俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

一所懸命

2009-07-28 19:48:31 | Weblog
 もしサラリーマンの査定が①一所懸命働いたか②成果を残したか、の2項目で評価されるなら次の順に並ぶのが普通だろう。
 ①一所懸命働いて成果を残した。
 ②一所懸命働いたが成果を残せなかった。
 ③一所懸命働いたとは言い難いが成果を残した。
 ④一所懸命働かず成果も無かった。
 私の評価では②と③が逆になる。決してガチガチの成果主義者ではないが絶対にこうすべきだと思っている。
 成果は事実だが、一所懸命働いたかどうかは誰にも分からない。毎日昼間は外出し、夜は残業していても、ただ単に昼間はサボッて夜は残業代稼ぎをしているだけかも知れない。分からないことを分かること以上に評価することはエコ贔屓や恣意的な評価を招く。これは公正な評価とは言えない。
 サラリーマンの努力は成果を残すためのものだ。もし成果が残らないなら手法が根本的に間違っているからかも知れない。それは時間の無駄遣いでしかない。まともな努力ならたとえパーフェクトでなくても何らかの成果は残る筈だ。
 たまたま立ち寄った「餃子の王将」で採用の予備面接が行われていた。中国人の女子学生は「一所懸命働きます」とカタコトの日本語で懸命にアピールしていた。王将の店長は冷たく「一所懸命働くかどうかが問題じゃない。お客さんとちゃんと日本語で会話ができるかどうかが大事なんだ。」と言った。
 中国人が理屈ではなく情に訴えようとして、日本人が理屈で答えるという常識とは逆のやりとりが何とも可笑しかった。

冤罪のメカニズム

2009-07-28 19:28:08 | Weblog
 相撲での引き技は、決まれば良いが決まらなければ墓穴を掘る。一旦力を後ろ向きに働かせたベクトルを前に向かわせるためにはゼロではなくマイナスからスタートせねばならない。そのために力が入らずズルズルと土俵を割ってしまう可能性が高い。
 相撲に限らず心理戦においても一旦弱気になると同じようにズルズルと押し込まれてしまうようだ。
 先日あるブランド店で店員と万引犯のやりとりを見た。万引犯は現行犯で捕らえられたようですっかり弱気になっていた。
 たまたま私以外に客はいなかったが犯人は周囲に憚ることなく泣き叫び土下座して謝っていた。彼の願いは唯ひとつ「親にだけは伝えないでくれ」ということだった。
 店員は不思議がって「職場に伝えたらクビになりますよ」と言ったが、犯人は市役所の職員証を見せて「何でもするから親にだけは言わないでください」と言って土下座をしていた。
 どんな事情があるのか分からない。家庭内暴力があるのか遺産相続問題が絡むのか分からない。そんなことを詮索するつもりは無い。
 私が最も驚いたのは「親に知られたくない」という一念だけでここまで総てを投げ捨てることができるのかということだ。
 最近、千葉で起こった母親殺害と次女監禁・連れ回し事件の場合、多くの人がなぜ逃げなかったのかと不思議がるが、殺されたくないという一念が現状維持を選ばせたのだと思う。
 虚偽の自白も似た心理が働くのかも知れない。「とにかく今の状態から逃れたい」という強過ぎる思いのために冷静な判断力を失くして「今の状態から逃れるためならどんな嘘でもつく」という心境になるのだろう。
 こんな異常な状態であろうと虚偽の自白をしてしまえばそれで最後だ。一直線に有罪へと向かう。その事情については次の(時間的には「前」の)「自白の撤回」で。

自白の撤回

2009-07-28 19:04:23 | Weblog
 一旦自白してしまうとそれを撤回することは極めて難しい。自白を撤回するためには、自分が嘘をついたと主張せざるを得ないからだ。それもその場を逃れるための「その場しのぎ」の嘘をついたと自ら主張せねばならない。
 その結果2枚の調書が警察に残される。
 ①自分は犯人である。(自分に不利)
 ②自分は犯人でない。前回は嘘をついた。(自分に有利)
 この2枚の調書を再検討する場合、容疑者は嘘つきであることが前提とされる。自ら矛盾したことを供述していることと併せて、どちらかが嘘であることは100%確実だ。
 人がどんな場合に嘘をつくか考えればどちらのほうが信憑性が高いかは明白だ。自分が有利になるために嘘をつくと考えられる。
 野球のホームベース上でのクロスプレイがあったとしよう。もしキャッチャーが落球を認めたら審判は彼の正直さに感激しつつ「セーフ」と判定を下すだろう。
 人は自分が有利になるためには嘘をつくが不利になるために嘘をつくことは普通ではあり得ない。
 元の話に戻ると、証言が矛盾する場合、自分が有利になる主張のほうが嘘である可能性のほうが遥かに高い。当然警察はこの点を指摘して自白の撤回を許さない。自ら「その場しのぎ」の嘘をついたと認めてしまった容疑者による反論は困難だ。
 彼の証言は次のように整理できる。
 ①かつての、その場しのぎの、自分に不利な、嘘の話
 ②今の、正義のための、自分に有利な、本当の話
 この2つの命題は明らかに矛盾しているが、個々の言葉をそのままにしてシャッフルするとこうなる。
 (1)かつての、正義のための、自分に不利な、本当の話
 (2)今の、その場しのぎの、自分に有利な、嘘の話
 これは論理の遊びに過ぎないが、自白を覆すことは非常に困難だ。
 とにかく「嘘つきだと自分で認めている者の証言など信用できるものか」と警察に言われたら反論は諦めざるを得ない。

