俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

副作用の連鎖

2016-10-27 10:26:00 | Weblog
 延命策において重要なことは栄養補給と鎮痛だろう。この条件が満たされないと延命策の不備が患者を死や苦痛へと導く。ところが困ったことにこの二者が対立することがあり得、実際に私はこれに苦しめられている。
 私の食道は癌細胞によって塞がれてしまった。これは同時に三大療法である手術・抗癌剤・放射線による治療が不可能なレベルにまで進んでいるということだ。医療に可能なことはステントと呼ばれる金属を装着して強引に飲食物の通路を作る延命策だけであり私もそれを受け入れた。
 しかしこのことによって問題は一向に改善されずここから新たな問題が始まる。ステントを装着するまで私も気付いていなかったが、ステントの装着によってそれまでの癌細胞と正常細胞の争いだった戦場に新たにステントという異物が参戦して三竦みの戦いに変質する。「食べること」が殆んど唯一の課題だった争いが質的に変わって「痛みを抑制すること」が最大の課題になる。
 痛みの原因が癌細胞なのかステントなのかはこの時点ではどうでも良くなる。原因が分かっても治療できないからだ。この時点で最も重要なことは痛みの原因を除去することではなく痛みを感じにくくすることだけだ。既に延命策が選択されているから今更原因療法には戻れない。痛みを感じにくくする対症療法以外の選択肢は残されていない。しかし痛みを感じる中枢神経が麻痺させられても痛みつまり苦痛から一時的に解放されるだけであってこれがまたまた新しい問題の原因になる。その1つが思考力の低下であり脳機能が低下した状態のままで生きることは結構辛い。
 意識が半分失われて自分が眠っているのか起きているのか分からないような状態で生き続けることは苦しい。私は久し振りにコーヒーを飲んで少しでも覚醒しようと試みている。
 漢方薬ならともかく、西洋医学で使われている鎮痛剤と人間との付き合いは意外と短くせいぜい100年程度だ。物によっては10年程度の使用歴しか無い。それと比べればコーヒーとの付き合いは1000年以上に亘る。長所も短所も分かっているから効能と副作用も充分に理解されている筈だ。
 しかしコーヒー程度では問題は解決できないだろう。薬の問題は全く一筋縄ではいかぬものだ。鎮痛剤は単に知性だけではなく全身の中枢神経を狂わせる。少なくとも生理機能と運動機能の障害を招くことは明らかだ。最も基本的なたった2つの生理機能でさえこの毒牙から逃れることはできない。便秘と尿漏れは多分不可避だろう。特に便秘については薬の副作用としてほぼ確実に現れるから当初から下剤が処方されるが多くの人が苦しめられる。尿漏れに対してはそれに対応するパンツやパットが市販されているが惨めな思いをしている人が少なくなかろう。
 運動機能の低下は自転車の使用において顕著に現れる。何かの拍子にすぐに転倒してしまう。小さな文字の本を読む時以外には必要ではなかった老眼鏡はすっかり読書のための必需品になってしまった。昨日久し振りに少し長い会話をして発声力まで衰えていると気付い時には流石に驚いた。これらを鎮痛剤の副作用に含めることに異存はあるだろうがその可能性はかなり高い。抗癌剤と鎮痛剤の副作用は体の隅々にまで及んでおり、発病以来9か月で9年ほど老いたようにさえ思える。

