【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

○の名前

2010-09-19 18:18:16 | Weblog
「エスキモー(イヌイット)は雪の名前を○種類持っている」という文章は、“伝言ゲーム”で「○」の部分の数字がどんどん大きくなっていった、という話をきいたことがあります。実際に聞き取り調査をしてみたら“真実”はわかると思うのですが、誰かきちんとやってみませんか?

【ただいま読書中】『雨の名前』高橋順子 著、 佐藤秀明 写真、小学館、2001年、2400円(税別)

面白い本です。「日本にはこんなに『雨の名前』がある」と辞書的に列挙するだけではなく(もちろん本書の多くの部分はそういった「列挙」ですが、その解説が一つ一つ入念に手を入れられています)、著者のエッセイや古い和歌の引用が効果的にはさまれ、さらに各ページにきれいな「雨の写真」が載せられています。この写真がまた「苦労しただろうな」と思うものです。撮影の時にはずぶ濡れになるでしょうし、「雨の写真」といっても、漫然と撮影したらただの「妙に薄暗い風景写真」にしかなりません。だからといって「雨粒」をアップで撮るだけではしかたない。文章の内容とも響きあうように、さまざまなバリエーションで撮影された写真をぼーっと見ているだけでも、幸せになれます。
本書は、各季節ごとに分けられた章が4つと、最後に「季(とき)知らずの雨」の全5章で構成されています。索引を見ると、「雨の名前」が5ページにわたってぎっしりと、421も挙げられていました。知らない言葉も多いのですが、それでもなぜか馴染みを感じます。私個人がそういった雨の多くを経験してきたからでしょう。そして、写真をながめていると、「雨」は日本では、単に「気象現象として」だけではなくて、季節や風土とも密接に言葉を介して結びついていたものなんだなあ、と感じることができます。別に知識だ教養だ、と身構えなくても、ぼんやりと感覚的に「日本の風土」を身近に感じる時間を楽しめる本でした。


グル?

2010-09-18 18:42:19 | Weblog
冤罪事件やとんでもない判決が後日わかる、ということはよくあります。で、新聞などでは「元被告」は盛大に顔や私生活をさらされますが、その人を無実の罪に陥れようとした人のデータは一切伏せられます。これは記者クラブなどでふだんお世話になっているから「ご恩返し」ということなのでしょうか。
「社会的制裁を受けているから、刑はちょっと割引ね」ということが裁判ではけっこうあります。つまり「社会的制裁」は司法の世界では“公認”されているわけです。では無実の人間の人生に取り返しのつかない大損害を与えた人間に、何の社会的制裁も与えられないのは、逆に不平等なのではないでしょうか。

【ただいま読書中】『虐殺器官』伊藤計劃 著、 早川書房(ハヤカワ文庫JA984)、2010年、720円(税別)

アメリカ合衆国情報軍の特殊検索群i分遣隊に所属するシェパード大尉の主な任務は、暗殺でした。優秀なスパイで(CIAをアマチュア、と馬鹿にしています)優秀なプロファイラー、軍事顧問、そして殺戮機械です。
世界は発狂していました。世界各地で内戦が続発し、そのどこでも虐殺が行われているのです。アメリカは“火消し”にやっきになります。世界が不安定なのは「世界の警察」の沽券にかかわりますし、自国の不利益にもつながる、という判断からです。しかし大規模な軍隊の介入を続ける体力はアメリカにはありません。そこで活用されるのが、民間軍事会社と、シェパード大尉らによる暗殺でした。虐殺を行なっている首謀者だけを選んで排除することで、その地域の安定を取り戻そう、というねらいです。
超人的な活動でミッションを次々成功させるシェパードたちですが、彼らの手をきわどくすり抜け続ける標的が一人だけいました。ジョン・ポールというアメリカ人です。やがてシェパードは、内戦状態から平和な地域に復活した国が世界にそれをPRしようと広告会社のジョン・ポールを雇うと、やがてそこは必ずまた内戦と虐殺が起きることに気づきます。ジョン・ポールが虐殺の元凶? でも、どうやって?
その手段は意外なものでしたが、まあ、これまでのSFで見たことがあるものです。しかしその動機は……本書がミステリーとしても高く評価を受けるわけは、読んだら分かります。さらに、貧困・内戦・ゲリラ・テロ・子ども兵・監視社会など、「現在の世界の問題」もたっぷり盛り込まれています。
ただテーマは重いのですが、文章自体は非常に読みやすく書かれています。明快で簡明な構造を持った文章が積み重ねられているのですが、これはおそらく著者の思考が明快であることの反映でしょう。
ただ、中盤まで緻密に組み立てられていた話が、最後で詰めの甘さを感じさせるものになってしまいます。ナノテクのカモフラージュがいつの間にかスイッチが切れていたり、同僚や母親の扱いがおざなりになってしまったり。さらにラストは……シェパードの母語は英語なんですよねえ。彼の意図を越えて、影響は全世界に及んでしまうのではないかなあ。
とまあ文句を言いましたが、どきどきするくらい面白いSFのようなミステリーのような社会派小説のようなものを読みたかったら、本書をどうぞ。



