日本のあちこちで「三獣苦」とか「四獣苦」とかいう言葉が使われています。サル・鹿・熊・猪に畑を荒らされたりする被害のことですが、「獣」の側からはまた別の主張があるでしょうね。そういや昔は狼が食物連鎖のてっぺんで「山の獣たち」の数を最終的にコントロールしていたのですが、それを滅ぼした以上人間がちゃんと食べることで獣たちの増えすぎをコントロールしなきゃいけないのではないです?
【ただいま読書中】『ベア・アタックス(I) ──クマはなぜ人を襲うか』S・ヘレロ 著、 島田みどり・大山卓悠 訳、 北海道大学図書刊行会、2000年、2400円(税別)
地球上にクマは7種類棲息しています。本書では北米で起きた人間と二種のクマ(グリズリー(またはブラウンベア、和名はヒグマ)とブラックベア(和名はアメリカクロクマ))の遭遇を扱っています。
著者は「遭遇」を「人間とクマとの攻撃的な出会い」という意味で用い、「遭遇」が人身事故につながった場合には「襲撃(アタック)」と呼んでいます。著者が利用した公的なデータは、国立公園局のデータベースで、1872年(イエローストーンが北米で最初の国立公園に制定された年)から1980年までに111件のグリズリーによる「遭遇」があり130人の死傷者が出たことが記録されていました。もちろん国立公園の外でも「遭遇」はありますが、データの信憑性を担保するために著者はこの手法を採っています(もちろん著者は国立公園外の調査もしていますが、データは“参考”程度の扱いとしています)。さらに“現地”を歩き回り、証人から証言も集めます。最終的に信憑性のある記録は、143件の事故で165人の死傷者、となりました。ただ「人間もクマ(グリズリー)も負傷しなかった“遭遇”」も135件見つかりました。
著者はブラックベアとの遭遇は除外していますが、これは人間が負傷するにしても24時間以内の入院加療で済む軽傷がほとんどだったためです。ということは「どのクマとの遭遇か」も重要になります。もっともブラックベアでも例外的に重傷になる場合はあるので「ブラックベアは絶対に安全」とまでは言えないのですが。
著者は、具体的に遭遇の分析を行い、それぞれの対策を考えます。最終目標は「共存(お互いがお互いを傷つけずに生きていける環境の維持)」です。
まずは「突然の遭遇」。野生動物はふつうは敵の気配に敏感です(でないと生存できません)。クマも人の気配を感じると、基本的には逃げます。しかし、出会い頭などの場合には、どちらもパニックになってしまうのです。ここでの対処法は「闘う」「逃げる」が考えられますが、著者は「死んだふり」を推奨しています。クマの視点からは「脅威」が排除されたらそれで襲撃の目的は達成できたわけですから、「脅威」が死んだように静かになったらそれで自分(あるいは子グマ)は安全になった、と納得してくれるかもしれないのです。ただし、本当に死んでいるかどうか確認するためにクマが噛むことがありますが、その時に我慢して静かにしている必要があります。死んだふりにも根性が必要です。それと、もしもクマの腹が減っていたらこれ幸いと食べられてしまうかもしれませんが。
次は「挑発」。グリズリーをわざわざ挑発する人がいるのか、と思ったら、いました。まずはハンター。突然撃たれたら、そりゃクマも怒るでしょう。それから写真家。しつこくつけ回されたらやはり怒るでしょう。クマを捕獲・解放する行為、犬がクマに吠えかかる、もクマは“被害者”ということになります。
「餌付け」の問題は深刻です。わざわざグリズリーを餌付けする人は今はいませんが(かつてはいたそうです)、生ごみを国立公園内に放置する行為は餌付けと同じ、と著者は見ています。その生ごみをあさることを覚えたクマは「エサ=人間」と見なすようになります。まだクマが人を恐れていれば良いのですが、人の姿を日常的に眺めていると「人慣れ」します。その人慣れしたクマが人間の食糧を食べるようになると、危険なのです。ゴミをあさるどころかテントに侵入して食糧をあさりますから(この時テント内の人間は「エサを奪おうとする脅威」とクマに見なされる、つまり「襲撃されるべき対象」となります)。対策として必要なのは「ゴミの適切な処理」「動線の分離」です。キャンプ地や人の移動ルートを、クマの生息地や移動ルートと重ならないようにする(これは固定的なものではなくて、季節によっても変更する必要があります)。
「人を襲う凶暴なクマ」と言うとおどろおどろしい響きですが、どうもその言葉ほど一方的な現象ではなさそうだ、というのが私の印象です。本書には、自分の手からクマに残飯を食べさせようとして結果として小さな傷を負った人間が激怒してそのクマの射殺を公園管理者に要求した、なんてひどい例も紹介されています。