俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

犯罪者の更生

2012-11-29 11:13:13 | Weblog
 レ・ミゼラブルの主人公のジャン・バルジャンは服役囚から更生して市長になったが、日本でこんなことが可能だろうか。政治犯から議員になった人ならいるが刑事犯の更生は難しい。
 愛知県の豊川信用金庫立て籠もり事件の長久保容疑者は出所後しばらく更生保護施設にいたらしい。その後、無銭飲食などを繰り返した末に立て籠もり事件を起こした。
 日本で出所者が生きることは難しい。更生できる人は何%ぐらいいるのだろうか。これは本人の資質だけではない。出所者が正業に就ける可能性はかなり低いだろう。出所者に対する差別が酷過ぎるのではないだろうか。身体障害者や精神障害者の雇用を企業に義務付けるのなら、出所者の雇用を義務付けても良かろうと思う。
 日本で再犯率が高いのは、出所者が雇用されにくいことも一因だろう。刑務所から放り出されても、金も職も無ければ犯罪に走る可能性は高くなる。
 高齢者ならもっと悲惨だ。2012年版の犯罪白書によると65歳以上の高齢入所者の7割が再犯以上で、6度目以上の累犯者が何と4割を占めるそうだ。社会に放り出されても生活ができずやむを得ず犯罪に手を出す人や、無銭飲食などでわざと捕まって三食が保証される刑務所へと戻る人が大半を占めているのではないだろうか。
 出所者を困窮させることが犯罪の増加に繋がることは間違い無かろう。刑務所から放り出して後は知らん顔をするのではなく、出所者がまともに生活できる仕組みを作る必要がある。それを怠れば今後ますます高齢犯罪者が増えることになるだろう。これは日本の治安にとって好ましいこととは思えない。

赤と青

2012-11-29 10:47:33 | Weblog
 赤・青・白・黒は日本語では特別な意味を持つ。この4色だけが「い」を付けて形容詞にすることができる。この4色以外で「い」を付けられるのは黄色と茶色だけだ。但し「黄い・茶い」ではなく「黄色い・茶色い」となる。赤と青が基本軸であり、黄色と茶色はこの基本軸から外れた色と位置付けられているようだ。
 赤・青・白・黒が主要色で、赤が暖色を青が寒色を代表する。だから殆んどの色が赤いか青いかで分類される。白・黒は明暗を表す。
 小学生が「なぜ緑色の信号を青信号と呼ぶのか」と尋ねるのならご愛嬌だ。緑も黄緑も紫も青系の色(寒色)と位置付けられている。だから青葉とか青田とか青蛙などは緑色でも「青」と呼ばれる。同様にオレンジ色もピンクも「赤い」と表現される。赤ん坊も赤飯も本当に赤い訳ではないが赤みがかっているので「赤」と称される。
 青信号が緑信号なら青虫や青海亀は「緑虫」であり「緑海亀」ということになる。これは日本語の「青」の意味を理解していないことによる屁理屈だ。
 白と黒も両極だ。その間には無数のグレーの濃淡がある。
 味覚は甘い・辛いで表現されるように甘辛が基本軸だ。しかし苦い・酸っぱい・旨いが忘れられている訳ではない。甘辛を基準にするのは子供だけであり、料理の良し悪しは総合的に判断されている。
 日本人は決して二分割法を万能とは考えなかった。だから「黄色い」や「茶色い」というカテゴリー外の言葉もちゃんと存在する。赤・青という二極に拘束されずに黄色と茶色を第三極として位置付け、それがしっかりと日本語の文法にまでなっているということに日本人の偉大な叡智を感じる。

自然治癒力

2012-11-27 10:24:38 | Weblog
 治癒できるのは医療によってではない。自然治癒力に依存する。医療に可能なのは応急措置に過ぎない。医療がすべきことは自然治癒力の活性化や有害物の排除といったアシスト機能であり主役にはなり得ない。治癒の主役は自然治癒力だ。
 大きな切り傷を負ったとしよう。医師は切れた筋繊維や皮膚などを縫合する。医学に可能なのは非常事態に対する間に合わせの処置だけであり、その後の修復は自然治癒力に依存する。もし自然治癒力が働かなければ傷口は繋がらないので縫合に使った糸を抜くことはできない。従ってもし動物に自然治癒力が備わっていなければ縫合という方法ではなく接着剤で継ぎ接ぎにすることが傷の治療となることだろう。復元することが余りにも当り前のように行われているので見逃され勝ちだが自然治癒力こそ治癒の本質だ。
 治癒が自然治癒力に依存するということは充分に認識されねばならない。医療で治せると思うことはとてつもなく傲慢なことだ。医療は自然治癒力のための黒子に徹せざるを得ない。
 癌に対する三大治療法は手術・抗癌剤・放射線だが、これらは癌細胞だけではなく正常細胞をも破壊する諸刃の剣だ。癌細胞を痛め付けるのと同程度に正常細胞を破壊する。
 自陣に侵入した敵を倒すために大型爆弾を使用するのは愚かなことだ。味方を支援することが重要だ。自然治癒力を高めることこそ最優先されるべきだ。