スロー

2010-09-17 17:43:41 | Weblog
ここまでハイテクの時代なのですから、民生用の高機能高速度カメラがどんどん出てきてもいいんじゃないでしょうか。スーパースロー再生の需要は世間ではけっこう多いような気がするのですが、私がしらないだけ?

【ただいま読書中】『イエズス会士中国書簡集(3)乾編』矢沢利彦 編訳、 平凡社(東洋文庫210)、1972年、2800円(税別)

康煕帝は宣教師たちに(たとえばマラリアの治療などで)“借り”があり、その活動を黙認しました。その後継雍正帝は、キリスト教を禁教としましたが、それまでのいきさつを知っていたためか、地方の宣教師の追放などはしましたが、いわば“国内問題”として処理をしようとしていました。しかしさらに次の乾帝は、一切の遠慮をしません。彼にとって外国人宣教師は、子どもの頃から見慣れた“宮中奴隷”の一種だったのです。その特殊技能(機械工作、建築技術、絵画)は皇帝のために生かすべきものだから盛んに奉仕させますが、布教は禁止しました。ただし「信仰の自由」はあります。「ヨーロッパ人がキリスト教を信じる自由」と「シナ人がシナの宗教を信じる自由」は。でも「布教の自由」はありません。信者は棄教を強制されそれを断ると拷問をされ、さらには宣教師も何人か死刑になりました。
本書に収載された書簡のほとんどはこうした「迫害」に関するものです。ただ、お口直しというかな、ちょっと変わった話題も少し混ぜられています。第4書簡は「漢文書籍」に関するもので、キリスト教について述べたパンフレットがいかに信者開拓に有効か(特に文字が読めるインテリに対して説得力が高いこと)が述べられています(それを将軍吉宗は知っていたのでしょうかねえ、享保の改革で漢訳洋書輸入解禁がされますが、キリスト教関係は厳しく禁止、となってます)。ただ、当時はなぜか「聖書」の漢訳は行なわれなかったんですよね。本家本丸の“文献”をどうして中国人に紹介しなかったのか、不思議です。
第12書簡はシナの結婚制度についてです。花嫁は持参金を全然持っていかず、逆に花婿側が結納金を支払うのは不思議だ、と宣教師は首をひねっています。さらに「家制度」によって「養子縁組」が盛んなことにも。また妾が公認されているのに「一夫多妻」は認められない(「正妻」は一人だけで、妾には何の権利もない)ことにも宣教師は驚きます。(「一夫多妻は、ある意味では中国においての方がヨーロッパの国々の多くにおいてよりも認容されていないのです」という記述があります) 略奪婚の禁止、離婚の法的条件、再婚の条件、婚約期間に服喪に入った場合にどうするか、など、細かい規定が紹介され、当時の清が文化的に成熟していたことがうかがわれます。イエズス会士にはただの異教徒のヘンテコな風習にしか思えなかったでしょうけれど。さらに、嗣子の結婚は、息子が父の跡を継ぐこと=父の死を暗示する意味があるので、喜びよりも悲しみの彩りが新郎の家を支配している、という指摘には私はうなります。ただ脳天気に「めでたいめでたい」ではなかったんですね。


火星年代記

2010-09-16 18:59:27 | Weblog
今からン十年前、大学受験のために単身上京した私は「少しは勉強しようか」と図書館に出かけました。忘れもしない、田町駅のすぐそばにある港区立三田図書館です。でまあ“気分転換”しようと本棚の間をうろついたらとても強力な呼びかけをしてくれた本がありました。それがブラッドベリの『火星年代記』です。半日読みふけりました。
結局翌日の受験は……結果は秘密です。