情緒不安定

2016-10-26 09:55:08 | Weblog
 癌およびステント装着による痛みに対応するために鎮痛剤を常用するようになってから3か月ほど経つが今の一番の悩みは情緒が不安定であることだ。本人にさえ何が起こっているのか分からないまま奇妙な精神状態がここ2週間ほど続いている。これは脳機能の混乱だろう。これまでに全く経験の無い状態だからどう表現すべきかさえ分からない。
 現在5種類の薬を飲んでいる。鎮痛剤が3種類と下剤と胃腸薬だ。この5種類がどう絡み合って働いているのかはさっぱり分からないが、本来の目的である消化器系の痛みの誤魔化しには大体成功しているようだ。しかし情緒不安定が大きな問題になりつつある。
 2週間ほど前から缶コーヒーを飲み始めた。情緒不安定が始まった時期と重なるがコーヒーがその原因とは思えない。情緒不安定が先にあって、そこから生じる不安定な感情を抑制するために栄養価が低いと承知の上で飲み始めたと解釈すべきだろう。鎮痛剤が効き始めた頃から昼間眠くて堪らなくなりその癖眠れないという夢うつつの状態から逃れるために藁にもすがる思いでコーヒーに手を出したのだと思う。これが意外なほど集中力と思考力を高めた。
 以前のような半覚・半睡の状態で生きていても虚しい。しかし今のような情緒不安定も困る。今のところ覚醒する方法としては神経を精一杯何かに向けるぐらいしか見付けていない。不思議なことに集中すれば不安定な気持ちから解放される。しかし無理やり集中させるのだから当然弊害を伴う。夜になっても目が冴えた状態が続き全然眠れなくなる。
 精神を集中させることは交感神経の働きを高める。まともな精神状態であれば夕刻から夜に掛けて徐々に副交感神経が高められて落ち着く筈なのだが体内ではなく薬と人との戦いが裏に潜んでいるから、内戦ではなく戦争状態になってしまっており簡単には治まらない。戦場になっている脳は幾ら疲弊しても副交感神経優位の状態には戻れないようだ。
 つくづく向精神薬は怖いものだと実感させられ続けている。癌の痛みの解消という明確な目標があって自分自身がその目標を実現するための現場であるということを意識していなければこんな鎮痛剤の使用など即刻中止するところだろう。この情緒不安定という状態は本人にしか理解できない心理ではあるが、非常に苦しく耐え難い感情だ。

 

国益

2016-10-24 09:54:02 | Weblog
 フィリピンのドゥテルテ大統領がこれまでの国策を大転換して中国に急接近しつつある。Pax Americana(アメリカ主導による世界平和)を目論むアメリカとしてはこれは看過できない大問題だ。スプラトリー(南沙)諸島の領有権を巡って係争中のフィリピンは中国と闘うための最前線国でありもしフィリピンが懐柔されてしまえば今後の国際秩序がどうなるかさっぱり分からなくなる。
 「フィリピンのトランプ」とも呼ばれるドゥテルテ大統領は何をするか分からない危険人物と目されているだけに、巨大な危険国家の中国との接近は恐ろしい。これは中国にとって建国以来の危機とさえ思われる。
 中国にとって・・・この言葉は鎮痛剤によって呆けているから書いた誤植ではない。1日の内、数時間しか充分には働かない私の脳味噌が生みだした奇妙な未来予想だ。米中を含む殆んどの国の首脳がドゥテルテ大統領を過小評価しているのではないだろうか。上品とは言えない風貌、訛りの強い英語、力ずくであり野蛮とさえ思えるこれまでの政策、数々の失言、これらから受ける印象はポピュリズムに乗っかって当選しただけの「与(くみ)し易い二流の政治家」だろう。少々賄賂を掴ませてハニートラップでも仕掛ければイチコロではないかと思い込みそうだ。
 しかし最近時々ドゥテルテ大統領に田中角栄元首相のイメージが重なる。田中氏は低学歴であることを進んで広言していた。高学歴者が集まる国会議員の中で低学年=庶民性を強調していた。学制が違うので田中氏の学歴をどう評価すれば良いのかよく分からないが、一級建築士の資格を持っていたのだからたとえ低学歴であったとしても低学力ではなかったと思える。更に織田信長のイメージも重なる。信長は「尾張の大うつけ」と酷評されたために一部の側近を失ったりしたが周辺諸国に油断をさせることによって大きな利益も得た。
 幾ら親日家のドゥテルテ大統領でもこんな日本史までは知らないだろう。しかしもっと参考にすべき日本史がある。戦後補償においてまだ貧しかった日本は精一杯の誠意を見せたと思う。ドイツとの差が論じられることがあるが、人的にも金銭的にも充分な誠意ある対応をしたと思う。しかしその努力によって日本が得た評価は惨いものだ。勿論そんな評価をするのは一部の国に過ぎないが、「日本はユスリ・タカリに弱く、少し因縁を付ければ簡単に利用できる金蔓であり世界最高品質のキャッシュディスペンサーだ」というとんでもない評価だ。これは決して当該国が卑劣だったと言いたい訳ではない。内政であれば敵対する政党が失敗をすればそれを徹底的に攻撃すべきだ。それができなければ政治家失格だろう。国際政治であればもっと情け容赦無く攻撃せねばならない。たとえ相手国民から憎悪されようとも国益の拡大を図ることこそ政治家の仕事だ。
 ドゥテルテ大統領を甘く見て簡単に懐柔できると思っていたら大どんでん返しが待っているかも知れない。南シナ海で利権を争っている各国が揃って国際裁判を起こせば大変なことになる。狙いは領土ではなく中国による大盤振る舞いだ。中国は敗戦後の日本のようにまるで寄生虫のような国々の食い物にされかねない。意外なことだが中国にとっての外国とは皇帝の徳を慕って集う蛮族を意味した。4000年を誇る中国史には驚くべき特異性がある。それは対等の外交を知らないということだ。約4000年間は朝貢貿易しか知らなかったしこの70年間については恫喝外交しか知らない。未だ嘗て対等の外交関係を持ったことが無いから、一旦弱みに付け込まれると歯止めが利かなくなってしまいかねない。大量の寄生虫を生かすために生きる惨めな巨木が中国の未来になってしまうのではないだろうか?

