【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

証拠主義

2020-08-23 08:14:18 | Weblog

 証拠の積み重ねで犯罪は立証されます。では検察がその過程でズルをしていないことは、どうやって立証すれば良いのでしょう?

【ただいま読書中】『ゴーンショック ──日産カルロス・ゴーン事件の真相』朝日新聞取材班、幻冬舎、2020年、1800円(税別)

 「リニア談合事件」「文部科学省汚職事件(東京医科大学医学部入試での不正)」「三菱日立パワーシステムズ幹部の外国公務員への贈賄事件(日本での司法取引第一号)」などの大型案件を抱えていた東京地検特捜部に「ゴーンが日産の金を食い物にしている。アメリカ大手法律事務所が調査に乗り出している」という情報がもたらされたのは2018年3月。検察は秘かに動き始め、司法取引をこの案件に適用することにします。
 2010年以降の相次ぐ不祥事(厚生労働局長村木さんを冤罪で立件・証拠のフロッピーディスクを改竄、「陸山会」での報告書捏造)で検察は深い傷を負っていました。検察改革で導入されたのが、「取り調べの可視化」そして「司法取引」でした。アメリカの司法取引は「自己負罪型」で自分の罪を認める代わりに刑が軽くなる制度です(アメリカの刑事ドラマで「さっさと自分がしたことを認めたら死刑ではなくなるようにしてやる」なんて言ってますね)。日本の司法取引は「捜査・公判協力型」で他人の犯罪を明かして代わりに自分は不起訴や刑の減免をしてもらう制度。これに対して警察からは「第三者の引き込み」(自分の刑を軽くするために無関係の第三者を陥れる虚偽の供述をする)の懸念からの反対論がありました。この「冬の時代」には、みんなの党元代表渡辺喜美の借入金問題、元経済産業相小渕優子の政治団体の資金処理問題、元経済産業相甘利明の現金授受問題……すべて強制捜査をしながらも政治家本人は起訴されませんでした。だからでしょう「特捜部は事件をやらない」なんてことも言われていました。
 新しい手法を活かして「検察再生」のシンボルになりそうな事件、それが「カルロス・ゴーン事件」だったのです。日産は検察に協力。逮捕のターゲットであるゴーンとケリーを「会議」を名目に日本に呼びよせます。
 「ゴーン逮捕」を最初に特ダネとして報じたのは朝日新聞。他のマスコミも大騒ぎをしながら追随します。しかし同時に「人質司法」に対する国際的な批判や、「役員報酬隠しは単なる形式犯」という批判も渦巻きます。東京地裁は勾留延長を却下。検察は「特別背任罪で3度目の逮捕」という荒技で勾留を延長させます。ただ、日産内部では、「これでやっと日産が“被害者”になった」という安堵感も流れました。役員報酬隠しだけだったら、日産も“共犯”ですから。次の保釈請求は「逃亡の恐れあり」と地裁が却下。弁護士の交代という“ドラマ”が差し挟まれ、逃亡しにくいようにいろいろ条件を整えての保釈請求はこんどは認められます。そういえばあのときの「変装による釈放」もまた一つの“ドラマ”でしたね。
 この頃から海外マスコミの論調が変化し始めます。絶対的な味方だったはずのルノーは「ルノーの資金をゴーンが私的に流用」と発表。他にも様々な「私的流用」が報じられます。そして、4度目の逮捕。今度の容疑は、巨額の資金を中東の日産子会社からワンクッション置いて自分の口座に入れていたことです。このへんの話では「100万ドル」や「1000万ドル」が「単位」として使われていて、読んでいるこちらは頭がくらくらしてきます。そしてついに、まるでスパイ映画のような国外脱出劇。
 日産はもともと「権力者」に支配されやすい会社なのだそうです。その実例が30年以上前に遡って描かれていますが、いやいや、これはまるで全体主義国家だわ。日産OBは「危機になると英雄が現れて会社を救うが、やがて独裁者となり、最後は排除される」と過去を振り返って言っています。ということは「歴史は繰り返す」のかな?

 


19世紀に統一

2020-08-23 08:14:18 | Weblog

 イタリアとドイツは多くの「国」からできていましたが、19世紀に統一されました。その両国から20世紀にムッソリーニとヒトラーが登場したのは、なにか共通するものがあるのかな、とちょっと不思議に思えます。そういえば日本も19世紀にばらばらの藩幕体制から「日本」へと“統一”されました。もちろん「因果関係」はないでしょうが、日独伊三国同盟がすべて「19世紀に統一された国」というのは、本当に不思議な気がします。

【ただいま読書中】『一冊でわかるイタリア史』北原敦 著、 河出書房新社、2020年、1700円(税別)

