瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

脳梗塞後の瞑想をめぐって

2013年07月14日 | 瞑想日記
病室でこうしてパソコンに向かっている。このブログを開いた。それぞれの日のエントリー記事の最後に「このブログの人気記事」という欄がある。やはり最近の記事がいちばん読まれているが、おやと思うような古い記事も意外と人気だったりする。そんな古い記事のタイトルをぼやっと見ていると、かつて精神世界や魂の成長が関心の中心だった頃と今とでは、やはり何かが違うと感じた。

一昨日「病と食と瞑想」の記事で書いたことを反芻した。これからの私は、もちろん小食を保ち、食を徹底的に管理していくことになるだろう。脳梗塞の再発を避けるためには当然のことだ。同じ理由で、ヨガや気功やゆる体操も、自分なりに工夫して、おおいに実践していくだろう。

では瞑想はどうなのか。やはり5年前の軽い脳梗塞が瞑想合宿中だったことが少し引っかかっている。これまでの数回の瞑想合宿で私は、そのつど重要な抑圧への気づきを促されてきた。しかし合宿の前半は、猛烈な雑念との闘いに陥ってしまうことが多かった。それは自己との苦しい闘いでもあり、ストレスでもあった。5年前の脳梗塞はそのストレスも少しは関係していたかも知れぬという疑いを捨てきれない。もちろん自宅での40分や50分の瞑想は、むしろ精神的なリラックス状態を作るから、問題はないのだろうが、もしかしたら足を組み、呼吸もかすかになっていくことが、血流に関係するのかという引っかかりもある。

しかし瞑想で、雑念や思考のない状態が人間にとってどれだけ重要な意味を持つかということをまがりなりにも知ってしまった。大切なことは、肉体的にも精神的にも、自分に無理を強いることなく、脳梗塞再発の危険をもつ自分にとって最適な瞑想のあり方を工夫していくことだろう。とすれば私にとってこれからは、歩く瞑想や立禅、そして日常のサティ(気づき)にもっと力を入れていくべきなのだろう。歩く瞑想は、座禅に比べはるかに苦手だったがこれからはこちらに重心を移していくべきかもしれない。

精神世界や魂の成長、覚醒がわたしにとっての関心の中心だった頃、覚醒をめざすこと自体がエゴの欲求からだったように思う。エゴからの解放をエゴの欲求として求める矛盾。今は、エゴの欲求として魂の成長や覚醒を求める傾向があまりなくなっている気がする。そしてエゴの関心はもっと別のところに移っていた。教壇に立つことの面白さや、友人と飲んで語ることの楽しさや、政治・経済への関心など、より俗っぽい世界への関心が強まっていた。

今後はどうなるだろうか。食と健康の管理は、瞑想的な生活につながっていくだろう。しかしそれは、かつてほどエゴの欲求に根ざすものではなくなっていくだろう。俗世界への強い関心もつづくだろうが、より地に足のついたかたちで精神世界の探求が深まっていくかもしれない。

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