学歴偽装

2012-11-27 09:55:52 | Weblog
 田中文部科学大臣は「大学の数が多過ぎ、質が低下している」と言って大学の認可制度の見直しを指示したが、見直されるべきなのは大学なのだろうか。むしろ高校卒業という資格が本物かどうかが問われるべきではないだろうか。
 しばしば問題にされるのは分数の計算ができないとか二次方程式が解けない大学生が少なからずいるということだ。しかしこれはそもそも大学の責任だろうか。
 大学を受験するためには充分な基礎学力が必要だ。つまり高校を卒業するか高等学校卒業程度認定試験(旧・大検)に合格しなければならない。文科省が高校課程を履修または履修相当の学力があると認めた者しか受験できない筈だ。ではなぜ中学レベルの学力さえ持ち合わせていない者が受験できるのだろうか。それは高校が高卒に相応しい学力を持たない者まで落第させずに卒業させているからだ。
 受験資格を持つのは基礎学力を身に付けた者だけだ。高卒の資格を満たさない者にまで卒業証書が渡されていることが諸悪の根源だ。見直されるべきものは大学ではなく高校によって大量生産される学歴偽装だ。
 大学は高校課程を終えた者を対象にして入学試験を実施する。ここに学歴偽装者が紛れ込む。学歴偽装者を受け入れた大学こそ被害者だ。一部の大学では高校までのカリキュラムの補習までやらされている。高校の3年間とは一体何だったのだろうか。こんな馬鹿なことになるのは文科省が学歴偽装を放置しているからだ。
 問題なのは大学ではない。高卒のレベルに達していない者に卒業証書をバラ撒く高校だ。文科省は高校教育のデタラメぶりにこそメスを入れるべきだ。

予防医療

2012-11-25 09:47:22 | Weblog
 15日付けの「予防のウソ」で書いたように私は「予防」という言葉に胡散臭さを感じている。医療や環境などで「予防」という概念が恣意的に使われてデマやデタラメが横行しているからだ。ところが「予防医療」という言葉が医療関係者の間では思いも寄らぬ意味で使われているということを最近知った。これは国民を病気から予防するという意味ではなく、患者から自分達が訴えられないように「予防」するという意味だそうだ。
 どうやって予防するのか。インフォームドコンセントもその1つであり、匙加減をしないことも訴訟を避けるためのテクニックだ。本来、薬には匙加減が必要だ。薬の適正量は人によって異なる。子供と大人だけではなく体格や体質によっても違うだろう。200㎏の巨漢と平均的な体格の人の適量が同じとは思えないし、高齢者なら薬の成分を分解する機能が低下しているから少量あるいは少頻度にすべきだろう。
 わざと匙加減をしないのは「予防」のためだ。薬が効かなくても、あるいは副作用が起こっても「厚生労働省の指針どおりに処方した」ということで責任を免れることができる。しかし本来すべき匙加減をしないことは患者を危険に晒すことになるし医療費の無駄遣いにも繋がる。
 予防接種も匙加減をすべきだろう。体重の大小やアレルギーの有無に基いて木目細かく対処すれば副作用による事故はかなり減るだろう。そばや卵などの食品でさえアレルギー反応を起こす人がいるのだから、毒物でもあるワクチンの投与には細心の注意が必要だ。それを怠るのは基準通りの接種なら責任を問われないからだ。指示した厚労省も責任を取らないから、結局国民が責任を被らされることになる。何という無責任体質か!

