俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

不眠症

2009-09-28 19:55:18 | Weblog
 健康な人は障害を持つ人の苦しみを理解しにくいものだが、不眠症(睡眠障害)は特にそうだろう。
 眠れない苦しみを知らない人は平気でこんなことを言う。「眠れないのは眠り過ぎたせいだ。寝不足になれば誰でも眠くなる。不眠症なんて甘えでしかない。」
 彼らは眠れない辛さを知らないから平気でこんなことを言う。眠れないまま朝を迎えて呆けた頭で一日を過ごさねばならない辛さを彼らは理解できない。
 眠ることは翌日に備える行為だ。翌日を良い状態で迎えようとすれば夜に充分な睡眠を取らねばならない。
 増して睡眠が昼夜逆転する自律神経失調症のレベルになってしまえば、朝か昼に眠らなければ一日中眠れないことになってしまう。
 「眠れなければ寝なければ良い」という言葉は眠れない者の開き直りであって(4月21日付け「眠る技術」参照)楽に眠れる人が言うべき言葉ではない。それは「パンが無ければお菓子を食べたら良い」とか「やせたければ食べる量を減らせばよい」と同レベルの無知に基づく言葉と言って良かろう。

再配分

2009-09-28 19:39:58 | Weblog
 政治の最も重要な業務の1つは富の再配分だろう。自由競争経済では貧富の差は拡大するし、弱者は能力以上に冷遇される。
 誰の金を奪いその金を誰に再配分するかを政策として明確化しなければ、本来、投票など不可能だ。綺麗ごとのマニフェストなんか要らない。再配分方法を明確にすべきだ。
 再配分の基準が明確なのは自民党と社民党と共産党だろう。自民党は再配分を最小限にすることが基本理念だろうし、社民党と共産党は大企業と富裕層の金を貧困層や弱者に再配分して格差を最小限にすることが根本理念だ。
 社会主義国家が健在だったころはこんな単純な図式を描けたが、現代日本の政治はもっとややこしい。民主党の子供手当てや高速道路無料化や温室効果ガスの25%削減などの政策はどの階層の利益を目論んでいるのか分かりづらい。
 高度経済成長の時代なら全体が成長していたので富の再配分は階層間の対立を招かなかった。実際には利害対立はあったが全体が膨らんでいたので深刻な対立を招かずに済んだ。
 しかし現在のような国民の総所得が減少している状況では、それぞれの政策が誰かの利益と他の誰かの不利益とならざるを得ない。不況や経済の低成長は階層間の利害対立を否応無く浮き彫りにする。

医療保険

2009-09-28 19:23:30 | Weblog
 病気になったら安静にして自然治癒能力に身を任せるのが一番だ。私の場合、薬は極力飲まない。こんなスタンスなら医療保険の財政的負担は小さい。
 一方、安静にしていたらかえって悪化する病気がある。糖尿病や高血圧症などの生活習慣病と呼ばれる病気だ。
 生活習慣病は果たして病気なのだろうか。一部の特殊なケース以外は病気とは言い難いように思える。
 風邪に代表される「まともな病気」は病原菌と肉体の闘いだ。しかし生活習慣病の場合、闘うべき相手は病原菌ではなく怠惰あるいは乱れた生活だろう。
 老化により病気が現れるのはやむを得ない。これは生命体としての必然だ。しかし生活習慣病のようなかなり自己責任といえる病気とウィルス感染や老化のような本人には殆ど責任の無い病気を医療保険として同等に扱って良いものだろうか。これは悪平等ではないだろうか。
 医療保険の財政が苦しいのは生活習慣病の患者が多いことと高齢者の増加のせいだが、自己責任である生活習慣病を一般の病気と同様に保険負担をする必要は無いように思えてならない。
 生活習慣病は治療よりも予防に力を入れたほうが費用負担は少ないのだから、生活習慣病の保険負担を下げることは予防を促す効果もあるだろう。
 生活習慣病の負担率を下げることが発生を減らすことに繋がるなら一石二鳥だ。
 こういう見直しをしなければ後期高齢者医療制度の見直しは困難だろう。