天罰

2016-10-23 10:54:57 | Weblog
 ローカルな話だが愛知県春日井市で救急車が盗まれた。テレビでは責任者らしき人が再発防止策として「今後は必ず施錠をする」と釈明していたが本末転倒だろう。救急車や消防車、あるいは警察用車両などに必須な条件は迅速性だ。必要な場所に一刻も早く到着することが最優先されるべきだ。そのためには車両の鍵を一々保管庫から取り出して解錠をするような無駄な時間から解放される必要がある。緊急時の迅速な対応と比べれば盗難防止など二の次・三の次の問題だ。それでも盗難防止は重要だと強硬に主張し続ける頑固な人には「人命よりも車両を大切にすべきではない」と開き直っても良かろう。これらの車両の到着が一瞬遅れることが命取りになることさえあるだろう。
 共有物を盗んでも余り罪悪感を覚えない困った人が少なからずいる。停止した心臓に電気ショックを与えて再稼働させるいAED、必要な人が自由に補給できるトイレットペーパー、非常時に備えた予備のコードや電線、どこでもすぐに盗まれて補充が追い付かない「善意の傘」、これらは民衆の共有物として扱われるべきであって、知恵や知識と同様一部の人が所有するよりも社会で共有したほうがずっと有意義に使われる。
 軒先販売という手法は外国人には理解し難いらしい。軒下は販売員にとっては死角になるからここに陳列された商品の盗難を防止することは極めて難しい。それは猫の鼻先に魚を置くような愚行であって、一部の心の貧しい人にとっては「盗ってくれ」と誘っているかのように映るらしい。しかし日本ではこんな商品が盗まれることとは滅多に無い。戦前の日本人は現代人よりも貧乏だったが心は豊かだったようだ。軒下販売どころか、外出に際して鍵を掛ける人さえ殆んどいなかったそうだ。
 なぜそんなことが可能だったのか、あるいはどうすれば戦前のような盗難の少ない社会が再現できるかを尋ねても虚しい。現状を踏まえた上で現実的な対応をするしか無かろう。今更古き良き時代に戻ることなど期待できまい。
 共有物の盗難において問題化されるべきなのは被害者の側ではなく加害者の側だろう。盗まれないための対策よりも盗む気を起こさせない方法こそ検討されるべきだ。結局、厳罰化によって遊び気分での窃盗を阻止することが最も現実的かつ合理的な対策だと思う。
 私は共有物を盗むことを私有物を盗むことよりも悪いことだと考えている。私有物を盗んでも被害者は一人であることが多いが共有物の窃盗の被害者は不特定多数でありそれも決して少なくない人が犠牲にされることが多い。そういう認識に基づくなら共有物の窃盗に対する罰を一般の窃盗よりも重くすることは多分多くの人の賛同を得られるだろう。実際にそういう意識が共有されていたからこそ戦前は共有物が大切に扱われていたのだと思う。マスコミは窃盗を許した被害者が悪いとでも言いたいかのような現状での奇妙な姿勢を改めて、共有物を盗むことが如何に卑劣で反社会的な犯罪であるかを広く訴え続けるべきだ。教育などによる抜本的な改善は今すぐに効果が現れないからたっぷりと時間を掛けて取り組んでも良かろう。取り敢えずその第一歩として、共有物の窃盗が如何に邪悪な行為であるかを広く知らしめ、人々の意識が充分に高まるまでは防犯カメラという新たな「神の目」と厳罰という不当に思い「神罰」に頼るということも必要だろう。

