恐怖と怒りはどこから来るのか。自他が分離していると、「多くの『他者』がいて、それがみな危害を加える可能性ともっているからだ。‥‥この恐怖から怒りが生じてくる。」
確かにそうも言えるだろう。根源的には同じことなのだろうが、私には別の言い方のほうがぴったりくる。自分が「限りあるいのちとしてこの世に投げ出されている」ことの不可-思議、不条理、理不尽。このはかない肉体を基盤として「自我」は成り立ち、肉体が消えれば「自我」もまた消える。少なくとも同じ形では存続しない。
この不条理な現実に対して深い恐怖と怒りが渦巻き、しかも抑圧されている。しかし、その封印は解きほぐされなければならない。「自我」こそが、その封印を行う張本人だからだ。
「自我」にとって恐怖は三重にも四重にも重なっている。
「自我」以外の、「自我」に危害を及ぼす一切の他なるものへの恐怖。
いのちに限りがあり、そのいのちがいつ終わるかも知れないことへ恐怖。
そういう恐怖や、恐怖からくる怒りを抑圧しており、その抑圧がいつ解かれるかも知れないことへの恐怖。
抑圧の封印が解かれることによって、「自我」が解体の危機にさらされることへの恐怖。
昨日の夢は、恐怖から来る自分自身の深い怒りに直面することへの恐怖だったかも知れない。しかし、カギはかからず、もはや怒りを抑圧することは難しくなっているようだ。
しかし、怒りや恐怖を直視することは、つまり「あるがままに見る」ということは、成長への大切な契機だ。
確かにそうも言えるだろう。根源的には同じことなのだろうが、私には別の言い方のほうがぴったりくる。自分が「限りあるいのちとしてこの世に投げ出されている」ことの不可-思議、不条理、理不尽。このはかない肉体を基盤として「自我」は成り立ち、肉体が消えれば「自我」もまた消える。少なくとも同じ形では存続しない。
この不条理な現実に対して深い恐怖と怒りが渦巻き、しかも抑圧されている。しかし、その封印は解きほぐされなければならない。「自我」こそが、その封印を行う張本人だからだ。
「自我」にとって恐怖は三重にも四重にも重なっている。
「自我」以外の、「自我」に危害を及ぼす一切の他なるものへの恐怖。
いのちに限りがあり、そのいのちがいつ終わるかも知れないことへ恐怖。
そういう恐怖や、恐怖からくる怒りを抑圧しており、その抑圧がいつ解かれるかも知れないことへの恐怖。
抑圧の封印が解かれることによって、「自我」が解体の危機にさらされることへの恐怖。
昨日の夢は、恐怖から来る自分自身の深い怒りに直面することへの恐怖だったかも知れない。しかし、カギはかからず、もはや怒りを抑圧することは難しくなっているようだ。
しかし、怒りや恐怖を直視することは、つまり「あるがままに見る」ということは、成長への大切な契機だ。
>一方で他者がなんらかによって解体危機になってい>ることへの怒りはどうなのでしょう。
ご質問の意味は、他者が何らかの仕方で、私の自我の解体の契機になっている場合の、私の怒りもあるのではないか、ということでしょうか。
自我の解体危機における怒り・・・
一方で他者がなんらかによって解体危機になっていることへの怒りはどうなのでしょう。