適者生存

2009-09-22 18:16:05 | Weblog
 進化は「適者生存」であり決して「優勝劣敗」ではない。その性質が優れているかどうかではなく、今の環境に適応するかという基準で進化は促される。人間の基準なら「劣化」としか思えないような特性であろうとも環境に適応していればその方向へと進化する。
 イギリスでこんな事実がある。大気汚染のせいでビルの壁が黒ずんでくるとある種の蛾は黒っぽい個体が多くなり、大気汚染が改善されて壁が白くなるとその蛾も白くなったそうだ。壁と似た色のほうが鳥の目に付きにくいので壁に煮た色の個体のほうが生存率が高いということからこんな変異が起こった。
 この現象は「進化」と呼べるほどの変異ではないが進化も同じメカニズムによって促される。
 この蛾にとって色が白いか黒いかということは優劣ではない。ただ単にその環境に適応できるかどうかだ。環境が変われば「適者」も変わる。
 進化は試行錯誤の積み重ねだ。たとえ試行錯誤であろうとも多数の個体の犠牲と膨大な時間さえあれば進化へと向かう。結果的には合理的と思われる進化も非合理的なほど膨大な無駄を経て達成される。

「私」の意味

2009-09-22 18:04:06 | Weblog
 「私は何のために存在するのか」という問いには「意味も無く存在する」と答えざるを得ない。人は意味も無く生まれ意味も無く死ぬ。
 絶対的な価値が無い限り個々の存在は意味を持ち得ない。意味が無い存在に意味を与えようとすれば事実を捻じ曲げることになる。キリスト教であろうとイスラム教であろうとオウム真理教であろうと、事実を捻じ曲げるということでは同罪だ。
 意味も無く存在するという事実を否定することは不可能だ。これを事実として肯定したうえでそれを出発点にすれば良い。無理やり意味を捏造せずに意味が無い中でどう生きれば良いか考えれば充分だ。
 生とは「場」だ。「場」が無ければ何もできない。それは舞台と俳優の関係に似ている。どんな名優でも舞台が無ければ名優たり得ない。「場」は「何か」をするための「舞台」であり「舞台」を失えば総ての可能性が失われる。
 凶悪な犯罪者も死刑を恐れる。たとえブタ箱で一生を終えようとも舞台を失くすよりはマシだからだ。
 もともと意味の無い個人の生には自分で意味を与えて自分で満足するのが唯一の正しい選択肢だろう。

減反政策

2009-09-22 17:41:23 | Weblog
 食料の生産を制限している国は多分世界中で日本だけだろう。世界中で食料が不足してどこの国でも生産力強化のために補助金を出している中で、日本だけはわざわざ米の生産を抑制するために補助金を出している。信じられないほど馬鹿馬鹿しい話だ。
 世界に類を見ない減反政策の目的は価格の維持だ。米を高値安定させるために生産量を抑えている。その結果として日本人は世界一高い米を食べざるを得ない。
 これは「ノー政」と揶揄された食管制度の歪みが現在にまで及んでいるせいだが、過去の失政を非難しても仕方がない。コロンブスの卵のような発想の転換で米の増産と農家・消費者の利益の両立を考えるべきだろう。
 私の本音は大規模農家の育成による米の生産コストの軽減だが、こんなことが一朝一夕にできるものではない。また大規模農家が生まれたら小規模農家は駆逐されてしまうだろう。
 食料自給率が僅か40%の国は国内農産物の生産と消費を奨励する必要がある。そのために、例えば米の消費税をゼロあるいはマイナスにすることも検討して良かろう。国内での米の消費量が増えれば減反する必要は無くなるし消費者にもメリットがある。米の消費が増えれば輸入に依存する小麦の消費量は減るだろう。
 食料を輸入に頼ることはかなりリスキーなことだ。需給のバランスが少し崩れれば価格は乱高下する。買うほうが偉いと思い込んで「買ってやる」というスタンスでいると思わぬ「売り渋り」に会いかねない。
 仮に穀物生産高の2割を輸出している国が天候不順のために1割減産になったら輸出量はどうなるだろうか。1割減ではない。5割減る。
 この国の生産高を100万tとするなら輸出は20万tだ。生産量が90万tに減れば、特殊な独裁国家以外は自国民の生活を優先するのが当然だから、輸出量は10万tに減る。輸入に頼ることはこれほど天候に振り回される危険な行為だ。

