瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

沢木興道2

2007年02月18日 | 読書日誌
沢木興道の本から伝わってくるのは、なにかしら真っ直ぐなものである。「自我」の欲望や迷いやとらわれをはぎとったぎりぎりの生き方である。そのぎりぎりの生き方が、人間のかぎりある命と死という、避けられない事実を背景にして、ストレートに心に響く。

かぎられた命だからこそ、「自我」へのとらわれのままに、煩悩のままに夢のように生きてはならぬ。かぎられた命だからこそ、一切の虚飾を捨て去って、自覚的に生きる。そういうメッセージが真っ直ぐに伝わってくる。

この沢木興道老師にして、日露戦争中の自分の武勇伝では、「‥‥一時の興奮で、他人との頑張り合いに命がけになって」いたというのである。「戦争中に強かったのは、他人と張り合い、頑張り合いでのぼせていたのだったということがわかったのだ。」

この人でさえ、完全に我から自由だったのではないかもしれない。しかし、口で偉そうなことをいう人間が、自ら語ることをどれほど生き方で示しただろうか。この人ほどに、金も地位も名誉も食も、そして安らうべき家さえも、まったく顧みることなく、ただ仏法のため、真実の生き方を求めていった人はまれであろう。だからこそ言葉に込められた真実が伝わるのである。

「『発心ただしからざれば万行空し』といわれる。座禅してあんな人間になてやろう、他人を抑えてやろうというようなことでは、座禅しても、無条件の座禅でなくて、ひもつきだから、結局は座禅にならないで、むしろ看話話答のやりとり、かけひきだけの興味になるであろう。それでは、仏道に入るのにまず最初に捨ててかからなければならない我欲が門口に出っ張っているので、これは座禅でも、仏法でもなんでもないのである。座禅は仏法であり、仏法は人生の真実である。ゆえに最初から正しい仏法で座禅するのでなければならない。すなわちそれは、真実なる自己の生命を挙げて発心して座禅するのである。」p166
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沢木興道

2007年02月17日 | 読書日誌
久しぶりの書き込みとなった。ずっとサティも低調で、とくに書くべきこともなかった。

今日、書き込む気になったのは、最近読んだ『沢木興道聞き書き・ある禅者の生涯』が印象深かったからである。かなり昔に買った本だが、ふと読んでみる気になった。読み始めて夢中になった。

ガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド』の中でいちばん印象に残り、度々思い出すのは、次のような言葉である。

「精神的な探求とは実は死の探求であり、喪失の探求です。多くの人が、開悟を求めて精神的な探求を始めます。が、真の精神的覚醒とは何もかも失うことを通して得られるものなのです。」p317

「何もかも失う」は、「何もかも手放す」と言い換えるもできるだろう。そしてほとんど「何もかも手放す」生き方を貫いたのが沢木興道だった。

「仏法は餌食拾いの方法ではない。自分の本質が生きる生き方である。もしも食が授からなかったら食わずに死ぬという覚悟が、そのころからできかけた。」

その覚悟ができかけたというのは、18歳のころだという。そして彼は自分の半生を次のように振りかえる。

「食わされれば食う、食わされなければ食わぬ。衣類も着せられれば着るが、自分では着ぬ。一切生活を追い求めることはしないというのが、わしという人間の日常である。『ただ真っ直ぐむこうを向いて行くばかり』というのが、これまでのわしの一生であったが、今後もそうであろう。」

この本を読むと、沢木興道という人はこういう生き方を実際に貫いた人だということがよく分かる。金や名誉や地位といった、「自己」拡大のための道具立てに一切執着せず、ただひたすら「真実」のためにのみ生きる。そこに本当の修行の姿があると、最近わたしも切実に思う。

結局人は、すべてを失って死んでいかなけれならない。しかし、すべてを失うから、一切が虚しくなるのではない。逆に、すべてを失うことが実感されればされるほど、本当に大切なものが見えてくるのだろう。
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毎日あくことなく

2007年02月06日 | 瞑想日記
帰宅してすぐ風呂に入った。湯船につかっているときにふと考えていたこと。仕事で、他の係が作った書類をチェックしていて、少し重要なミスを見つけ、報告した。その件をぼんやり反芻していて、「思考」とラベリングした。湯船につかってのんびりしたときに、この件がふと思い出されるのは、そこにささやかな「手柄」意識があり、得意げになっているからだ。実際には得意になるほどのものではないのだが。

このとき、サティをいれず想念・思考が浮かんでは消えるままにしているのと、思考に気づき、自慢げな自我に気づいてサティをするのとでは、やはり大きな違いがあるのだろう。

得意げな自我を批判するのではない。ただ、そういう自分に気づく。そういう思考をして何かをもう一度確認したがっている自我に気づく。それだけでいい。そこに微妙な変化が生じるのだ。

思考に埋没しているのと、そういう自我の思考に気づいていることとの違い。毎日、数え切れないほど浮かんでは消える思考の何割かに気づいていくだけでも、違いは確実に生じる。そういう自覚化に毎日、毎時間あくことなくチャレンジしていくこと。
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繰り返し気づく

2007年02月04日 | 瞑想日記
執着やとらわれから、同じテーマの想念が浮かび、同じパターンで思考を繰り返す傾向は誰にでもあるだろう。これがいちばん潜在的な心のエネルギーに支配されているケースである。だからこそ、気づきが入りにくいのだが、同時にだからこそ、気づきを入れることがきわめて大切なのだ。

「あ、また同じことを考えている」、「同じパターンの思考だ」、「同じ反応パターンの怒りだ」と、そのつど何度も何度も繰り返しサティを入れていくことが、徐々に潜在的な執着やとらわれから解放していくようだ。

ここ数日、とくに繰り返し気づいていくことの大切さを感じている。ほとんど実感できないようなかすかな変化かもしれないが、一回気づくごとにわずかに何かが変わる。次に気づくとまたわずかに変わる。そんなことを何十回、何百回、何千回と繰り返していけばいいのだ。

気づきが繰り返されることによって確実に何かが変わっていくという実感が、ここ数日強くなっている。悩みはあるが、一方でますます落ち着いていく自分を感じている。何度も何度も気づいていくことで、少しづつ命に、大地にしっくりと馴染んでいくのを感じている。
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