あまりサティへの意欲が湧かない時、気持ちや気分のサティから入ると入りやすいことは何度か触れた。仕事の帰り道、疲れているし、今日あった出来事で気になることもある。とてもサティする気分にはなれない。そんなことが多々ある。だからこそ、「サティする気分になれない」という気持ちにサティするのだ。現在の気分や気持ちを表現する言葉を探してラベリングを続けていると、自然に身随観に移行していくことも多い。
身随観には抵抗を感じる場合があっても、心随観にはほとんど抵抗を感じない。これは、もしかしたら私の傾向なのかも知れない。ヴィパッサナー瞑想に触れる以前から、自分の気持ちを確認したり、探ったりするのは好きでよくやっていたからだ。
ともあれ、好きで楽に抵抗なくできことはどんどんやっていけばいい。まずは、その時どきの自分の気分や気持ちにサティするのだ。自分を客観視するような視点から、「今自分はどんな気分や気持ちでいるのだろう」と確認して、その時の状態にぴったりなラベリングをする。それを繰り返していけばいいのだ。微妙に気分は変化していく。かすかな、注意しなければ気づかぬような微妙な感情を意識で捉えることもある。それに合うラベリングを探してまたサティする。
こういう心随観は、私にとっては修行というイメージではなく、とても楽な気持ちでできる。「身随観をしなくてはいけない」と心のどこかで感じているが、それよりも、まずは楽な気持ちで、自分の今の気持ちを確認することだ。そしてそれを可能な間隔で繰り返していく。間隔は短い方がいいだろうが、それほど無理をする必要もない。
身随観には抵抗を感じる場合があっても、心随観にはほとんど抵抗を感じない。これは、もしかしたら私の傾向なのかも知れない。ヴィパッサナー瞑想に触れる以前から、自分の気持ちを確認したり、探ったりするのは好きでよくやっていたからだ。
ともあれ、好きで楽に抵抗なくできことはどんどんやっていけばいい。まずは、その時どきの自分の気分や気持ちにサティするのだ。自分を客観視するような視点から、「今自分はどんな気分や気持ちでいるのだろう」と確認して、その時の状態にぴったりなラベリングをする。それを繰り返していけばいいのだ。微妙に気分は変化していく。かすかな、注意しなければ気づかぬような微妙な感情を意識で捉えることもある。それに合うラベリングを探してまたサティする。
こういう心随観は、私にとっては修行というイメージではなく、とても楽な気持ちでできる。「身随観をしなくてはいけない」と心のどこかで感じているが、それよりも、まずは楽な気持ちで、自分の今の気持ちを確認することだ。そしてそれを可能な間隔で繰り返していく。間隔は短い方がいいだろうが、それほど無理をする必要もない。