瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

場としての「私」は死なない

2009年06月22日 | 瞑想日記
6月18日付けて引用したエックハルト・トールの言葉、訳の方でいうと以下の言葉。

「『頭の中の声』が私なのではないと実感するということは、何という解放感だろうか。それでは、私とは誰なのか。それを見ている者のことだ。思考に先立つ気づきのことだ。その中で思考や感情や知覚が起る場のことだ。」

ここで真の私とは誰かと問われ、それは「思考や感情を見ているもの、それらが生滅する場」だと答えられる。これもエックハルト・トールがあちこちで何回も繰り返していることだ。

しかし、思考としての私への同一化を解消して、それらが生起する「場」にシフトすることは、言葉はシンプルだが、実際には難しい。いくら「思考としての私」が虚構の産物に過ぎないと頭で分かっていてもだ。

しかし、何がシフトのきっかけとなるか分からない。ちょっとした言葉がヒントになるかも知れない。ちょっとしたヒントが「判じ絵」の秘密が解ける手がかりになるようなものだ。

以下は、自分へのヒントぐらいの軽い気持ちで書いた。

すべての思考や感情が生起する意識の場、それがなければ一切が生起しない、私という現象すらも生起しない場。それは、私という肉体、脳を通して出現するが、同時に私の周囲の人々すべてにも出現している。いや、地球上のすべての人間、意識あるすべての生物に出現している。その意味で、場としての私は、地球上のすべての人、意識ある生物と同じ「私」である。だからこの世に、場としての意識が出現するかぎり「私」は死なない。「私」を、場に生起する私という現象や個々の現象に限定するかぎり、それは消滅する。しかし、場としての「私」は、世界のあらゆるところに出現し、世界を映し続ける。場である限り、「私」は同じひとつの「私」なのだから。世界を映す鏡の機能は、いつの時代も、またどこにあろうと変らないのと同じだ。たとえ表面の濁り具合に違いがあってもだ。場は神でもあろう。いや、濁りを磨けば磨くほど神に近づくのだろう。
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1 コメント

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感謝 ()
2009-06-23 11:26:31
読んで同感し、感謝しています。

今まで器のように、判断や評価もせずに思考や感情を浮かべて、自分のすべてを静かに観て識っている存在・空間があることを感じていましたが、そこの感覚を維持することの難しさや、人に伝える難しさなどから、このことを忘れようとしていました。諦めようともしてました。

何もない状態(無?)を観ている意識空間(場?)を感じていないと空とか無とかいう感覚を知らないことになると思っておりました。

本当の私という奥深さはやはりすべてに繋がる空間・領域・場と認識しておこうと思います。

貴殿の記事に感謝します。
ありがとうございました。

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