統一ルール

2016-10-22 09:56:15 | Weblog
 日本のマスコミの対応はワンパターンだ。言論統制をされている訳ではないのに不思議なほど同じような報道をする。まるで自動販売機のように事件ごとに口を揃えて同じような報道をする。大きな原因は「記者クラブ」の存在だ。同じ日時に同じ組織から同じ情報が提供されてそれに基づいて記事が書かれているのだからある程度似た記事になることはやむを得ない。しかしそれ以上に酷似していると私は感じる。
 新聞業界では個々の単語の意味まで統一されている。単語の一致ぶりは科学以上にハイレベルだ。例えば「ヘルシー」や「民主主義」という言葉は本来なら価値観を含めた言葉であって新聞社ごとに微妙に違った意味で使われても不思議ではない。しかしものの見事に同じように歪められた意味で使われている。
 モラルも統一されている。エスカレータ上を歩く人は決して少なくないにも拘わらず、片側に寄って立ち止まることがまるで人類共通の道徳法則であるかのように扱われている。
 事件の原因まで予め決まっているのだから驚きだ。大人の自殺は貧困か過剰労働が原因であり、最近では後者のシェアを増やすように努めているようだ。同じ結果をもたらす原因が同じものであっても決して不自然ではないが余りにも筋書どおりだ。これは警察が同じ原因と判断した上でその情報を記者クラブに提供するから起こってしまうのだろうか?
 何とも有難いことにマスコミは解決策まで提供してくれる。言論界がこれほど一致するのであれば国会で法律を作ったり改めたりする必要など無かろう。マスコミが定めたルールに国民が従えば済むことだ。これなら国会も国会議員も要らない。最近、視覚障害者が駅のホームから転落する事故がしばしば報じられ、新聞もテレビも口を揃えて同じ対策を唯一無二の妙案であるかのように報じ続けている。マスコミによる統一見解なのだからさぞかし素晴らしい案なのかと問えばそうでもない。思わぬところからマスコミによる統一見解に批判的な意見が飛び出した。これはマスコミにとって全く想定外だったために原文のまま報道せざるを得なかったのだろう。
 「ホーム・ドアの設置が各駅に及ぶ事が理想ですが、同時に事故の原因をホーム・ドアの有無のみに帰せず、更に様々な観点から考察し、これ以上悲しい事例の増えぬよう、皆して努力することも大切」(10月20日付け朝日新聞)
 駅のホームでの転落事故について私がマス媒体経由で得た殆んど唯一と思えるまともな意見なのだが、これは何と美智子妃殿下が82歳の誕生日を迎えるに当って公表した文章の一部だ。我々庶民の発言であればこんな言葉の存在など揉み消せるのだが、皇后が誕生日に公表した文章であれば容易に隠す訳には行かない。しかしこれはマスコミがが報じ続けている統一ルールよりもずっと筋の通った正論であるように思える。こんな酷い状況であればマスコミによって情報が支配されている現状よりも、皇后制や天皇制のほうが言論の自由が許容されるのではないかとさえ本気で考えてしまう。偽りの言論の自由の元での民主制よりも真の言論の自由のある王制のほうが私には好ましい。
 