雇用の需給

2012-11-25 09:20:04 | Weblog
 需要が増えれば価格が上がり供給が増えれば価格が下がることは経済学の常識だ。このことは当然、雇用についても当てはまる。働きたい人が多ければ給料は下がり、少なければ上がる。
 典型的な実例は東西ドイツの統合時だ。東ドイツが崩壊した時に大量の非熟練労働者が西ドイツに流れ込んだ。西ドイツでは雇用を確保するためにワークシェアリングを積極的に導入せざるを得なかった。
 日本で労働者が急増したことが近年に2回あったと思う。1986年以降と2007年以降だ。それぞれに何があったのか。
 1986年には男女雇用機会均等法が施行された。この法律を悪法と決め付けるつもりは全く無い、必要な法律だ。しかしこの時期から男性の非正規雇用が増えたという事実を見逃すべきではない。つまり雇用需要が変わらない中で女性の正規雇用を増やせば男性の正規雇用が減って非正規雇用が増えるのは当然のことだ。
 私は男女の平均知力は同等だと考えている。但しバラツキ方は全然違う。男性は出来・不出来の差が大きく、女性は安定した中位に集中する。そのために特に際立った人材を求めるのでなければ女性を雇ったほうが得だ。そのほうが外れが少ない。
 2007年からは団塊の世代の定年退職が始まった。高齢者が退職すれば雇用のチャンスが拡大する筈なのにそうならなかった。高齢者の多くが低賃金で働いたからだ。能力があり社会経験も豊富でワーカホリックな高齢者を安く雇えるなら、戦力的には未知数で学力低下の著しい新卒者など雇いたいと思わないのは当然のことだろう。
 雇用の不安定化についてはグローバル化を根拠にして説明されることが多いが、実は国内事情の占める割合が意外に大きいのではないだろうか。

歩道の自転車(3)

2012-11-23 13:49:30 | Weblog
 歩道を歩いていて後ろから自転車のベルが聞こえたらどうするだろうか。私はそのまま歩き続ける。ほんの少しぐらいなら脇に寄るかも知れないが、少なくとも歩道から出て道を譲るようなことはしない。なぜなら歩道の優先権は歩行者にあり、近付いていることを告知するためのベルなら合法だが、道を空けろという意味でのベルは違法だからだ。従って私は相手も道路交通法を知っているという前提で、極力左右にぶれないように気をつけて真っ直ぐに歩き続ける。私を追い抜く若い男の中には振り返る者もいる。「なぜ道を譲らないのか」とでも言いたげだ。しかし違法なのは彼であって私ではない。彼が私を咎めるのは全くお門違いだ。彼の不満は被害者の抵抗を非難する強盗のようなものであって理不尽だ。
 なぜこんなことになるのか。法律を知らないからだ。道路交通法を知らないから早い者に優先権があると思っているからだ。しかし仮に事故が起こった場合、責任は100%彼にある。法律を知らなかったという理由で免責されることは無い。
 私は彼に怒ろうとは思わない。彼の無知を哀れむ。悪いのは、ルールを教えない警察であり学校だ。あるいはこんな大切なことを学校で教えさせない文部科学省に対して怒るべきなのかも知れない。
 巷には情報が溢れ返っているのに法律を知らない人が多過ぎる。マスコミは下らない番組をもっと減らして啓蒙活動に取り組むべきだろう。

医療不信

2012-11-23 13:17:59 | Weblog
 科学が日進月歩であるように医療も進歩する。昨日まで常識だったことが否定されることは決して少なくない。
 この40年で生活は大きく変わった。テレビはブラウン管から液晶へ、電話は携帯へと変わり、パソコンは必需品になった。40年前のコンピュータはピアノほどの大きさで計算しかできない機械だった。電卓が発売されてもしばらくの間は算盤で検算したものだった。
 少なくとも家電については40年前の常識は役に立たない。食品も変わった。菓子は勿論のこと、野菜でさえチンゲンサイやモロヘイヤなどは昔は無かった。
 医療は余り変わらない。最先端の病院なら最新の情報を活用しているだろうが、町のヤブ医者は数十年前の学生時代の知識に頼っている。そんな古い知識さえ殆んど忘れて、良く言えば経験に、悪く言えばヤマ勘に頼っている。医師の免許は更新されないが、今、国家試験を受けたら不合格になるような医師が少なくなかろう。
 私が医療不信に陥ったのは2009年に「傷はぜったいに消毒するな」という新書を読んだことがきっかけだった。正直な話「そんな馬鹿な」と思った。しかしその後、それを支持する本が続出し、最近では少年マガジンの「Dr.デュオ」という漫画にまで登場した。完全に定説になっているようだ。
 常識が覆ったのならもっと騒がれても良かろう。マスコミは怪しげな健康情報を垂れ流すよりも覆った常識についてもっと時間を割くべきだろう。
 血圧・血糖値・コレステロール値も高いよりも低過ぎるほうが危険らしい。これらの誤った健康常識はいつになったら是正されるのだろうか。危険な民間療法が駆逐されないのは医療不信の表れだろう。この国の医療レベルは本当に先進国に相応しいと言えるのだろうか?

