瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

怒り: 「自我」が問われる

2007年04月15日 | 瞑想日記
最近、「自我」とそのプライドをひどく傷つけられる出来事があり、今も進行中である。それにどのように対応し、乗り越えていくかが問われている。

職場外のことであるが、詳しくは書けない。あることをしようと思い、かなり大事に育てていた何人かの人間関係があった。結果としては具体的な活動になかなか結びつかず、私自身少しやる気が失せていた。そこへ指導的な立場の新しい人物が加わることになった。彼とはうまく協力してやっていけるつもりだった。

しかし、どうも様子がおかしい。私に連絡もなしにどんどんと進めて行こうとする。最初は、うっかり忘れたのだろう、ぐらいに思っていた。それが二度、三度と重なるのである。「え、私を無視して進めようとしている?そんなことはあるのだろうか」と思った。

しかし、ちょっとした態度にも私を無視して自分でかってにやっていきたそうな感じがある。いや、ただ不注意で鈍感なだけなのか。

私は内心ひどく怒りを感じている。こうして書いていても怒りが湧きあがる。もちろん「怒り」とサティはするが、なかなか根深く、かんたんに消えるものではない。

怒りは、私の「自我」とそのプライドそのものに根ざしている。「自我」に囚われているのはよく分かる。しかし、それで怒りが収まるわけではない。「自我」に囚われる自分が問われている。かといって、怒りを抑圧したくもない。充分に気づきつつ、「気づき」の力で溶解していければよいのだが。

「自我」に死ぬことが、大いなるものに根ざして生きることへと一直線に連なることが、以前よりも深いレベルで分かるようになった気がしていた。しかし、現実にはこのざまだ。この時期、こういう問題が起るのも、また深い意味があるのかも知れない。「自我」ととことん向き合う必要があるのかも知れない。

こうして書いてみて、この件の、私にとっての課題として意味がよりはっきりしたような気がする。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 掲示板の復活 | トップ | 結果への愛着を放棄する »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

瞑想日記」カテゴリの最新記事