけっこうシビアな話が並んでいます)
たとえ金を失うにしても、これまでは再起ができるだけの財産を著者は残すようにしていました。だから官途についても平気で上司と喧嘩できます。いつでもやめられるわけですから。ところがこんどは財産がとことんなくなってしまっています。そこで、官途ではなくて、実業界に著者は出ていきます。日本銀行本館建築の管理です。そこでの働きぶりは、木下藤吉郎のエピソードを思わせる痛快ぶり。ダテにこれまで苦労はしていません。人と金を上手く使うことがどんなことか、著者は身をもって示します。その効が認められ日銀に正式採用、ついで横浜正金銀行に日銀から派遣されます。そして、日銀の内部紛争で危機となったときに副総裁に。日露戦争の戦費調達で外債発行がどのくらい可能かも、戦争のずいぶん前から日本帝国政府が探っていたこともわかります。そして実際に外債を募集する難事業は、著者に任されました。著者は「日本という国そのもの」と「戦争の行方」を危ぶむ銀行などを相手に、担保として提供できる関税や専売の益金をいかに有効に使うかに腐心します。幸い米・英・独で募債は大人気。予定どおりの資金調達ができます。しかし、ポーツマス条約での賠償金なしを不満に思った人による東京での争乱によって、海外の投資家は日本に不安を抱きます。困った著者はパリに飛び、パリ・ロスチャイルド家を説得してしまいます。
印象的なのは、著者が「耳を傾ける姿勢」を示すことです。もちろん主張するべきは頑強に主張する。しかし、情報を広く集め、利益と論理だけではなくて情も重要視した交渉を行なっています。
本書はここで終わりますが、このあと著者は、総理大臣を2回、大蔵大臣は7回もやって(やらされて)います。日本が難局に直面するたびに「あんたしかいない」と言われて。
本書のもとになった『高橋是清自傳』が発行されたのは昭和11年2月9日。「2・26事件」で高橋是清が殺される17日前のことでした。日本が困ったときには「私、事態をこじらせる人、あなた、それを何とかする人」と常に何とかすることを求められ続けた人は、最後に「私、あなたを殺す人」に殺されてしまったのでした。
しかし、パンダの檻の中にいるのはパンダだと思います。別に騒ぐことではありません。むしろ、パンダの檻の中にパンダではないものがいた場合に大騒ぎするべきでしょう。マスコミもそろそろ「煽ればいい」から卒業して欲しいものです。
さて、来年にでも、スカイツリーとパンダ見物にでも行こうかな。
【ただいま読書中】『高橋是清伝』高橋是清 口述、上塚司 筆録、矢島裕紀彦 現代語訳、小学館、1997年
著者は安政元年(1854)の生まれですが、生後すぐに仙台藩の足軽高橋家に里子に出されました。父親は幕府お抱えの絵師でしたが母親はそこの侍女で幕府に実子として届けることができなかったようです。
元治元年(桜田門外の変の直後)、仙台藩は若者を洋学修行させることにします。選ばれたのが12歳の著者です。横浜でヘボン夫人に英語を習い、アメリカに留学することになります。しかし著者はヤンチャです。よからぬ者と交際したり大酒をかっくらってせっかくもらった餞別の大金を飲み干してしまったり……って、まだ14歳の時ですよね。で、アメリカではなかなか思うようにならず、とうとう身売りの証文にうっかりサインをしてしまいます。奴隷売買は公式には禁止されていたはずですが、東洋人にはOKだったのかしら。
日本からは明治維新の話が伝わってきます。日本人留学生たちは気が気ではありません。著者も急いで帰りますが、仙台藩は賊軍。著者は一時森有礼のところに身を寄せて教育を受け、明治2年に大学南校(東大の前身)ができるとそこに入学。ところが英語ができるものだから“教える側”に回されてしまいます。さらに、降伏した仙台藩では尊王攘夷派が台頭していて洋学者は危険だったため、森有礼が著者らの身をもらい受けます。かくして著者は鹿児島藩士族森有礼附籍となります。ところがまたヤンチャの虫がうずうずと。著者は茶屋遊びを覚えてしまったのです。身を持ちくずしてしまいますが、そこで唐津藩の英語学校教師の口が。攘夷気分が濃厚な地へ著者は乗り込みます。
東京へ戻ってきたのは明治5年(19歳)のとき。これまでも「運命の変転」を嫌と言うほど味わっているはずなのに、ここからもまたあっちに行ったりこっちに行ったり、著者の運命は大忙しです。酒を飲み過ぎて血を吐いたり、詐欺に引っかかったり、翻訳で大忙しだったり、相場に手を出して大損をしてみたり……ただ、そこで「ちぇっ」でやめないところが著者の性格でしょう。相場を研究しようというので自分で仲買の店を出して実地に金を動かしてみています。そうこうしていたら、またお役所から口がかかり、専売特許所長を拝命。特許の調査研究で欧米諸国を回り、日本の特許制度を整備します。するとこんどは、ペルーの銀山経営の話が降ってきます。山師によって話がふくらみすぎ、結局著者(たち)は大損をすることになります、というか、美味い話で大損をするのは著者はこれで何回目でしたっけ?(新聞は面白可笑しく書き立てますが、内情はけっこうシビアな話が並んでいます)
たとえ金を失うにしても、これまでは再起ができるだけの財産を著者は残すようにしていました。だから官途についても平気で上司と喧嘩できます。いつでもやめられるわけですから。ところがこんどは財産がとことんなくなってしまっています。そこで、官途ではなくて、実業界に著者は出ていきます。日本銀行本館建築の管理です。そこでの働きぶりは、木下藤吉郎のエピソードを思わせる痛快ぶり。ダテにこれまで苦労はしていません。人と金を上手く使うことがどんなことか、著者は身をもって示します。その効が認められ日銀に正式採用、ついで横浜正金銀行に日銀から派遣されます。そして、日銀の内部紛争で危機となったときに副総裁に。日露戦争の戦費調達で外債発行がどのくらい可能かも、戦争のずいぶん前から日本帝国政府が探っていたこともわかります。そして実際に外債を募集する難事業は、著者に任されました。著者は「日本という国そのもの」と「戦争の行方」を危ぶむ銀行などを相手に、担保として提供できる関税や専売の益金をいかに有効に使うかに腐心します。幸い米・英・独で募債は大人気。予定どおりの資金調達ができます。しかし、ポーツマス条約での賠償金なしを不満に思った人による東京での争乱によって、海外の投資家は日本に不安を抱きます。困った著者はパリに飛び、パリ・ロスチャイルド家を説得してしまいます。
印象的なのは、著者が「耳を傾ける姿勢」を示すことです。もちろん主張するべきは頑強に主張する。しかし、情報を広く集め、利益と論理だけではなくて情も重要視した交渉を行なっています。
本書はここで終わりますが、このあと著者は、総理大臣を2回、大蔵大臣は7回もやって(やらされて)います。日本が難局に直面するたびに「あんたしかいない」と言われて。
本書のもとになった『高橋是清自傳』が発行されたのは昭和11年2月9日。「2・26事件」で高橋是清が殺される17日前のことでした。日本が困ったときには「私、事態をこじらせる人、あなた、それを何とかする人」と常に何とかすることを求められ続けた人は、最後に「私、あなたを殺す人」に殺されてしまったのでした。