混ぜすぎないこと

2009-07-21 14:53:13 | Weblog
 D級グルメ(Z級グルメ?)と言えそうな卵かけご飯が私は大好きだ。3日に1度は食べているが仮に毎日でも食べ飽きない。
 最近(もしかしたら通には当たり前のこととして知られていたことかも知れないが)、混ぜすぎないほうが旨いことに気付いた。卵かけご飯を丁寧に混ぜるよりも適当に白ご飯のままにしておいたほうがずっと旨い。卵も溶きすぎないほうが旨い。
 考えてみれば当たり前のことかも知れない。カレーや鰻丼や天丼を混ぜる人は殆どいない。これらを混ぜることは単に下品なだけではなく料理をわざわざ不味くしているのだ。
 もし幕の内弁当の間仕切りを取り払ったらどうなるだろうか。美しさが損なわれるだけではなく、味が相互に干渉して全体が劣化する。
 人はそれぞれが違った魅力を持っている。個々の人が魅力的でも集団の中で混ざってしまうと駄目になる。混ざらずに個性を発揮したままのほうが魅力的だ。
 レノン+マッカートニーが2+3=10になったのは奇跡的な例外だろう。彼らは全然混じらなかった。強烈な個性のハーモニーが数多の名曲を生んだのだろう。
 ところで自民党も民主党も全然違った政治思想の政治家が集まった烏合の衆と思える。しかし適当に内部抗争しているからそれなりに政党として面白い。一方、公明党とか共産党とか社民党は金太郎飴のようなもので全然面白くない。

雇用のミスマッチ

2009-07-21 14:34:04 | Weblog
 100年に1度の大不況と言いつつ実際には求人倍率の高い職種がある。①医師・薬剤師5.40②保健師・助産婦4.20③保安関連3.80④福祉関連3.31。(厚生労働省2008年12月末・関東圏より)
 一方、求人倍率の低い職種は次のとおり。①事務職0.19②管理的職業0.45③農林漁業0.47.(同資料より)
 求人倍率の高い1・2位の職種は資格取得が難しいから倍率が高く、3・4位は多分3K(きつい・危険・汚い)でしかも収入が少ないからだろう。
 もし求人倍率の低い職種を希望する人が高い倍率の職種の応募に切り替えたら失業率は一挙に低下するという理屈になるが実際にはそうならないから失業率は高止まりしたままだ。これが雇用のミスマッチと呼ばれている。
 しかし、もし、ある企業が自社と子会社を使って社員を強制的に転籍させればその企業グループ内でのミスマッチは一挙に解消される。つまり辞めさせたい事務系の管理職の社員を保安や福祉の仕事に転籍すれば人余りと人不足が同時に解消される。
 そんなことの可能な企業がある。関西のとある大手私鉄が鉄道以外の付帯事業としてビル管理や福祉事業の子会社を持っている。この企業がそんなウルトラC的な配置転換をすれば企業内での雇用のミスマッチは一気に解消される。この配置転換を社員が拒否すれば「希望退職」に追い込むことができる。こんな恐ろしいリストラ策が実際に行われているとは思いたくないが。

社会の縮図

2009-07-21 14:15:03 | Weblog
 ニュースは社会の縮図ではない。「歪んだ社会」の縮図だ。
 昔から言われているように、犬が人を咬んでもニュースにはならないが人間が犬を咬んだらニュースになる。つまり正常な出来事はニュースにはならず、異常な出来事だけがニュースとして報道される。
 正常な99.9%の出来事は報道されず異常な0.1%の出来事だけが報道されると、犯罪や自殺などの異常な出来事の情報ばかりが伝わってしまい、異常な社会が正常な社会と思い込まされてしまう。
 子供は決して凶暴化してはいない。母親は母性を喪失した訳ではない。男は変態ばかりではない。
 ニートの道を選んだ人の多くは歪んだ報道の犠牲者かも知れない。子供の自殺の責任の半分はマスコミが負うべきだろう。
 ニュースだけを信じていると歪んだ社会を受け入れてしまい悪事でさえ「誰でもやっていること」と信じかねない。
 川泳ぎの危険や新手の詐欺などのように社会への警鐘となる事故や事件の報道ならたとえ稀な事例であろうと報道することは必要だが、センセーショナルな事件を追いかけて野次馬根性を煽るような姿勢は慎み、もっと日常的な問題に目を向けるべきだろう。例えば学力低下とか終身雇用制の問題点とか交通ルールなど広く普遍的に見られる社会問題に注目すべきだろう。これらを報道したからと言って一朝一夕に解決される訳ではないが、誰もマスコミに解決して貰おうとなど思っていない。事実を報道してくれればそれで充分だ。あとは国民が考えるべきことだ。
 最近、市場主義経済が批判されているが、マスコミの市場主義(営利主義)こそ最も批判されるべきことだ。