有害な医療

2012-11-19 10:58:10 | Weblog
 真の病気の市場よりも偽の病気の市場のほうが遥かに大きいのではないだろうか。
 医療と病気の関係は次の4種類だろう。①医療が必要でなく放っておいても治る病気②医療が作る病気③医療によって治る・または進行が抑えられる病気④医療が対処できない病気。肝腎の③は10%ぐらいに過ぎないのではないだろうか。
 圧倒的に多いのは①だ。その中でも風邪は最悪のパターンだ。医療が治癒の妨害をしている。風邪の患者に対して医師は解熱剤などの対症療法に過ぎない薬を処方する。これは目先の症状を緩和することによってヤブ医者という悪評が立たないようにするための自己防衛であり全く患者のためにはならない。対症療法のせいで風邪の症状は長引く。
 血圧や血糖値などがほんの少し高いだけの健常者も常顧客だろう。彼らは病気ではない。しかし「放っておいたら大変なことになる」と医師が脅すので固定客になる。元々病気ではないのに継続的に医療費を払い続けるのだからこんな有り難い客はいない。
 最も恐ろしいのが②だ。イレッサやサリドマイドなどの副作用だけではない。厚生労働省が定める基準値をほんの少しだけ上回る人は本来、生活習慣さえ改めれば病気にならずに済む人だ。ところが医師は生活習慣を放置して薬を処方する。例えば軽度のアルコール性肝炎ならアルコール摂取量を控えさせれば済むのに肝臓の薬を与える。根本問題に手を付けずに症状を緩和するだけの薬を与えるから患者は薬に頼って生活習慣を改めずに症状を悪化させる。少し血糖値が高いだけの人にインスリンを投与し続ければ膵臓の機能が低下して重病者になる。コレステロール値や血圧を薬で無理やり下げられた高齢者が認知症に近い症状になることは少なくないそうだ。これらは医療が作る病気だ。
 医療にはできることとできないことがある。今のところ風邪と癌は治せない。治せないものを治せると偽るのは科学ではなくオカルトだ。医学にはオカルト的な側面があるから健康な人を病人にしてしまう。一刻も早くオカルトから脱して科学になって欲しいものだ。

怒りの心理学

2012-11-19 10:53:43 | Weblog
 怒りは激しい感情だ。もしかしたら最も激しい感情かも知れない。それまでの価値体系を破壊しかねないほど強い感情は好き(性欲)と怒りだけではないだろうか。怒りと性欲は社会秩序を破壊しかねないほど強烈な感情だからこそ否定され続けた。
 フロイトによって性欲は市民権を得たが怒りは今も否定され続けている。怒りは邪悪な感情でありそんな感情に支配されないことが奨励されている。しかし怒りを忘れることは達観ではなく唯の抑圧ではないだろうか。怒りのパワーを評価すべきだ。
 抑圧された怒りは抑圧された性欲と同様に歪んだ形を取って現れる。ヤツアタリは正しくそれだ。これは性欲の転嫁と同様に怒りの転移と言えよう。余りにも日常的であるために異常心理とは見なされていないが、全く不合理な感情だ。
 怒りが抑圧されれば「不機嫌」という状態に陥る。これは抑圧された性欲が神経症を招くような異常心理だ。怒りの存在を認めて、本来何に対して怒っているのかを把握することが必要だ。
 怒りの効能については心理学者よりも政治家のほうがよく知っているようだ。中国・韓国による反日抗議は国内の不満を逸らすためのガス抜きであり、アメリカの仮想敵国も国内の怒りを誤魔化すためのスケープゴ-トに過ぎない。
 怒りは転移する。本来怒るべき相手に対して怒れない時、それは矛先を変える。全く関係の無い人に怒りをぶつけたり、自分自身に向けたりする。後者が鬱病の主因ではないだろうか。
 怒りは蓄積する。怒りを蓄積し続ければ発露すべきでない時に爆発する。
 「怒りの心理学」はまだ生まれていない。しかしこんな激しい感情を無視するべきではない。もしかしたら性欲以上に重要な行動原理でありながら軽視されているのではないだろうか。