◆「自我」が一切を失う覚悟ができるとき、滅びゆくものの奥にあって、滅びない「何か」に触れるのだろう。「自我」が「自我」への執着の一切から自由になるとき、「自我」を超えた「何か」が舞い降りる。時間を超えた「何か」。
相変わらず「自我」に執着し続けている。しかし、苦しみに直面すればするほど、その「何か」への感覚は、確かなものになっていく。その「何か」に即して生きていけばよいのだ、という確信が強くなる。
その「何か」を積極的に規定することはできないが、我執から自由になればなるほど、自ずからその「何か」に即するようになることも私の中ではますます確かなことだ。
◆最近、ゆえあって「慈悲の瞑想」や自分なりのそのバリエーションを、盛んにとなえている。駅と職場の間の往復40分の歩行中はもちろん、駅での待ち時間、ちょっとした単純作業をしながらなど。
そのため意識的にはサティはほとんどしていないのだが、「慈悲の瞑想」から意識がそれるときは、「思考」その他のラベリングが入るので、むしろ無駄な思考は少なくなっている。
相変わらず「自我」に執着し続けている。しかし、苦しみに直面すればするほど、その「何か」への感覚は、確かなものになっていく。その「何か」に即して生きていけばよいのだ、という確信が強くなる。
その「何か」を積極的に規定することはできないが、我執から自由になればなるほど、自ずからその「何か」に即するようになることも私の中ではますます確かなことだ。
◆最近、ゆえあって「慈悲の瞑想」や自分なりのそのバリエーションを、盛んにとなえている。駅と職場の間の往復40分の歩行中はもちろん、駅での待ち時間、ちょっとした単純作業をしながらなど。
そのため意識的にはサティはほとんどしていないのだが、「慈悲の瞑想」から意識がそれるときは、「思考」その他のラベリングが入るので、むしろ無駄な思考は少なくなっている。