【ただいま読書中】『火星年代記』レイ・ブラッドベリ 著、 小笠原豊樹 訳、 早川書房、1970年

1999年1月「ロケットの夏」で本書は始まります。火星への探検隊が出発したのです。しかし、第一次も第二次も、探検隊は行方不明になります。このあたりのお話は、抱腹絶倒。
第三次探検隊は、用心のために前の二つの探検隊の着陸地点のまるで反対側に着陸します。彼らが発見したのは数十年前のアメリカの田舎町でした。そこで彼らは、すでに死んだはずの懐かしい人々に再会し、全滅します。
そして第四次探検隊。彼らが発見したのは、死に絶えた町でした。火星人たちは、地球から持ち込まれた病気によって、全滅していたのです。地球人は、火星人を(意図せずとはいえ)殺したあと、火星そのものも壊し始めます。遺跡を破壊して町を作り、自然を改変して地球人が住める環境にしていくのです。移民が続々と到着し、「火星」は変わっていきます。
かろうじて生き残った火星人は、まるで幽霊のように出現しては消えます。地球人はそういった「過去の亡霊」は無視して開拓を続けていきますが、地球で原子戦争が勃発。人々はカバンを買い地球へと急ぎます。しかし「沈黙の町」と似たシチュエーション(人々が消えた町、ひとりぼっちの男、急になり出す電話)で私が思い出すのは『こちらニッポン…』(小松左京)ですが、物語の展開が全然違うのが笑えます。「沈黙の町」はひたすらビターなのです。
そして2026年。懐かしい名前が次々登場する「長の年月」では、過去の作品でも登場したロボットのモチーフが形を変えて静かに語られ、「百万年ピクニック」ではから逃げてきた一家の前に「火星人」が登場します。「火星人たちは、ひたひたと漣波の立つ水のおもてから、いつまでもいつまでも、黙ったまま、じっとみんなを見あげていた。」という文章にたどり着き、私は小さく震えます。
本当はこの物語は、100年くらいかけて語られるべきファンタジーだったのではないか、と私には思えますが、それは「もっとこの世界に浸っていたい」というファンの望みすぎなのでしょう。「27年間」に凝縮されたからこそ本書は「SF歴史物」ではなくてファンタジーとして成立したのかもしれません。
なお、最新の文庫本では「ロケットの夏」は2030年になっていて、以後の各章はすべて「31年」ずつ原作よりプラスされています。現実の2010年ではまだ火星ロケットは出発していないから、という“配慮”からなのでしょうが、余計なお世話だと私には感じられます。「2010」から「1999」を引き算して「なんだ、未来と言っていながら過去の物語じゃないか」なんて言う人にはこの壮大なファンタジーを楽しむ“資格”は最初からないでしょうから。


驚き

2010-09-15 18:23:21 | Weblog
6年半ぶりに政府・日銀が市場に介入したニュースで「市場は驚きを持って迎えた」なんて言っていました。「すべては折り込み済みで介入しても誰も驚かなかった」だと介入の意味はありませんから、「驚いた」ことは別に“ニュース”にはならないのでは? そんなことをことさらに言わなくても、その後の為替の動きを見たら介入が成功か失敗かはわかるのですから。

【ただいま読書中】『これからの「正義」の話をしよう』マイケル・サンデル 著、 鬼澤忍 訳、 早川書房、2010年、2300円(税別)

私は基本的にベストセラーには手を出さないことにしていますが、『ノルウェイの森』(村上春樹)に登場する「読む小説は作者が死後30年以上のものだけ」と決めていた永沢ほど強い態度でもないので、本書には手を出すことにしました(『ノルウェイの森』を読んでいる時点で私がそのような“原則”を持っていないことは明らかなのですが)。そもそも本書は小説ではありませんが、私は小説でも専門書でも絵本でも“差別”はしないことにしているものですから。