覚醒

2016-10-21 09:58:12 | Weblog
 癌による苦痛に負けず劣らず私を悩ませているのは脳の機能の低下だ。鎮痛剤が神経系統に働き掛けて痛みを鎮めているために頭が寝呆けた状態が続き頭が冴えているという状態の時間はごく限られている。この短い時間を有効に使わないと何もしない内に一日を無為徒食で終えてしまう。一日の大半が寝呆けた状態との闘いだ。鎮痛剤に「痛みを鎮める」効果は無い。中枢神経の機能を狂わせて痛みを感じにくくさせているだけだ。覚醒中枢も中枢神経の1つだから鎮痛剤によって狂わされるし癌の痛みによる睡眠不足もあり脳機能を低下させる要因ばかりが豊富に揃っている。思考のためにはまず脳を目覚めさせることから始めねばならない。寝呆けた脳では思索も読書も困難だ。勿論執筆など論外だ。書いている最中に自分が堂々巡りをしていることに気付くし、一旦書いてから読み直したら書いた本人にさえ意味不明という酷い文章もしばしば見受けられる。明らかに知能が低下している。以前に自分が書いた文章さえ理解できないという何とも情けない状態の時もある。
 幸いなことに最近、覚醒のための特効薬が見つかった。コーヒーだ。挽き立て・煎れたてなどと贅沢なことは全く言わない。当たり前の缶コーヒーで充分だ。カフェインさえ含まれていればプラシーボ効果も働いて頭が冴える。長年、朝食後と昼食後には必ず飲んでいたために却ってこの効果に気付かずにいたから癌を患って以来、どうせ飲むなら少しでも栄養価の高いものをという思いからヨーグルト飲料などを優先して飲んでいた。
 誰でも風邪などによる知力の低下を経験したことがあると思うが、鎮痛剤による寝呆けた頭で毎日を過ごすことは辛い。試しにコーヒーを飲んでみてその圧倒的な効果に驚いた。飲んでから1時間後ぐらいから効き始めて6時間ほど覚醒状態が持続する。これまで毎日寝呆けた状態で暮らしていたことが悔やまれるほど覚醒効果が高いように思える。実は煙草の覚醒効果にも最近になって改めて痛感するようになった。
 勿論これはあくまで「個人の感想」に過ぎないしこんなに劇的に効く人は多分少数派だろう。しかしコーヒー愛好者の数の多さを考えれば何らかの薬効が普遍的にあっても不思議ではない。
 感情も覚醒のために有効だ。これもまた誰でも経験したことがあるだろうが、怒ったり驚いたりすれば目が覚める。感情を意図的に自由に操れればコーヒーに頼らずに済むとは思うが残念ながらそんなことができるほどに私は人間ができていない。
 癌患者としての苦痛を減らすためのテクニックは少しずつ身に付きつつある。今後は肉体面よりも精神面が重要だ。突然興奮や不安に襲われて情緒不安定になることを克服できるようになれば闘病生活も少なからず楽になるだろう。

人体実験

2016-10-20 09:57:14 | Weblog
 薬や手術などの人体実験が増えているなどと書けば即座に「そんな馬鹿な」と反論されるだろう。しかしそれが現実であり事実から目を逸らして綺麗ごとに逃げ込むべきではない。
 先端医療の名の元で危険な人体実験が大っぴらに行われている。今、医療の現場で行われている先端医療は「実験的な医療」ではなく人体を使った生体実験だ。
 医療の対象が人間である限り最も貴重なデータは動物実験によって得られる。それは試験管やパソコンからでは絶対に得られない生々しいデータだ。動物実験はできるだけ人間に近い動物を使って行うべきでありもし何らかの事情でその動物を使えないのであれば少しでも近縁の動物を使うべきだ。象の心臓病の治療薬の実験にノミの心臓を使っても多分余り大した成果は得られないだろう。
 しかし世間の風潮は「生命尊重」だ。そして更に困ったことには人類に近い動物の生命ほど大切に扱われる。1に類人猿、2に哺乳類、以下爬虫類、魚類、原始生物といった具合にランク付けされ、人類から離れるほど実験動物として使い易くなるが、残念なことに人類から離れるほど折角の実験データが役に立たなくなる。
 確かに動物を使った実験は残酷であり倫理的には好ましくないかも知れない。動物実験を極力回避することには一理ある。しかし動物実験が不充分であれば人に対する治療のレベルが下がって、治療と言うよりも人を使った実験になってしまう。こんなことをしていれば動物愛護のために人命が危険に晒される。薬や手術などの動物実験が不充分であれば人に対する治療が危険極まりない人体実験に近付く。動物実験の回避が人体実験を増やし、それが犠牲者を増やす。これは当然の帰結だろう。
 動物実験とは何の罪も無い動物に危害を加える行為が大半だろう。実験対象にされることによって健康になる動物など殆んど皆無だろう。しかし動物実験が不充分であればどこか別の場所で実験を増やさざるを得ない。それが人体実験だ。動物実験の減少によるデータ不足を人体実験で補うなど本末転倒も甚だしい。人よりも動物を可愛がることは王より飛車を可愛がるへぼ将棋のようなものだ。
 医療にとって動物実験は情報の宝庫だ。このことを正しく評価してその貴重な情報を広く共有せねばならない。動物実験が不充分なままでの人に対する実験的な応用は医療ではなく人体実験に等しい。現状の心臓手術のレベルでは豚の心臓でさえ充分に治療できない。そんな低レベルな技術が人間に対して使われている。失敗すれば料理の材料に使えば良いというぐらいの軽い気持ちで豚を使った積極的な実験を試みていればもっと技術が高まって手術の安全性も向上するだろう。
 

