「頑張る凡人」は「頑張る天才」には勝てません。でも「頑張る凡人」は「頑張らない凡人」には勝てますし、もしかしたら「頑張らない天才」にも勝てるかもしれません。
【ただいま読書中】『女系図でみる驚きの日本史』大塚ひかり 著、 新潮社(新潮新書735)、2017年、760円(税別)
『平家物語』では「平家は滅亡した」とありますが、「男系」ではなくて「女系」に注目したら、全然滅亡なんかしていない、と本書は始まります。むしろ源頼朝の方が、鎌倉時代に直系の子孫が滅亡してしまっていて、どちらが勝者やら、なのだそうです。
「家系図」と言うとついつい「嫡男」だけに注目してしまいますが、「当主」と「どの女性」との間にどのくらいの子孫ができたか、で家系図を書き直したもの(著者が言うところの(どの母の子であるか、を重視する)「女系図」)で見ると、世間一般の“常識”とは違う世界が見えてくるのだそうです。一夫多妻で産まれた子供は母方で育つ母系社会では同じ兄弟でも「母方の力」で出世に差が生まれますし、「天皇家の歴史」もまた「母系の地位獲得競争の歴史」として再編可能になるのです。
平安京が造営される前、山城国は「渡来人の里」でした。全人口の約30%が渡来人だったのです。そこに遷都した桓武天皇は、母親が渡来人(百済の王族の末裔)で、「卑母」が理由で立太子に反対され続けていた、という“事情”を持っていました。桓武天皇は「百済王等は朕が外戚なり」(続日本紀)と百済王氏(百済からの亡命者たち)を厚遇し、妻(子供を産んだだけで21人、一説には26人)に渡来人が6人もいる、という渡来人びいきでした。その中には「百済永継」という女性もいますが、もともと藤原内麻呂の妻で真夏や冬嗣(道長の先祖)を産んでいましたが、女官として使える内に桓武に愛されて皇子(良岑安世(よしみねやすよ、僧正遍昭の父))を産んでいます。桓武を中心とした女系図が図示されていますが、見開き2ページを使っても全部は描けない、という“壮大さ”です。
継体天皇は、応神天皇(大王)の5代の末、という“格下”扱いだったため、越前から迎えられても河内に20年足止めされて大和に入れませんでした。そこでとった戦略が、継体・安閑・宣化と父と息子二人の三代の天皇がみな旧王朝の皇女たちを皇后にすることでした。この「女の力」によってやっと継体王朝は大和の豪族たちに“公認”されたのです。
雄略天皇も記紀ではとんでもなく暴虐な暗君扱いですが、暴力的な専制君主ではなくて、兄や従兄弟の大王候補を次々殺して即位したためか、政権の基盤は実は不安定だったようです。それが現れているのが「葛城一言主之大神(古事記)」(日本書紀では「一事主神」)との出会いのエピソード。大和では由緒ある葛城氏(の神)を自身の後見として扱おうとしています。また、仁徳天皇の皇女や葛城氏の娘を妻にすることで、「女系」による政権基盤強化を行おうとしていました。
貴族の世界では「腹」が重要でした。女性には「中宮(皇后)」「女御」「更衣」という序列がありますが、そのどこから産まれたのかを「后腹」「女御腹」「更衣腹」と表現したのです。たとえば『源氏物語』では、柏木が身分が足りずに更衣腹の女性としか結婚できなかったのが不満で、女御腹の女三の宮を犯してしまうシーンがあります。ところが女三の宮から産まれた薫は女御腹の皇女との結婚にも不満で「これが后腹だったら」と夢想しています。さらには「外腹(正妻以外の母親から産まれた子供)」「劣り腹(劣った身分の母親の子供)」なんてひどい言葉も堂々と使われていました。この「腹」を利用したのが、藤原道長。彼は受領の娘から産まれた“格下”にもかかわらず左大臣の正妻腹の源倫子にプロポーズ。倫子の父は当然大反対ですが、母親(藤原穆子)は夫の反対を押し切って「道長には見所がある」とこの縁談を進めてしまいます(女権家庭ですね)。めでたく結婚すると「妻の実家にふさわしい身分を」ということになってどんどん出世。つまり藤原道長は「逆玉」大成功だったわけです。
外戚政治の時代には「娘の性」を使っての権力闘争ですが、天皇の「父」が権力を握る院政時代には男色が盛んになっています。本書にその相姦図がありますが、見ていて頭がくらくらします。どちらにしても「性と政」が密接に関係している、という点は共通なんですけどね。
平安貴族の性の世界は、複雑です。一夫多妻ですが、女性の方も複数の愛人を持ったり離婚再婚を繰り返したり、けっこう性的に“乱れた”生活をしています。白河院は、養女の待賢門院璋子を犯してから孫の鳥羽院の嫁としました。さらに、公的には鳥羽院と璋子の息子である崇徳院は実は白河院の実子である、という奇々怪々さです。だから鳥羽院は崇徳院のことを「叔父子(叔父であると同時に子)」と呼んでいたそうです。こういった同族内での性的関係のややこしさは、崇徳とその弟後白河が対立した保元の乱にも絶対に悪い影響を与えていますよね。
鎌倉時代もすごい。後醍醐天皇の母談天門院忠子は後宇多天皇との間に4人の皇子女をもうけました(第二皇子がのちの後醍醐天皇)。しかしその後後宇多天皇の父亀山院が忠子を“召し取りて”自分の愛人にしてしまいました。息子の嫁を奪ってセックスしますか?(似たエピソードが登場する手塚治虫の『奇子』を著者は嬉しそうに紹介してくれます)
ちなみにこの忠子、平清盛の子孫です。たしかに平氏は滅亡してはいない、どころか、ますます盛んだった
いやあ、著者には『本当はエロかった昔の日本』という著作もありますが、たしかにとってもエロかったようです。で、これが「日本の伝統」なら、現在の日本の支配階級の世界でも、似たことは盛んに行われているのではないでしょうか。「男系図」ではなくて「女系図」で現在の日本の政界とか経済界とかを描いてみたら、面白いことがわかるかもしれません。