著者は最初にこう述べます。「ある社会が公正かどうかを問うことは、われわれが大切にするもの──収入や財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉──がどう分配されるかを問うことである。公正な社会ではこうした良きものが正しく分配される。つまり、一人ひとりにふさわしいものが与えられるのだ。難しい問題が起こるのは、ふさわしいものが何であり、それはなぜかを問うときである。」
この「分配」にアプローチする観点は「幸福(の最大化)」「自由(の尊重)」「美徳(の涵養)」の三つです。この3つは、お互いに干渉したり矛盾することがあるのですが、本書ではこの3つのアプローチの強みと弱みが探られていきます。
まずは「幸福」に関して、ベンサムの功利主義の登場です。「効用」という一種の“通貨”によってあらゆるものは定量的に比較可能になると言うのです。そしてベンサムに加えられた反論(「個人の尊厳と権利を踏みにじる」「正しい“計算”ができるのか」)に対してミルは「効用」に価値判断を持ち込むことでベンサムを擁護しようとしましたが、それはベンサムの原則(無差別に効用を用いる)を損ねた、と著者は述べています。
ついで「リバタリアニズム(自由至上主義)」の登場です。
私個人は誰かに何かを押しつけられることが嫌いなので、リバタリアンの主張には親和性を感じます。たとえば「所得税は強制労働と同じ(収入の30%課税は、その人の労働時間の30%を国のために強制労働させるのと同じ。つまり国家はあなたを部分的に所有している)」にも納得します。ただ、「他人を援助することを強制する(制度としての社会福祉)」も全否定されると、それは社会にとってかえって有害ではないか、とも思えますが。ともかく「自己所有権(自分の体は自分のもの)」の考え方は、リバタリアンだけではなくて、福祉国家に共鳴する人にも人気があります。ところがそこに著者はまたきわどい“変化球”を投げ込んできます。たとえば臓器売買、たとえば自殺の幇助、たとえば合意に基づく食人。
ここでも著者はきわどい議論を繰り広げます。徴兵と志願兵と傭兵とは、どこが違ってどこが同じなのか、の議論展開など、読んでいてどきどきします。たとえば「金を払えば兵役が免除されるとして、それと同じことを陪審員制度に適用できるか」というところなど。
イマヌエル・カントは、功利主義を認めません。快楽と苦痛だけではなくて、理性も人間は持っている、とカントは主張します。そして「自由」とは「自律的に行動すること」である、と。このカントの言う「自律的」の定義は本当に厳しいものです。
そしてロールズの登場。自由を尊重するが、正義に関してはリバタリアンの主張を否定する人です。彼の主張もまた、「普通の正義の概念」とはちょっと変わっています。たとえばロールズは「格差原理」を言います。機械的な平等ではなく、かれは「格差」の存在を認めます。ただしその「個人の天賦の才」を「全体の資産」と見なすのです。「個人の努力」でさえロールズは「個人だけのもの」とは見なしません。これは刺激的な主張です。また「社会契約」についてもロールズは見直しを求めます。もしも社会の成員が全員「無知のベール」をかぶったとしたら(契約後、自分が社会のどこに位置するかが不明な状態だったとしたら)そこでの決定はどうなるだろうか、と。ロールズは「基本的自由を全員に平等に認める」「社会的不平等は、社会で最も不遇な立場の人の利益になる場合にだけ認められる」となるだろる、と主張します。
突然アリストテレスの「目的」が登場します。これはこれでまたきわどいお話ですが、ロールズはアリストテレスの考え方を退けます。「アリストテレスの目的論では、人間の自由がなくなる」と。そして「コミュニタリアン(共同体主義者)」が紹介されます。現代リベラリズムを批判し、「目的」や「愛着」を捨象(度外視)しては「正義」を論じることはできない、と主張しました。但し彼らは(共同体絶対優先の)全体主義者ではありません。共同体の道徳的な重みを認めると同時に人間の自由を実現しようとしているのです。
賛否両論が渦巻くこの世界で「正義」について論じるのはしんどいことです。しかし著者は、(他からの押し付けではない)自分の考えを持つこと・議論をすること・不一致を受け入れること、を主張します。そして「これが唯一の正解だ」というものは存在しない、と指摘し、そして著者の「これが唯一の正解だ」を提示しません。徹底しています。

アリストテレスやカントの考え方が、実は現代にも生き残っていて重要な影響を与えていること、の指摘や、ロールズという私にとっては耳に新しい人の紹介がある点で、本書は私にとっては重要な書になりました(もしかしたら著者が本書を著した目的の一つは、「ロールズをもっと世間に広めること」があるのではないか、と私は“邪推”しています)。



政党名

2010-09-14 18:40:18 | Weblog
「名は体を表す」と言いますが、主張をそのまま政党名にしたらわかりやすくて良いかもしれない、と思いました。たとえば、「共産主義で行こう」が共産党になるように「資本主義で行こう」は「資本党」。「全家庭に神棚を祭れば日本は良くなる」だと「神棚党」。「愛国者の集まり」は「愛国党」ですが、これは「この政党に属さない人間は全員非愛国者だ」と取られると敵を多く作りそうです。「勤勉党」「孝行党」はそのままわかりますね。