データ

2016-10-19 09:56:31 | Weblog
 発言する権利を本人が主張するのであれば原則としてその権利は承認されるべきだが、無闇に発言を奨励すべきとは思えない。現代人の音楽の好みについて調査するなら音楽が好きな人の意見を聞けば充分であり音楽に関心の無い人の意見まで集約する必要は無かろう。同様に政治や司法について関心の無い人の意見を過大評価すべきではなかろう。
 コンビニなどで重視されているPOSのデータは今、何が売れているかについての情報だ。売れていない商品に関する情報は殆んど皆無だ。情報収集と情報廃棄は表裏一体の関係であり、情報処理のためには情報収集と同時に情報廃棄を行わねばならない。それを怠れば情報ではなくゴミを集めることになってしまう。
 販売データを集めるに当って最も注意すべきことは、売ろうとしているのに売れないのか売ろうとしていないから売れないのかを混同しないことだ。目に付かない場所や全く場違いな場所に陳列しても顧客はその商品の存在にさえ気付かない。もっと酷いのは陳列さえしていない、あるいはそもそも取り扱ってさえいない商品を「売れていない」と評価することだ。
 先日「夜のお菓子」という異名を持つ「うなぎパイ」が名古屋駅構内の売店から一旦撤去されその後販売が復活するというドタバタ劇があった。これは一部のマスコミが騒いだからではなくデータ処理の初歩的な間違いに気付いたからだろう。データ処理の鉄則を無視すれば間違った結論が導き出される。
 元々一部の店舗でしかうなぎパイは売られていなかった。扱い店舗が少ないのだから全店合計の売上高は少なくなる。しかし実際に販売をしていた店ではベスト10にも入るほどよく売れていたらしい。全体の状況を把握せずに判断すればこんな幼稚で初歩的なミスを犯す。
 ミスよりも作為のほうが怖い。幸か不幸か、パソコンの機能が充実することによって事象Aと事象Bの相関関係を見付けることが非常に容易になった。データ処理に熟練した人であれば因果と相関の関係を混同することがどれほど危険かを熟知している。しかしデータ分析のド素人はパソコンが弾き出した答を鵜呑みにする。中にはいとも容易く快刀乱麻を断てることの喜びを初めて知ったばかりにとんでもない結論を導き出して大喜びをしている人もいる。例えば健康と食事はかなり複雑な関係なのだから結論を出すためには細心の注意を払う必要がある。しかし彼らはそのことを理解せずに奇説・珍説を安易に丁稚上げる。売れれば良いという商業主義に毒されているマスコミは狂喜してその情報を歓迎するから両者の利害が一致して奇説・珍説が広められる。今後当分の間くだらない偽因果情報が世に氾濫してうんざりさせられることになるだろう。
 禅宗には「隻手の音声を聞け」という言葉がある。常にデータをそこまで深読みする必要は無かろうが、パソコンから大量に放出されるデータの洪水で溺れないためには、遅くとも中学3年生ぐらいまでに確率と統計の基礎について学ばせる必要がある。

