瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

最初に心の状態をサティ

2009年06月26日 | 瞑想日記
◆『尼僧の告白―テーリーガーター 岩波文庫 青 327-2
朝、家を出る寸前に「今日はどの本を持ってでようか」と一瞬考えて手にとったのが、『尼僧の告白・テーリーガーター』(中村元訳、岩波文庫)だった。一度、目を通したことはある。電車の中で少し読んだ。私自身が少しずつ変わっているので以前とは違う読み方になる。

「4、ティッサー(尼)よ。学ぶべきことを学べ。適当な時機が汝のそばを通り過ごすことのないように。一切のくびき(束縛)から解き放されて、汚れ無き者として、この世で日を送れ。」P9

「6、ディーラー(尼)よ。もろもろの想いの静止である楽しき止滅を体得せよ。無上の安穏である安らぎを得よ。」P9

以前だったら、この文から体験的に何かしら共感することはできなかっただろう。今は、自分なりのレベルで、自分なりに感じることがある。

学ぶとは戒・定・慧の三学のこと、くびきとはけっきょくは煩悩のことだという。煩悩はどこから来るのか。日常的な「もろもろの想い」から来る。想いが自我を虚構し、自我が想いを紡ぎ出して自らを強化しようとする。それが煩悩と苦しみのおおもとだろう。

想いの静止は、まさに日々めざすところだ。しかし、静止しようとする思いがまた自我を強化する。そのような観察からヴィパッサナー瞑想も生まれていったのだろう。

◆最初に心の状態をサティ
何回も書いたことがあるが、サティをしようと思っても、とてもめんどうくさく感じ、くだらぬ脳内おしゃべりに安易に耽っていたいときがある。そうしていた方がまがりなりにも楽で楽しいからだ。そんなとき、まずいちばんに、そういうありののままの自分にサティし、ラベリングする。そのこと自体はめんどうではない。むしろ楽しい。すると次のサティに楽に進んでいくことが多い。というより、これまでいつも100パーセントそうだった。

なぜだろうか。どちらにせよサティは善心所だから、そこから好循環が始まりやすいのか。しかも自分の心の状態へのサティだから、すごく効果があるのか。

「想いの静止」は、無理やり思考を止めようと戦うことではない。まさに自分の思いにサティすること。「サティしなくちゃ」という想いの裏に「めんどうくさい」という想いがあるなら、その想いにサティすること。すると「めんどうくささ」が不思議と消える。サティへの抵抗感がなくなる。
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