【ただいま読書中】『ネオ・ファウスト』手塚治虫 作、朝日新聞社、1989年、1000円

昭和45年、大学紛争に揺れる東京近郊のNG大学でお話は、始まり始まり~。
研究は一流だが、それ以外のことにはてんで興味を持たない老教授一ノ関に、理学部でバイオを研究している助手坂根が近づきます。しかし彼には腹に一物ある様子。
大学構内で爆弾が爆発、機動隊が導入されて大騒ぎとなりますが、一ノ関の部屋にこんどはあやしい女性がやって来て「新しい人生を差し上げます。契約書にサインを」と迫ります。メフィストフェレスではなくて牝フィストです。
メフィストは一ノ関を過去の世界へと連れて行きます。到着したのは昭和33年の日本。廃止された翌日の赤線地帯です。ところが若返りの薬の副作用で一ノ関は記憶を喪失。そこで一ノ関(というか、名無しの若造)を拾ったのが、坂根土木のワンマン社長でした。社長は一ノ関に第一という名前を与えます。巨大な土木工事、政治家との黒いつながりなどを学び、成長した第一は、NG大学の清楚な学生まり子と恋に落ちます。ところがまり子の兄は公安の刑事。学生運動の過激派の動向に気を払って動いていましたが、同時に第一の素性や雰囲気にも胡乱なものを感じます。第一は自分が一ノ関そのものであることに気づきますが、そのとき一ノ関はメフィストによって過去に旅立ってしまいます。第一には、バイオで世界を変える望みと、坂根から受け継いだ巨万の富を増やすこと、その二つを達成して「世界の帝王」となる未来が見えます。しかし、そこにまり子の姿はありませんでした。
ということで第一部は終了します。
いやあ、メフィストが「悪魔」に徹し切れていないところがなかなか魅力的。なんというか、煮えきれない「悪」なんですよね。たぶん作者の人間性がそこにも投影されているのでしょうが。
マイケル・サンデル教授(「ハーバード白熱教室」や『これから「正義」の話をしよう』(ただしまだぼちぼちと読書中で全部は読めていません))によると「公正」に重要な3つの要素は「幸福」「自由」「美徳」だそうです。で、その三者をすべて同時に満足させることは難しい(だから「正義」について語るのはややこしい、でも、だからこそ哲学で扱うべきテーマになる)。もちろん第一(ファウストならぬファースト?)が望むのは「社会的な公正」ではなくて「自分の幸福」ですから満たされるべき要素は3つではないし内容も異なります。第一の行動を見る限り彼が望んでいるのは(彼が望んでいるとメフィストが思っているのは)「経済的豊かさ」「肉欲」「自由」「名声」あたりがすべて満たされることでしょうか。ただ、私には「良心の呵責を感じなくてすむこと」「なにかに満足すること」も加味されなければ第一は本当の幸福感は得られないのではないか、とも思えます。メフィストにはそこの所が、実感を持ってわかってはいない、と。単に自分の性格を第一に投影しているだけかもしれませんが。
で、第二部は始まった瞬間に中断、それも、永遠に中断してしまいます。読みたかったなあ。なんでこんな面白い話をあの世に持って行ってしまいますかねえ。しかたない、本家の『ファウスト』でも読みましょうか。近い将来、気力と体力が充実したら、ですが。



宮澤賢治

2010-09-13 18:53:04 | Weblog
私が彼の作品を初めて読んだのは、小学校の図書館か児童図書館の『注文の多い料理店』か『セロ弾きのゴーシェ』か『よだかの星』か、と思っていましたが、今日の詩集を読んで違うことに気がつきました。家にあったカレンダーかポスターかにあった「高原」という詩です。「海だべがと おら おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい/ホウ/髪毛 風吹けば/鹿踊りだぢやい」が大胆な版画と組み合わさっていましたっけ。出会ったのはたぶん小学校の中学年のとき。あまりに凝縮された言葉の重さと、そこから放たれる奔放なイメージのきらめきに子どもの私は強烈な印象を受けました。それは数十年後になっても、私の脳髄にしっかり刻印されています。

【ただいま読書中】『賢治宇宙』詩 宮澤賢治、ゑ 小林敏也、パロル社、1992年、1942円(税別)