名古屋の医師

2016-10-18 09:53:36 | Weblog
 脳外科医の友人が名古屋に住んでいる。友人と言っても大学を卒業して以来約40年経った今では年賀状と冠婚葬祭の挨拶状の授受だけという薄い繋がりしか残っていない。
 一応高校・大学と同窓ではあるが彼は工学部を卒業すると同時に名古屋の大学の医学部に再入学してその後は名古屋で働いていたから卒業後の生活圏は全く縁遠いものになっていた。学生時代は水泳という共通の趣味を持ち、私の専攻は哲学だったが異常心理学もかなり勉強していたので現在の彼の仕事内容が全く分からない訳ではない。経歴の違いの割には話が盛り上がるのではないかと思えただけに、退職後に時間的余裕が生まれたら是非訪問して旧交を温めたいものだと思っていた。しかし何しろ「日本で断トツに魅力が乏しい大都市」と言われる名古屋にはなかなか足を運ぶ気になれない。何かイベントがあればその時にでも出掛けようなどと考えていたらずっと無沙汰を続けることになってしまった。
 永遠の別れが迫っているだけに別れの挨拶ぐらいはせねばと思って電話をして驚いた。余りにも話が弾んで2時間近く話し込んでしまった。こんな長電話をしたのは生まれてこの方初めてのことだ。交友が途絶えてから約40年経ち、住む世界も社会も全然違うのに思想的には大学生の頃よりもずっと近付いているのではないかとさえ思えた。生物の系統樹を描けばすぐに分かることだが、一旦枝分かれをした2種類の生物は懸け離れる一方であり再接近することなど殆んど起こらない筈だ。それだけにこれは奇跡的なことだと思った。
 私は会社人間にはなりたくなかった。だから休日に社内の人と会うことは滅多に無く、大学以来の友人を中心とする社外の人とばかり会っていた。それでもやはり文系の人に偏っていたようだ。思い掛けないところで「同士」に巡り会えた喜びは大きい。医療関係の話題においては当然私が教わり、役に立たない雑学に関しては主に私が話したが、なぜか問題に対する着眼点が類似しており対話は全く途絶えずに弾み続けた。近日中に見舞いに来てくれるとのことなのでこのことが大きな楽しみになった。彼の前で恥を晒したくないと思っただけで、ここしばらく低下していた学習意欲までかなり蘇った。やはり良き友人は大切だ。ライバルとの切磋琢磨があれば人は自らの意思で賢くなろうとするものだ。群居動物である人類は他者との関係の中で育つものだと改めて思い知らされた。

偽患者と偽薬

2016-10-17 09:55:18 | Weblog
 健康が損なわれれば薬が必需品となり薬の微妙な違いが生活に与える影響も大きくなる。質や量は勿論のこと飲むタイミングが少しズレても良く効く薬が危険な毒物に化けるということもあり得る。「匙加減」という言葉があるように微妙な加減をするだけでも薬効はかなり増減する。薬の効果はそれほどまでに微妙なものだ。
 通常の健康状態であれば栄養に無関心であっても余り問題は生じない。極端な偏食さえしなければ健康は維持される。しかし欠乏症の状態であれば特定の栄養素を積極的に摂取しなければ生命に影響を及ぼしかねない。日本人の殆んどが既に充分過ぎるほど栄養を摂取しているから過剰摂取ばかりが問題にされるがこれはかなり奇妙なことだ。
 摂食量であればギリギリまで抑える必要性は全く無いが元々毒物である薬は最低限に抑えたほうが安全だ。薬を飲むことで安心できるという奇特な人もいるが折角の健康な状態をわざわざ危険に晒す必要性は無い。高齢者以外の日本人は殆んどが健康だ。健康な状態の時に薬を飲めばもっと健康になる訳ではなく、健康を害することが多い。これは当然だ。健康な人に降圧剤や解熱剤を飲ませれば少なくとも一時的には健康を害する。
 偽患者つまり健康な人には本物の薬を与えないほうが良い。本物の薬なら副作用を伴うが、メリケン粉などの偽薬であればほぼ無害だ。その一方で、病気の人の治療のために作られた本物の薬であれば副作用だけが現れて有害物になる。
 本当の病人には本物の薬しか効かないが偽の病人に本物の薬を与えることは危険であり、薬効も副作用も無い偽薬を与えるべきだ。患者と薬による世界があるように偽患者と偽薬もまた巨大な世界を構成している。医療費と呼ばれているものの大半が実は後者であり正しく使われている医療費は一部に過ぎない。
 健康な人と病気の人がいて、有効な薬と効果の無い薬があるとしよう。実際には無効でしかも有害な薬などの可能性もあるが繁雑になるだけなのでこの4つの要因だけに絞って検討する。この4つの要因によって可能な組み合わせは4種類であり必要なのは「病気の人に対する有効な薬」だけだ。それ以外は医療ではなく偽医療だ。それにも拘わらず他の3つの組み合わせも頻繁に見受けられる。
 「病気の人に対する無効な薬」が悪いことなら誰にでも分かる。しかし「健康な人に対する(患者になら)有効な薬」はもっと悪い。これによって大量の医原病患者が作られている。
 「健康な人に対する無効な薬」は健康上の問題だけしか見なければ危険性の少ない組み合わせだ。だからこの問題は軽視され勝ちだが医療費の無駄遣いとしては最大のものだ。このせいで医療費が肥大化している。