岸田秀は、「自我は『幻想』に過ぎず、かつ常に自我よりも広大なエスの領域に脅かされているため、本質的に不安定なのである」と言った。
少し別の角度から言えば、「私が私である」、「私はノボルである」という自己意識、自己同一性を成り立たせる根拠は何もないと言える。もちろん自分の肉体を根拠にして「私は、私である」と思っている。だとすれば私は、この肉体なのだろうか。肉体でもあるが、肉体に還元し尽くせない何かである。その「何か」とは何か。「私は、これこれこういう人間であり、こういう人間としての私(ノボル)である」という観念である。しかし、その観念を保障する確かな根拠は何もない。
自我の不安定さの根源には、「私」という観念の無根拠性が横たわっているのであろう。だから自我は、見せ掛けの根拠を求める。自分の外部にある、自分よりも大きな対象。近代においては、国家を自我の支えにする場合が多いのかも知れない。自我は、国家に自分の支えを見出しているなどとは自覚しないだろうが。
しかし、それにしては人は、国のために一喜一憂するし、国のためにいのちをかけて戦うことすらある。
自我の成立には、言語と分化を同じくする基盤としての社会が不可欠であり、近代以降は国家がその基盤となる場合も多いから、よけいに自我は国家を同一化するのだろう。
韓国人であり日本での生活も長い呉善花は、反日民族主義がいかに自我の奥く深くに食い込んでいたを語り、それが日本での経験によって崩壊していったときの自我の危機を興味深く語っている。後ほど詳しく紹介したい。
少し別の角度から言えば、「私が私である」、「私はノボルである」という自己意識、自己同一性を成り立たせる根拠は何もないと言える。もちろん自分の肉体を根拠にして「私は、私である」と思っている。だとすれば私は、この肉体なのだろうか。肉体でもあるが、肉体に還元し尽くせない何かである。その「何か」とは何か。「私は、これこれこういう人間であり、こういう人間としての私(ノボル)である」という観念である。しかし、その観念を保障する確かな根拠は何もない。
自我の不安定さの根源には、「私」という観念の無根拠性が横たわっているのであろう。だから自我は、見せ掛けの根拠を求める。自分の外部にある、自分よりも大きな対象。近代においては、国家を自我の支えにする場合が多いのかも知れない。自我は、国家に自分の支えを見出しているなどとは自覚しないだろうが。
しかし、それにしては人は、国のために一喜一憂するし、国のためにいのちをかけて戦うことすらある。
自我の成立には、言語と分化を同じくする基盤としての社会が不可欠であり、近代以降は国家がその基盤となる場合も多いから、よけいに自我は国家を同一化するのだろう。
韓国人であり日本での生活も長い呉善花は、反日民族主義がいかに自我の奥く深くに食い込んでいたを語り、それが日本での経験によって崩壊していったときの自我の危機を興味深く語っている。後ほど詳しく紹介したい。
勇敢に戦った勇者のみが死後入れる特殊な世界を夢見て、死すら恐れず戦いに挑んだといいます。彼らは野蛮にみえて一つの美徳に生きていた。常にクシや装飾品を身に付けていたことから、日本の武士同様死の準備をしていたものと思われます。
まあこれも自我を国家に置き換えるとは違うかもしれませんが、人の強さの根元は信仰にあるのではないかと思いました。
仮に日本という国がなかったら・・・・
確かにそれはとても困るように思います。
自我が国家と自己同一視をし、国家は国家でそういう自我の集合体として、あたかもひとつの大きな自我であるかのように動く。国家という自我同士のぶつかり合いで国家間対立、果ては戦争が起る。
自我同士でも信念や宗教の対立は深刻な衝突を生み出しますが、国家間となると、その対立や衝突は、恐ろしく悲惨な結果を生む。
現代社会で起っている恐ろしく生々しい問題の背後に国家や宗教と自我の問題があるような気がします。