7日の読書日記に書いた『納棺夫日記』に宮澤賢治の「永訣の朝」が引用されていたのを読んでから、どうしてもその詩をきちんと読みたくなって図書館から借りてきました。本書では、賢治の詩が「序(春と修羅)」から「或るラブレターの全部的記録」まで大体年代順に並べられています。お目当ての「永訣の朝」ははじめから1/3くらいの所に位置していました。有名な詩ですからご存じの方も多いでしょうが「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ/みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ/(あめゆじゆとてちてけんじや)」で始まり「おまへがたべるこのふたわんのゆきに/わたくしはいまこころからいのる/どうかこれが天上のアイスクリームになつて/おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに/わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」で終わる痛切な響きをもった詩です。「雨ニモ負ケズ」(本書では最後から二つ目)でもそうですが、どうしてこの人はこんな我が身を削るような文章を書いてくれるのでしょうねえ。どの詩も、読んでいて心がざわざわして困ります。



指導者に向かない人

2010-09-12 20:16:22 | Weblog
想像力がない人間は指導者には向きません。一生誰かの下で使われる立場にいないと、本人も周囲の人間も不幸になります。ただ、現場を知っていたら、現場では有用な人間になれます。
そして、現場を知らない人間は指導者だけではなくて、現場で働く人間にも向きません。

【ただいま読書中】『悲しみのダルフール ──大量虐殺の惨禍を生きのびた女性医師の記録』ハリマ・バシール&ダミアン・ルイス 著、 真喜志順子 訳、 PHP研究所、2010年、2200円(税別)

スーダンとチャドの国境地帯、乾燥した平原の真ん中ダルフールにザガワ族が暮らしていました。昔ながらの伝統を守って生きている一族ですが、ランドローバーとかラジオとかが持ち込まれ部族の暮らしは少しずつ変わっていきます。そこにハリマという少女がいました。昔ながらの遊びや食べ物、2時間歩いて行っての薪拾いなどの重労働、さらに女性の割礼という過酷な風習のなか、ハリマはすくすくと育っていきます。ハリマの父は、伝統は重んじますが開明的な人物で(村にランドローバーやラジオやテレビを持ち込んだのは彼でした)頭がよいハリマにきちんと教育を受けさせようと村ではなくて町の小学校に出します。そこではじめて彼女は“現実”(の一部)を知らされます。彼女たち黒人はアラブ人より“下”の存在だったのです。学校ではアラビア語が公用語で、部族のことばをしゃべると体罰でした。教師もアラブ人で、露骨なひいきが幅をきかせています。しかしハリマは、学校で一番(どころか、その地方でのトップクラスの成績)をおさめ、医師を目指すことにします。
しかしその頃、軍事クーデターによって民主的な大統領は追放され、スーダンは内戦状態に突入していました。アラブと黒人の対立だけではなくて、スーダン南部にはキリスト教と穏健なイスラム教徒が暮らしていて、アラブ人の政府軍は彼らに「ジハード(聖戦)」を宣言したのです。
そんな状況でもハリマは勉学を続け、医師の資格を得ます。誰にも文句を言わせない成績だったのです。しかし、その反体制的な考えが権力者の不興を招き、研修医としては異例の、へき地の診療所担当にされてしまいます。そこで彼女が見たのは、戦火の一端でした。さらに、村の小学校が政府軍に襲われます。「黒人はこの国から出て行け。スーダンはアラブの国だ。黒犬や奴隷の国ではない」というメッセージを伝えるために、何十人もの小学校の女子児童や女子教師がレイプされたのです。その治療に当たったハリマは、調査に来た国連職員に事実をしゃべりますが、それが政府軍に知れてしまいます。“報い”は即座にやってきました。「レイプのことをしゃべったな。なら、レイプがどんなものか教えてやろう」と。ハリマはアラブ人の兵士たちに輪姦されます。
釈放されたハリマは、診療所を脱出し、生まれ故郷の村にひそかに帰ります。父親は、反政府組織に加わることを決意します。しかし、この村もまた政府軍によって襲撃されます。森の奥に逃げた人は助かりましたが、逃げ遅れた人たちは全員殺されました。破壊できるものはすべて破壊され、村は死を迎えようとしていました。ハリマは脱出を決意します。村から、そして、スーダンからも。
エージェントによってどこに行くのかも知らずにハリマが乗せられた飛行機は、ロンドンに到着しました。彼女は自分が「難民」であることを発見します。難民宿泊所には、様々な地域からの人がいました。スーダン、ソマリア、イラク、エリトリア……そこは絶望のどん底だったのです。
夫を見つけ、長男を出産し、やっと落ち着いた生活ができるようになったとき、ハリマはまた絶望のどん底にたたき落とされます。「スーダンでザガワ族は迫害されていない。言論の自由もある。だから亡命申請は却下」とイギリス内務省が決定したのです。ハリマは、控訴すると同時に、BBCへの出演を承諾します。数少ない「女性の立場からの証言」をするために。しかしイギリス内務省は頑なでした。まるで「自分たちが判断ミスをするはずがない。自称難民の証言なんか嘘っぱちだ」と信じているかのように。
ちなみに、ダルフール紛争での死者は40万人、250万人が難民キャンプで過ごしているそうです。そして、国連などの勧告を無視し続けているスーダン政府のバックには、中国がいるのだそうです。おやおや。



