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覚醒・至高体験をめぐって08:  (1)覚醒・至高体験とは?④

2010年07月23日 | 覚醒・至高体験をめぐって
◆至高体験は多く、覚醒は稀

こうして玉城氏は、その稀有な求道の果てに「爾来、入定ごとにダンマ・如来、さまざまな形で、通徹し、充溢し、未来へと吹き抜け給う」、「形なき『いのち』が全人格体に充濫し、大瀑流となって吹き抜けていく。その凄まじい勢いは、何物にも警えようがない」という境地に至るのである。少なくともこれは、つかのまの「至高体験」ではありえない。
若き日の一時的な大歓喜の繰り返しの果てに至りついた、形なき「いのち」への目覚めだったのである。

さて、この事例によって、つかの間の至高体験と真の覚醒との間に横たわる深い溝を感じ取っていただけただろうか。事例を収集してきた私自身の感触から言えるのは、至高体験は一般的に予測されるよりも、はるかに多くの人々が持っているらしいということ。しかし、永続的な覚醒は、きわめて稀な出来事であるということである。

先に「覚醒・至高体験の事例集」には、80余人の体験が集まっているといったが、そのなかで永続的な覚醒と言えるのは、おそらくほんの数例だろう。「おそらく」としかいえないのは、事例の報告のなかに「永続的な覚醒」と言えるような表現や特徴がはっきりと現われているかどうかで、筆者自身が判断するほかないからである。

一言で「至高体験」といっても、その内容や深さには、事例によってかなり大きな差があるだろう。今後、至高体験のさまざまな事例を検討していくことになるが、そこにはほとんど無限といってよいほどのバリエーションがある。とすれば、永続的な至高体験としての覚醒にもまた、さまざまなレベルや内容の違いがあり、おそらくその深さの違いは無限といってもよいのだろう。

とすればなおさら、何を「覚醒」とし、何を「至高体験」とするのか、探求の出発点において、ある程度の目安がなければならない。現象としての覚醒や至高体験には無限といってよいほどの諸相があるにせよ、両者を成立させる何らかの共通の構造もまたあるはずである。この連載のテーマは、多くの事例を検討しながら、その「共通の構造」を探っていくことだといってもよい。その探求の手がかりとしてわれわれは、マズローの研究の成果を持っている。それが、この連載にとっての「循環的方法」の出発点となるだろう。
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2 コメント

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私見 (suho)
2010-07-23 23:05:09
至高体験は、通常の意識状態と同じ次元で比較できる別の状態、つまり「認識・対象化できる状態」ですので、諸行無常の一時的な状態。つまり妄想の1つの状態ではないでしょうか。
かなりの苦しみが継続し精神の緊張が極限に達し、ふと自然のバランス作用(叡智の作用)でその緊張が自発的に解けた際に、相対的に心地よく感じられる、限定的な知覚の状態。
例えば、のどが極限まで渇いているときに飲む水がいつもより素晴らしくおいしく感じられるようなものではないでしょうか。

覚醒は、特定の認識できる意識状態のことではないので、あらゆる認識・対象化できる意識状態とは無関係であると思います。
ただ、意識状態への執着がなくなるだけと思います。

関係があるとすれば、マインドが、至高体験から何を理解するのか、ではないでしょうか?

最高の意識状態(至高体験)と最低の意識状態(苦悩)を体験し、それがどちらも、特定の意識状態であり、過ぎ去るものであり、一時的なものであること。
この運動が、特定の対象への執着によって引き起こされた結果であった、と完全にマインド理解したときのみ「認識できるあらゆる対象・状態」への執着が自ずと消失してしまう。
以降「どんな知覚・意識・感情状態」にあっても、2次的な思考が生じず、2次的な心の反応が起きず、何も心に蓄積されず、変化が変化のまま滞りなく流れている状態を覚醒というのだと思います。
つまり、特定の状態を求めて「どうこうしよう」「保持しよう」とする「私(空想)」がなくなる状態。

ですので、至高体験なしでも思考(空想)への執着と心の運動の関係の「理解」が起これば、覚醒することは大いにありうると思います。

ただ、至高体験をしたほうが、そうでない意識状態との「極端な差異」を実感できるので、執着の構造の理解が起こりやすい、というのはあるかと思います。
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至高体験をどう理解するか (Noboru)
2010-07-29 12:32:32
コメントありがとうございます。お返事おくれて申し訳ありません。

とても重要な問題を提起していただいたと思います。まず比較的、かんたんな方から、いきます。

>ですので、至高体験なしでも思考(空想)への執着と心の運動の関係の「理解」が起これば、覚醒することは大いにありうると思います。

はい、この点は、私もまったくその通りだと思います。おそらくそういう事例は、たくさんあるだろうと思います。

>至高体験は、通常の意識状態と同じ次元で比較できる別の状態、つまり「認識・対象化できる状態」ですので、諸行無常の一時的な状態。つまり妄想の1つの状態ではないでしょうか。

これは、至高体験をどう定義するかにもよるのではないでしょうか。一時的な「覚醒」があっても不思議はないし、それを至高体験の重要な部分と感じます。このあとブログで至高体験の特徴をマスローにしたがって列挙しましたが、それは「覚醒」の特徴と重なると思います。

いずれにせよ、至高体験をどのようにとらえるかは、おっしゃるように『通常の意識状態と同じ次元で比較できる別の状態、つまり「認識・対象化できる状態」』も含めて考えられますので、慎重に考察する必要があると思いました。マスローの研究にも、その辺、曖昧な部分が含まれるかもしれません。より深く探求してみたいと思います。
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