沢木興道の本から伝わってくるのは、なにかしら真っ直ぐなものである。「自我」の欲望や迷いやとらわれをはぎとったぎりぎりの生き方である。そのぎりぎりの生き方が、人間のかぎりある命と死という、避けられない事実を背景にして、ストレートに心に響く。
かぎられた命だからこそ、「自我」へのとらわれのままに、煩悩のままに夢のように生きてはならぬ。かぎられた命だからこそ、一切の虚飾を捨て去って、自覚的に生きる。そういうメッセージが真っ直ぐに伝わってくる。
この沢木興道老師にして、日露戦争中の自分の武勇伝では、「‥‥一時の興奮で、他人との頑張り合いに命がけになって」いたというのである。「戦争中に強かったのは、他人と張り合い、頑張り合いでのぼせていたのだったということがわかったのだ。」
この人でさえ、完全に我から自由だったのではないかもしれない。しかし、口で偉そうなことをいう人間が、自ら語ることをどれほど生き方で示しただろうか。この人ほどに、金も地位も名誉も食も、そして安らうべき家さえも、まったく顧みることなく、ただ仏法のため、真実の生き方を求めていった人はまれであろう。だからこそ言葉に込められた真実が伝わるのである。
「『発心ただしからざれば万行空し』といわれる。座禅してあんな人間になてやろう、他人を抑えてやろうというようなことでは、座禅しても、無条件の座禅でなくて、ひもつきだから、結局は座禅にならないで、むしろ看話話答のやりとり、かけひきだけの興味になるであろう。それでは、仏道に入るのにまず最初に捨ててかからなければならない我欲が門口に出っ張っているので、これは座禅でも、仏法でもなんでもないのである。座禅は仏法であり、仏法は人生の真実である。ゆえに最初から正しい仏法で座禅するのでなければならない。すなわちそれは、真実なる自己の生命を挙げて発心して座禅するのである。」p166
かぎられた命だからこそ、「自我」へのとらわれのままに、煩悩のままに夢のように生きてはならぬ。かぎられた命だからこそ、一切の虚飾を捨て去って、自覚的に生きる。そういうメッセージが真っ直ぐに伝わってくる。
この沢木興道老師にして、日露戦争中の自分の武勇伝では、「‥‥一時の興奮で、他人との頑張り合いに命がけになって」いたというのである。「戦争中に強かったのは、他人と張り合い、頑張り合いでのぼせていたのだったということがわかったのだ。」
この人でさえ、完全に我から自由だったのではないかもしれない。しかし、口で偉そうなことをいう人間が、自ら語ることをどれほど生き方で示しただろうか。この人ほどに、金も地位も名誉も食も、そして安らうべき家さえも、まったく顧みることなく、ただ仏法のため、真実の生き方を求めていった人はまれであろう。だからこそ言葉に込められた真実が伝わるのである。
「『発心ただしからざれば万行空し』といわれる。座禅してあんな人間になてやろう、他人を抑えてやろうというようなことでは、座禅しても、無条件の座禅でなくて、ひもつきだから、結局は座禅にならないで、むしろ看話話答のやりとり、かけひきだけの興味になるであろう。それでは、仏道に入るのにまず最初に捨ててかからなければならない我欲が門口に出っ張っているので、これは座禅でも、仏法でもなんでもないのである。座禅は仏法であり、仏法は人生の真実である。ゆえに最初から正しい仏法で座禅するのでなければならない。すなわちそれは、真実なる自己の生命を挙げて発心して座禅するのである。」p166