影を見る

2010-09-11 18:14:30 | Weblog
「大衆は衆愚」と言う人と、「大衆は信頼できる人たちだ」と言う人と、どこが違うのでしょうか。「大衆」は同じものですから「言う人」が違うのでしょうね。もしかしたら「衆愚だ」と言う人は「(自分を含めた)人は愚かだ」という確信を持っていて、それを自分の中ではなくて外に投影している、ということなのかな。

【ただいま読書中】『歩く』ルイス・サッカー 著、 金原瑞人・西田登 訳、 講談社、2007年、1600円(税別)

映画館でのポップコーンが原因で傷害事件を起こし、矯正施設のグリーン・レイクという、からからに干上がった湖の底で14ヶ月も穴掘りをしていたアームピット(黒人)は、生まれ変わろうと、高校に通いながら穴掘りのバイトをしています。アームピットは隣の家のジニー(白人、脳性麻痺)と仲良くなり、二人はお互いに支え合って生きていくようになっていました。
そこに現われたのがX・レイという悪友。いかにもあやしげなもうけ話(ダフ屋もどきの“仕事”)を持ち込み、ことば巧みにアームピットの貯金を巻き上げようとします。「エ、エ、X・レイの話なんか、し、し、信じちゃだめ」というジニーの忠告も聞かず、アームピットは深みにはまっていきます。
「もうそのへんで降りろよ」と私もアームピットに本のこちらから忠告をしたくなります。そもそもX・レイの話にのるべきではなかったのだし、一度乗っても、最後の最悪の結果に行き着く前に損害を最小限にして途中下車をするべきなのです。だけど、話は粛々と進んでいきます。
幸か不幸か、ダフ屋稼業は順調に行き、アームピットは金を取り戻せます。そして残った2枚のチケットでアームピットはジニーとコンサートに出かけます。今売り出し中のロックスター、カイラのコンサートへ。しかしそこで二人はトラブルに巻き込まれ、アームピットは逮捕されかけます。しかしそこから運命が急転。それもとんでもない激変。この進展は想像もできませんでした。いや、何かやってくれるとは思ったのですが、こっちの方にもっていくとはねえ。話は犯罪小説(の一種)から突然青春小説になってしまうのです。私はもう笑い転げます。
ただし、「犯罪小説(の一種)」が終わったわけではありません。X・レイは警察に呼ばれます。彼が白状したら、アームピットも“共犯”として逮捕されます。なにしろ金を出しともに行動していたのですから。未来への希望と不安、アームピットはその両方に翻弄されます。
アームピットは、ときにあまり考えずに返事をしてしまうことがあります。259ページでもそれをやってしまうのですが……「うん、いいよ」……それでまたとんでもない方向に話が。私はもう笑いが止まりません。ただ、私の笑いはぴたりと止まります。アームピットは知らないうちに、恐ろしい陰謀にも巻き込まれてしまっていたのです。さて、彼はどうなるのか。「嘆きの乙女」の運命は。
そしてお話は、はらはらどきどきと笑いとがたっぷり盛り込まれたおとぎ話(の一種)にもなり、ジェットコースターのように進んでいきます。読者はそこからふり落とされないように、ご注意!



ハンサム・スーツ

2010-09-10 16:52:09 | Weblog
映画の「ハンサム・スーツ」は、不細工な男が「洋服の青山のハンサム・スーツ(まるでマシュマロマンみたいなもの)」を着用したら、まるで別人の「ハンサム」に変身できる、というお話でした。「美女と野獣」と「シュレック」で使われる変身の魔法を「ハンサム・スーツ」というギミックに変えて二つのお話を混ぜ合わせたようなもの、と言ったら良いかな。結局「中身が(中身も)大事」ということになっていくのですが、青山がよく協力したもんだ、と私はその度量に感心しました。「人間は中身が大切」って、「ハンサム・スーツ」のコンセプトというか“文字面”に喧嘩を売ってません?