高齢者のワークシェアリング

2009-07-15 16:57:56 | Weblog
 100年に1度の不況にあえぐ企業にとっては、大した働きもせずに高い給料を受け取る高齢者は給料泥棒であり穀潰しでしかなかろう。しかし高齢者の高給は年功序列制度のもとでは当然のことだ。あとで支払うという約束のもとで若い間は安月給でコキ使われて、いざ受け取る時期になったら反故にされるのでは詐欺のようなものだ。
 こんなあと払い(ツケ)というシステムの矛盾が現在の高齢者潰しを招いているのだが、今更どうしようもない。
 唯一の解決策は高齢者のワークシェアリングだろう。定年後の生活の準備を兼ねた週休3日制や4日制は必ずしも高齢者にとって不利益とは思えない。時給換算では賃上げとなる形での休日増は高齢者にとっても企業にとってもメリットがある。
 企業にとってのメリットは単に経費削減だけではない。フル勤務では体力的に厳しい高齢者に時間的余裕を与えることによって経験を生かした創造的な能力を発揮して貰える。言わば耐久レースの代わりに短距離走で能力を発揮してもらうようなものだ。

99.9%

2009-07-15 16:38:49 | Weblog
 刑事事件の地裁判決の有罪率は99.9%だそうだ。(07年99.86%、06年99.87%、05年99.82%)
 これほど有罪率が高いのは余程検察官が優秀なのか、弁護士が働かないのか、裁判官が無能なのかのどれかだろう。多分、国は裁判官の能力が低いと考えて素人参加の裁判員制度を導入したのだろう。
 裁判官が最優先で判断すべきことは検察側の主張がそもそも正しいかどうかということであって、量刑をどうすべきかは二次的な課題だ。
 これほど有罪率が高いと裁判官は根本的な問題(有罪か無罪か)を考えずに量刑だけを考えるようになってしまう。どの程度の罪を課するかだけが自分の仕事だと錯覚してしまう。
 司法の世界は検察・弁護・判事の3者のバランスで成り立っている。この3者が馴れ合ってしまったらまともな判決は期待できない。
 被告もこの有罪確率の高さから起訴された時点で無罪を諦めてしまう。争点は減刑に絞られる。これだから冤罪が多発する。
 裁判官はまるで自動販売機のようなものだ。検察側の求刑を2割引にすることが裁判官の仕事で、この2割が弁護士の収入に繋がるそうだ。なんという談合体質か。こんな状態では裁判に期待できない。
 多分、裁判官が無罪判決を出すためには大変な勇気が要るのだろう。何しろ1,000回に1回しかないことであり、もし裁判官に無罪判決を出されたらその担当検察官の将来は閉ざされてしまいかねない。検察官を守るためにも裁判官は有罪判決を出し続けねばならない。一生に一度も無罪判決を出したことのない裁判官もいるのではないだろうか。

神無き世界

2009-07-15 16:26:12 | Weblog
 一神論の西洋人だけではなく多神論の日本人も「神無き世界」を恐れる。神という絶対的価値が無くなれば社会の秩序が崩壊すると本気で考える。
 嘘に基づく秩序など要らない。嘘に基づく平和も要らない。嘘に基づく安寧など全く必要ない。
 偽りの価値体系など崩壊させるべきだ。事実に基づいて価値体系を築き上げれば良い。
 絶対者を求めるのは奴隷根性だ。奴隷のみが命令されることを望む。主体的に生きようとする者は絶対者を求めない。
 神という絶対者からの解放は人間を自由にする。嘘によってがんじがらめになっていた人間が初めて自らの意思に基づいて行動する自由を得る。
 堅牢な嘘よりも柔弱な事実のほうが好ましい。嘘はいずれ嘘であることが白日の元に晒される。神を失くして初めて人間は自己を獲得できる。
 普遍的な価値がある→あるべき→あって欲しい、という妄想を卒業して相対的価値の荒海に船出して初めて人は人本来の姿を獲得できる。


共感

2009-07-07 17:02:23 | Weblog
 共感は人間特有の優れた能力だ。しかし不幸への共感は人を不幸にする。もともと悲しみや不幸が多すぎる人間という生き物が他人の不幸や悲しみに共感してしまえばこの世を呪いたくなってしまう。
 日本では子供の頃から「同情」することを教えられるが、これは生きる喜びを減らしてしまう。
 より重要なのは喜びに対する共感だ。他人の喜びを共感できればこの世は喜びに満ちたものとなる。
 あるいは笑いに対する共感も良い。レベルの高いジョークで共に笑うことは生きる悦びを与えてくれる。
 同情ではなく喜び・悦び・慶びに対する共感を習得すべきだ。マイナスの共感を奨励するのではなくプラスの共感を奨励するだけでこの世は遥かに素晴らしい世界に変貌する。