社会的動物

2009-09-15 16:12:59 | Weblog
 人間は社会的動物だ。ある意味では蟻や蜂と似ている。しかし蟻や蜂とは全く逆の特性を持つ社会的動物だ。
 蟻や蜂は自分の行為を選択することができない。働き蜂として生まれたら働き蜂にしかなれない。これは世襲のような生易しいものではない。本能が行動すべきことを総て決めてしまう。選択の余地は全く無く総ては予め本能が決める。
 人間の場合は本能が壊れてしまっている。従って本能によって支配されることは殆ど無い。古い言葉を敢えて使えば「自由意志」によって行動は選択される。
 自由な意思を持つからこそ社会的動物である筈の人間でありながら反社会的人間も現れる。逆説的な言い方だが、反社会的人間の存在は人間が自由であることの証明とも言えるだろう。

学習

2009-09-15 15:59:56 | Weblog
 カントの「教育学講義」において「人間は教育によって人間になることができる」と並んで有名な「人間は教育されねばならない唯一の被造物だ」という言葉は残念ながら間違っている。多くの哺乳類だけではなく鳥類の一部でさえ教育(学習)を必要とする。
 ウグイスは学習をしないと「ホーホケキョ」とは鳴けない。「ホーホケキョ」と鳴けなければメスを呼び寄せることができないので、その結果そのオスは子孫を残せないことになる。
 猿の場合はもっと深刻で、人工的に育てられると交尾も育児もできなくなってしまう。類人猿ばかりではない。多くの肉食の哺乳類も学習が必要だ。親から狩の仕方を教わらなかった肉食獣は下手なハンターになってしまい餓死するか、大変な苦労を重ねて自力で学習をして何とか生き延びる。
 本能に従っていれば生きられる筈の動物でさえ教育(学習)が必要なのだから、本能が壊れた動物である人間が教育されなければ動物以下になってしまうのは当然のことだ。
 本能という生存戦略を持つ獣は学習を欠いてもかろうじて獣であり続けられるが、本能が壊れた人間は学習をしなければ獣にさえなれない。正に「獣にも劣る人間」になってしまう。

馴養

2009-09-15 15:43:15 | Weblog
 「人間は教育によって人間になることができる」とカントが「教育学講義」に書いていることを、恥ずかしながら最近初めて知った。教育学では常識となっているカントの言葉を知らずに自分のオリジナルだと思っていた。お恥ずかしい次第だ。改めて勉強不足を痛感した。
 負け惜しみで書く訳ではないが、教育には2面性がある。「育成」と「馴養」だ。
 前者は本来の意味の「教育」であり説明は必要無い。問題は後者だ。
 権力者は市民(citizen)を家畜にしようとする。権力者にとって扱い易い従順な大衆にしようとする。権力者が意図的に流す情報を無批判に鵜呑みさせようとする。社会のため、あるいは会社のために役に立つ「社畜」に改造しようとする。馴養のカリキュラムは人間を家畜化するためのものだ。
 このような市民の社畜化が「教育」の名の元で行われている。アメリカの多くの州では進化論は教えられていないし、北朝鮮や中国の教科書に至っては嘘で塗り固められている。
 「教育」の名の元で行われる「馴養」こそ「育成」の最大の敵だ。それが育成か馴養かは、残念ながら自分で判断するしかない。教育によって育まれた「誠実性」と論理力が馴養という人間を劣化させるシステムを拒んでくれることを期待する。

ナザレのイエス(2)

2009-09-08 15:57:14 | Weblog
 イエスの教えとキリスト教の教えは懸け離れている。イエスの教えを歪めて曲解したものこそキリスト教だ。
 イエスの教えと新約聖書も随分違うだろう。あちこちに捏造としか思えない記述が見られる。
 キリスト教は一応聖書に基づきながらも曲解に曲解を重ねている。多分主な宗教会議のたびに捏造に近いほどの改竄が行われたことだろう。その結果、イエスの教え≠聖書≠キリスト教という図式になってしまった。
 イエスが本当に何を行い何と言ったのか今では分からない。その残滓は歪められた形で聖書に残されているだけだ。
 イエスという人間に興味を持つ人は捏造の書である新約聖書から本来のイエスの人間像を読み取るしかない。しかしこれは古事記や日本書紀から日本史を読み取ること以上に難しいことだろう。