【ただいま読書中】『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ 著、 木村博江 訳、 草思社、2000年、1900円(税別)

ジュディス・ラングロワ(心理学者)は様々な人種・年齢・性別の人々の顔のスライドを数百枚準備し、まず大人たちにそれぞれの魅力の度合いを評価してもらいました。ついで、生後3ヶ月と6ヶ月の乳児に同じ写真を見せました。すると大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました。つまり人間の顔の「美」に関して、赤ん坊は美しさを感知することと、そして人間の顔には人種を越えた普遍的な美の特徴があることが示唆されたのです。
逆に「赤ん坊の可愛さ」はどうでしょうか。動物でも人間でも無力な赤ん坊は「可愛らしさ」で自分の身を守ります。ジャネット・マン(心理学者)の調査では、難産で生まれ誕生時に体重が足りなかった双子の観察で、どの母親もより元気な方の子を可愛がる、という結果が出ました。特に非常に貧しい家庭では、弱い方の子ははっきり無視されていました。これは、進化の過程で母親の生殖適合能力を高めるためのメカニズム、とマンは結論づけているそうです(要するに、限られたエネルギーは“より見込みの高い方”に注ぐのが進化論的には(非情だが)合理的、ということでしょう)。また、世界各地で、生まれたての赤ん坊は「父親似だ」と評価されることが多いそうです。これは「父親の不安(自分の子ではないのではないか)」を取り除くための有効な手法だ、と著者は評しています。(逆に、家庭内で虐待されるのは「父親に似ていない子」であることが多いのだそうです)
「見かけの良い人」は、明らかに社会の中で“得”をしています。敬意を払われやすく、それによって得た自信で困難に立ち向かいやすく、それが自身や強さとなって敬意をさらに払われるようになります。ポジティブなフィードバックです。アメリカには「おつむが弱いブロンド美人」ということばがありますが、実際は逆で「頭がよい」と評価されやすいのです。これは「光背(ハロー)効果」と呼ばれます。陸軍士官学校の調査では、昇進するタイプには共通の顔貌(威厳や決然とした表情)の特徴が認められました。ただし、そういった周囲からの“期待”を裏切った場合には、彼らは周囲からひどい扱いを受けることになるのですが。「三高」という死語がありますが、アメリカ大統領も有力な企業のCEOも明らかに長身優位です。トップには「大もの」が望ましい、が社会の合意のようです。
「対照効果」というものもあります。パーティー会場にすごい美人が入ってきた瞬間、それまでの美人の魅力が急に薄れて感じられる効果です。だから美人は他の美人を好まないのかもしれません。
スーザン・フレイザー(人類学者)は454の文化での調査で、結婚平均年齢は女性が12~15歳、男性が18歳、と報告しました。これにはいくつかの理由があるでしょう。若年での出産の方が健康な子が得られやすい。壮年で死亡する確率が高い場合、早く出産しておいた方がよい。
そういった社会では「美」は「健康」と強く関連しています。つまり「美人」は子孫を残すのに有利であることのシンボルなのです。
こういった顔やスタイルに対する美の評価は、人類の進化の過程で有効に機能していたのでしょう。その結果が「若い女を好む男の群れ」なのですが。
しかし、現代社会では、多くのセックスは避妊が前提となっています。となると過去の「美」に基づく性衝動や性行動は“時代遅れ”なのでしょうか。
ただ、そういった本能的な「美」以外の「美」もあります。たとえば、マルセル・デュシャンの便器やアンディ・ウォホールのスープの缶詰といったものは、文化的な学習で得られるものでしょう。つまり「美」は「それ自体」ではなくて「それを見る人間の目」の方に存する場合があるのです。
本書には、フェミニズムの主張(「美」によって男性支配が強化される)も紹介されていますが、著者はそれには与していないようです。フェミニストの主張は20世紀限定だったら“正しい”意見かもしれませんが、「美(の認識)」が有史以前からのものであることを認めたら、その主張の力が半減するように私も感じます。「美」そのものを知ろうとしているのではなくて、自分の主張を強化するために「美」を使っているだけではないか、と思えるものですから。
「美の体験は思考を止める」という印象的なフレーズが本書にあります。ただ、美に出会ってそこで簡単に思考停止するのではなく、簡単に否定するのでもなく、思考を深化させ、表面だけではなくてもっと深いところにある美も愛するようにできないか、と著者は問題提起を行なっています。「美」は人類の歴史とともに“そこ”にずっとあったのですから。そして、これからもずっとあるでしょうから。