 紀元前7世紀ころにイタリアにはすでに「ローマの都市」が築かれていました。やがて古代ローマがローマを中心として発展。このイメージが強いため、イタリアと言えばつい「ローマ」と答えたくなりますが、ローマ帝国滅亡後イタリアは長い間いくつもの国家が乱立し、それが統一されたのは19世紀になってからでした。
 中世イタリアでは都市での商業が発展し、その結果封建領主ではなくて商工業者が力を持つようになり、多数の自治都市が生まれました。神聖ローマ皇帝とローマ教皇は対立していましたが(その代表例が「カノッサの屈辱」)、自治都市は教皇との結びつきを強めていきます。12世紀にフリードリヒ一世はイタリア遠征を2回行いましたが、北部の自治都市はロンバルディア同盟を組んで勝利します。南部では、東ローマ帝国領やシチリア島のイスラム領がありましたが、聖地エルサレムへの巡礼としてやってきたノルマン人が傭兵として戦い、そこに神聖ローマ皇帝ハインリヒ三世が南イタリア遠征を行い、最終的にノルマン朝「シチリア王国」が成立します。
 15世紀に東ローマ帝国が滅亡。オスマンに対する危機感を強めたイタリア各都市(特にヴェネツィア、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、教皇国家、ナポリ王国)は争いをおさめて「ローディーの和約」で平和を維持することにします。しかし1494年イタリア戦争が勃発。フランス王国が攻め込んだ戦争ですが、1559年までこの戦争は続き、さらにはスペインや神聖ローマ帝国が次々イタリアに攻め込むことになります。
 18世紀初めのスペイン継承戦争では、スペイン、フランス、イギリス、オーストリアがそれぞれの思惑で軍事行動を起こし、シチリアはオーストリア、サヴォイア家はシチリアからサルデーニャ島に移ってそこを王国とします。18世紀にはヨーロッパで啓蒙主義が盛んになりますが、イタリアでの啓蒙主義はあくまで君主制の枠組みを残した社会改革を目指していました。ところがフランス革命でジャコバン派の思想がイタリアに伝わりジャコビーニと呼ばれる人たちが「共和制への移行」「イタリア統一」を訴え始めます。これが19世紀には「イタリア統一運動」につながります。
 イタリアの国旗は三色旗で、フランスのものとよく似ています(実際、フランスの青を緑に置き換えたらそのままイタリアの国旗です)。これは1796年にナポレオン・ボナパルトがイタリア遠征で、オーストリアに支配されていた北イタリアの諸都市を“解放”したことによります。北イタリアに建国されたチスパダーナ共和国では、緑・白・赤の三色旗が用いられ、それがイタリア国旗の原型となりました。
 ナポレオン後のウィーン体制ではイタリアは基本的に「ナポレオン前」に戻されました。しかし人々の意識は元に戻らず、各地で革命が勃発、とうとうオーストリア占領地で独立(とイタリア統一)運動が始まります。1848年の第一次イタリア独立戦争はオーストリア軍の大勝利(それを称えたのが「ラデツキー行進曲」でしたね)。しかし「第一次」と後世呼ばれるということは「第二次」があるわけです。「第一次」のあともイタリア各地では反乱が相次ぎ、オーストリア軍やフランス軍が“活躍”することになります。しかし、サルディーニャ王国はフランスのナポレオン三世と同盟を結び、1859年にオーストリアに宣戦。戦闘では勝利するもののナポレオン三世がすぐ腰砕けになって勝利は中途半端なものに。それでも「イタリア統一運動」は進み、サルデーニャ王国・教皇国家・シチリア王国とオーストリア領(ヴェーネトを中心とした地域)の4つに「イタリア」は集約されます。この時ローマを守備するのはフランス軍。軍事行動がフランスを刺激してまた介入されないように、細心の注意が必要です。まずは穏やかにサルデーニャ王国がたの王国を合併する形で「イタリア王国」を建てます。残るはオーストリアとローマ教皇領。1866年にプロイセンと組んでオーストリアと戦争。イタリア軍に勝利はありませんでしたが、プロイセン軍が勝ったため、ヴェーネト併合に成功。1870年に普仏戦争が始まるとフランス兵は急遽帰国。その隙にイタリア軍はローマを占領します。領地を奪われた教皇はとっても不機嫌になりますが、ともかく「統一イタリア」の誕生です。
 第一次世界大戦でイタリアはドイツとの三国同盟を破棄して英仏側につきます。オーストリアに占領され続けている「未回収のイタリア(トレンティーノとトリエステ)」に関するわだかまりが主因、と本書では分析されています。「戦勝側」となったものの「未回収のイタリア」については完全な満足は得られず、イタリア国内では政府に対する不満が噴出。それを背景として勢力を伸ばしたのがムッソリーニとファシストでした。そしてそのやり口を手本としたのがヒトラー。第二次世界大戦当初、ムッソリーニは静観をしましたが、ドイツ軍のフランス侵攻を見て“勝ち組に乗る”ことにします。しかし連合軍のシチリア上陸をきっかけにムッソリーニは逮捕されます。そこに介入したのがヒトラー。それに対してパルチザンは連合国軍と協力して戦い……ということで最終的にイタリアは「戦勝国」になるわけです。
 EUの前身EC(ヨーロッパ共同体)ができたときイタリアはその最初のメンバーでした。たくさんの「国」から「統一イタリア」を作りあげた経験が、たくさんの「国」から「EU」を作ろうとする試みに活かされたらよいのですが。

