瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

何かが少し違う

2006年10月04日 | 瞑想日記
先週は、書くべきことがあまりないと感じていたが、今週は書きたいことが順番待ちで並んでいる感じだ。この変化が我ながら興味深い。何かが自分の中で動いた感じがするが、書くことでそれを確認していきたい。

電車の中で他の本を読む気がしないときなどに、クリシュナムルティの「Beyond Violence」を時々読んでいる。それがどこかで影響しているかも知れない。

道を歩いているとき、周囲で起っていることに気づきなさい、とクリシュナムルティはいう。雲に、木々に、水面の光に、飛ぶ鳥に気づく。「これは良い」「あれは悪い」「こうすべきだ」「ああすべきでない」という思考の干渉なしに気づく。また、思考のあらゆる瞬間、あらゆる感情の動き、あらゆる心の反応に気づく。これが「自我の終焉」に至る唯一の道だと。

クリシュナムルティは、そのための具体的な方法を提示しないが、もちろん私には、ラベリングによるサティという素晴らしい方法がある。サティは、思考の干渉なしに気づくことへと、一歩一歩私を導いてくれる。しかし、これだけなら、今まで実践し、書いてきたことと何も変わらないと言われそうだ。

しかし、何かが少し違う。職場への行き帰り歩いているとき、思考を否定せずに気づいていることが多くなったようだ。何か仕事の合間に、直前まで頭をめぐっていた思考に気づく。その思考と「自我」との関係を確認する。「自我」のなぐさみ、不安、優劣意識‥‥。「自我」と一体になっているときも多いが、「自我」を外から見、観察している時もある。そんな時が確実に多くなっている。

何よりも大きな違いは、これでよいのだという自信と、自信からくる徹底性かも知れない。サティが少しでもうまくいったりすると、それが「自我」の勲章となる。そんな「自我」のかすかな得意顔、わずかな慢心にも気づいて行く。こう書いているさなかにも、自分の得意顔を感じて気づく。ほとんど無限後退の感じだが。一言でいうと、思考と自我の相対化ということか。

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