約3か月半に亘って「思いて学ばず」の状態が続いていたがようやく読書を再開できる状態まで回復した。読書をできなかったのは机に向かって座っているだけで疲れるからだ。スポーツ選手は座って休む。ボクシングにせよ野球にせよ座ることが休憩であり寝転ぶ人はいない。私も長年、座るだけで充分だと思っていたが今はすぐに横になりたくなる。考えてみれば、魚類から哺乳類に至る進化史において内臓は常に横に並んでいた。人類だけが2足歩行を始めることによって内臓を縦に並べた。これは足と腰だけではなく内臓にとっても負担になる筈だ。
昔からアイデアは「三上」(さんじょう)で生まれ易いと言われている。中国で千年以上前に生まれた言葉らしいが、馬上・枕上・厠上を指す。スウェーデンではBars Bathrooms Busses Bedsの「4B」が好条件と言われている。沈思黙考してもアイデアは生まれにくくむしろ多少リラックスしたほうがクリエイティブになれるようだ。
読書をしなければ考える時間が増える筈だが余り考えなかった。刺激が無ければ問題意識も深まらない。堂々巡りをしていることが多かったような気がする。
アイデアのためならリラックスが重要かも知れないが思考を深めるためには新しい情報が有効だろう。既に蓄積されている知識と新しい情報が対立した時に生まれる新しい知恵が大切だ。知恵を深めるためには既存の知識を否定する類いの情報に対する許容力が欠かせない。
読書を欠いていた期間に情報源として役立ったのは新聞だった。時代遅れのメディアではあるが情報の質は際立って高い。その一方でテレビから得られる情報の質の低さには呆れる。テレビはタテマエ論ばかりで、明らかに嘘と分かるしらじらしい言葉を平気で垂れ流す。放送禁止用語の存在も大きい。放送禁止用語は余りにも多い。これは、公園の禁止条項と同様にヒステリックな抗議がある度に追加されて膨れ上がったからだろう。大量の放送禁止用語によって制約されるテレビ番組で言論の自由について議論しようとすれば自ら定めた規制によって雁字搦めになってしまう。一般論として言論の自由について問う前に、放送禁止用語の是非が問われるべきだろう。言葉の禁止はその言葉が関係する事項についての議論の禁止にも繋がる。放送禁止用語の氾濫のせいでテレビというメディアは豆腐を使わずに麻婆豆腐を作ろうとするような馬鹿げた状況に自らを追い込んでいる。
言ってはいけないことがこんなに多ければ言論の自由などあり得ない。言論の自由が無い状態で言論の自由について議論することは悲劇を通り越して喜劇のレベルだろう。テレビは言論の自由を擁護するためのメディアにはなり得ない。言論を陳腐化・軽薄化して劣化させるだけだ。
昔からアイデアは「三上」(さんじょう)で生まれ易いと言われている。中国で千年以上前に生まれた言葉らしいが、馬上・枕上・厠上を指す。スウェーデンではBars Bathrooms Busses Bedsの「4B」が好条件と言われている。沈思黙考してもアイデアは生まれにくくむしろ多少リラックスしたほうがクリエイティブになれるようだ。
読書をしなければ考える時間が増える筈だが余り考えなかった。刺激が無ければ問題意識も深まらない。堂々巡りをしていることが多かったような気がする。
アイデアのためならリラックスが重要かも知れないが思考を深めるためには新しい情報が有効だろう。既に蓄積されている知識と新しい情報が対立した時に生まれる新しい知恵が大切だ。知恵を深めるためには既存の知識を否定する類いの情報に対する許容力が欠かせない。
読書を欠いていた期間に情報源として役立ったのは新聞だった。時代遅れのメディアではあるが情報の質は際立って高い。その一方でテレビから得られる情報の質の低さには呆れる。テレビはタテマエ論ばかりで、明らかに嘘と分かるしらじらしい言葉を平気で垂れ流す。放送禁止用語の存在も大きい。放送禁止用語は余りにも多い。これは、公園の禁止条項と同様にヒステリックな抗議がある度に追加されて膨れ上がったからだろう。大量の放送禁止用語によって制約されるテレビ番組で言論の自由について議論しようとすれば自ら定めた規制によって雁字搦めになってしまう。一般論として言論の自由について問う前に、放送禁止用語の是非が問われるべきだろう。言葉の禁止はその言葉が関係する事項についての議論の禁止にも繋がる。放送禁止用語の氾濫のせいでテレビというメディアは豆腐を使わずに麻婆豆腐を作ろうとするような馬鹿げた状況に自らを追い込んでいる。
言ってはいけないことがこんなに多ければ言論の自由などあり得ない。言論の自由が無い状態で言論の自由について議論することは悲劇を通り越して喜劇のレベルだろう。テレビは言論の自由を擁護するためのメディアにはなり得ない。言論を陳腐化・軽薄化して劣化させるだけだ。