 


正義を使った後(跡)

2020-08-23 08:14:18 | Weblog

正義を使った後(跡)
 「正義」って、使えば使うほど減っていく一種の消費資源ではないか、と思うことがあります。それを大量に使った人の姿を見ると、「正義を消費したあと」には、良くて「虚無」悪いと「悪徳」がはびこっているように見えるものですから。

【ただいま読書中】『戦場の素顔 ──アジャンクール、ワーテルロー、ソンム川の戦い』ジョン・キーガン 著、 高橋均 訳、 中央公論新社、2018年、4800円(税別)

 陸軍士官学校の教官を務めている著者は、自分が会戦を経験していないことに、一種のコンプレックスを抱いていました。そこで著者は「会戦の素顔」をのぞき込むために、大まかな武器の分類に従って史料が豊富に残されている三つの会戦を選び出しました。アジャンクール会戦(手持ち武器)・ワーテルロー会戦(単発投射武器)・ソンム川会戦(多発投射武器)です。すべて「イギリス軍」が関係した会戦ですね。
 1415年10月25日アジャンクール。私はここで「イチイの長弓」と叫びます。大陸側の領有権を主張するヘンリー五世は、イギリスから8000の弓兵と2000の鎧武者と共に渡海、フランスのアルフルールの包囲戦を始めます。町は陥落しますが、そこにフランスの援軍がやって来て、ヘンリー王はとっととイギリスに帰ろうと移動を開始。しかしフランス軍もずっとつきまとい、とうとうアジャンクールで会戦が始まります。ここで著者はさまざまな疑問を持ちます。弓兵の配置は?(その間隔をインチ刻みで考察します) 命令はどのように伝達されたのか? 騎乗者を失った馬はどのように行動していたか? 戦闘に先立ってイギリス弓兵は馬防柵となる杭をそれぞれ地面に打ち込んだが、200m離れたところでそれを見ていたフランス軍はその時間的余裕をなぜ与えたのか?
 甲冑を着込んだ徒歩の武者がぎゅうぎゅう詰めで敵に突進する場合、転倒は致命傷となります。20kg〜30kgの板金製の甲冑は重しとなって武者は自力で立ち上がるのが困難となるだけではなくて、友軍の突進の障害物になってしまいます。さらに、矢を撃ち尽くした弓兵は別の武器(刃物や戦斧や槌)で地面に横たわった装甲兵を容易に屠ることができました。
 ウェリントンは「ワーテルロー」を文学や歴史に仕立てようとする試みを拒絶しました。あまりに複雑で正確な描写などできるはずがない、と。実際、「兵士の視点」「将軍の視点」「観客の視点」などから「会戦」はすべて違う様相を示すことになります。「ワーテルロー会戦」は「五つの局面」で説明されることが多いのですが、その時戦場にいてそのように全体を把握していた人は、皆無でした。敵の銃火を浴びながら3度も位置を変えて戦い続けていた連隊で、敵の姿を見ないまま負傷した将校の証言を聞くと、「会戦の全体像」をつかむのは大変だ、と思えます。それでも著者は、なんとか「会戦の素顔」を見つけようとします。
 印象的なのは「五感の駆使」です。兵士たちの空腹、靴擦れの傷み、あたりを満たす音やにおいなどを著者は描写します。たとえば隊列を組んでの待機状態で列を離れることが許されなかった場合、兵士たちはその場で排尿排便をするしかなかった、といった描写では、戦場が戦いの前から悲惨な地面となっていたことが簡単に想像できます。いや、そんなところに身を置きたくはないな。
 「一騎打ち」は騎士の晴れ舞台です。ところが「会戦」ではそんなものの出番はない、と思ったら違いました。アジャンクールでも、黒色火薬による戦闘の頂点に位置するワーテルローでも、騎兵は一騎打ちの機会を探していたのです。第一次世界大戦ではさすがにもうなくなったかと思うと、戦闘機同士の一騎打ちがありましたね。第二次世界大戦でも戦闘機同士、それと戦車同士の一騎打ちがあります(そもそも戦車乗りは騎兵の末裔です)。「まとめていくら」と“命の値札”をつけられることに抵抗する人はどの時代にもいる、ということなのでしょう。
 ソンム川の会戦を特徴付けるのは、機関銃と塹壕でしょう。華々しい一騎打ちなど望むべくもありません。また馬もいないので、会戦で戦われる組み合わせはワーテルローよりは単純になります。つまり「砲兵対砲兵」「砲兵対歩兵」「歩兵隊歩兵」です。おっと「歩兵対機関銃兵」も必要です。そこで“再現”される戦場の様相は、もう読むだけで泣きそう。『西部戦線異状なし』などでもしっかり描かれていました、あれが「実話」であることの意味が本書でよくわかります。