俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

戦後

2014-06-29 10:00:11 | Weblog
 今年は第一次世界大戦勃発から100周年であり、来年は第二次大戦後70年に当たる。戦争の当事者は殆んど生きていないのに我々はいつまで敗戦国の国民として生きねばならないのだろうか。
 中国は事あるごとに日本による侵略を、韓国は植民地支配を非難し続ける。日本はその度に反省と謝罪を強いられる。しかしイギリスやスペインやポルトガルなどによる侵略・占領・植民地支配は日本によるものよりも遥かに過酷だった。多くの地域では当時の文明は勿論のこと、言語などの文化まで失われている。それにも拘わらず彼らは反省も謝罪もせずに逆に旧宗主国として振舞う。この違いは何なのだろうか。
 日本軍による戦争犯罪があったことは事実だ。しかし少なくともアメリカによる原爆投下や東京大空襲のような悪意に満ちた無差別殺人は犯していない。
 南京大虐殺を咎める進歩的文化人がなぜ原爆投下の非人道性を同時に訴えないのか理解に苦しむ。朝鮮人の強制徴用を咎める人はなぜソ連によるシベリア抑留を非難しないのだろうか。日本人による悪事と日本人に対する悪事は対等に評価すべきではないのだろうか。
 歴史とは所詮、勝者が捏造するものに過ぎない。しかし勝者が捏造した歴史を全面的に認める必要などあるまい。大和朝廷によって討伐された蝦夷の首長アテルイを英雄と評価することも、ロマ(ジプシー)やユダヤ人あるいは中東のクルド人の立場から歴史を再評価することもできる。ムスリム(イスラム教徒)の立場で書かれた歴史書であれば十字軍は西洋史とは懸け離れた記述になるだろう。
 アメリカに対して日米戦争史の見直しを迫ることは戦後秩序の否定になるから困難だろうが、国内ではもっと言論の自由があって然るべきだろう。捏造された東京裁判に基づいた歴史しか認めないという姿勢は早急に改めるべきだろう。

無知

2014-06-29 09:29:37 | Weblog
 サッカーのワールドカップについて母が話す度に腹を立ててしまう。肉親に怒ってはならないと分かっていてもついつい余りの無知と聞きかじり情報の垂れ流しに怒りを覚えてしまう。「日本がブラジルに負けた」とかいった事実無根の話をしたがる。母は決して認知症を患っている訳ではない。「ブラジルが勝った」という話と「日本が負けた」という話を勝手にくっ付けるだけだ。無関係の出来事をまるで因果のように繋いでしまうからこんな発言になる。
 人の知覚には隙間を埋めたがるという癖がある。だから個々の画像に過ぎない映像やアニメが動いているように見える。トンネルを通過する電車を横から見ていればそれが通り抜ける瞬間をかなり正確に推測できる。見えない間も無意識の内にその姿を追い続けているからだ。
 この特性は実は困ったことだ。断片的な知識があればその知識同士の隙間を知らない内に埋めてしまう。知識の乏しい子供は貧弱な知識と知識を繋いで勝手な因果関係を作る。知識の乏しい大人も同じようなことをする。
 知識が豊富であれば隙間が少なくなる。日本がⅭ組でブラジルがA組であることを知っていればグループリーグでこの2国が対戦しないことは自明だ。
 「風邪を治療する薬を作ればノーベル賞が貰える」と言われていることを知っていればテレビCMに騙されて総合感冒薬を買うことも無かろう。無知であることは恥ずかしいだけではなく自分が実際に損をすることにも繋がる。風邪薬を飲んでも不快感が軽減されるだけで風邪を却って長引かせることになるのだから全くの無駄遣いだ。
 製薬会社は国民の無知に付け込んで大儲けをしている。昨日・一昨日(27日・28日)に新薬による副作用の報道が相次いだ。統合失調症治療薬ゼプリオンではこの半年間で32人が亡くなっており、4月に発売されたばかりの糖尿病治療薬では多数の薬原病が発生しているらしい。医者と製薬会社に殺されないためには医学・薬学を独学して自主防衛することが必要だ。医者と製薬会社に迎合するばかりの厚生労働省を信用していたら酷い目に会いかねない。

慰謝料

2014-06-27 10:17:13 | Weblog
 セクハラ野次ですっかり有名になった塩村文夏都議だが、タレント活動をしていた時にとんでもない発言をしていたようだ。
 2007年に「恋のから騒ぎ」に出演して「付き合っていた男性と別れる時はいつも慰謝料を貰い」その最高額は1,500万円だったと発言したそうだ。バラエティ番組での発言だから幾らかは割り引いて考える必要があるが、私が異常と思うのは「慰謝料」に対する感覚だ。「慰謝料」を異常と考えない芸能人の特異性がこんな発言を招いたのだろう。
 男女が別れる際に慰謝料の授受が発生するのはどんな状況だろうか。婚約破棄、堕胎、暴行ぐらいしかまともな理由は思い付かない。まともでない理由としては愛人関係や援助交際などだろう。塩村都議の場合はどんな理由で「慰謝料」を得たのだろうか。芸能人という特殊な立場の者との肉体関係に対する対価だろうか?
 「いつも慰謝料を貰う」とは穏やかな話ではない。別れる相手に慰謝料を払うような気前の良い男など殆んどいるまい。予め「慰謝料」を決めていなければ恐喝紛いの手でも使わなければ素直に支払うとは思えない。1,500万円を一人で脅し取ることは困難だろうから複数の男の協力を得たと考えられる。「いつも」というのだからたった一度の付き合いでも「慰謝料」を取ったということだろう。これでは確実に売春であり美人局による恐喝の可能性さえある。
 野次を飛ばしたとしてスケープゴートにされた鈴木都議や逃げ切った複数の自民党の都議、そして自らの犯罪をテレビで語っていた塩村都議、東京都議会議員とはクズの吹き溜まりのような場所らしい。差別野次再発防止の決議など要らない、東京都議会議員だけを対象にした「大人のための性的モラル向上条例」の制定こそ必要だろう。
 有名人は大変だ。被害者になったばかりに過去の悪事が露呈してしまった。警視庁はすぐにでも事情聴取に踏み切るべきではないだろうか。被害者は勇気を出してこんな破廉恥議員を告発すべきだ。単に容姿が良いだけのタレント崩れを選んだ都民は恥ずべきだ。多分、問題行動が多いから追放されたと思われる元芸能人でさえ勤まるほど都議とはいい加減な仕事なのだろうか。「伽」で稼いでいた者を都議に留めるべきではない。

医原病

2014-06-27 09:39:14 | Weblog
 動物には自然治癒力が備わっている。だから軽い病気や怪我であれば放っておいても治る。治療が必要なのはある程度、症状の重い患者だけだ。
 内科を訪れる患者の約9割が治療の必要が無い患者らしい。大半がただの風邪だ。しかし医者は治療を断ることはできない。だから解熱剤などの対症療法薬を処方する。熱を下げることが有害と分かっていても、治療に有効な薬が無いから解熱剤などを処方する。目的は治療ではなく医者としての役割を演じることだけだ。
 精神科医も軽症者にとりあえず薬を処方する。この場合も風邪薬と同様、治療ではなく症状の緩和だけが目的だ。元々、薬は病人を治療するためのものであり、軽症者に向けた薬など殆んど作られていない。抗精神病薬は脳に異常な反応を起こさせるための劇物であり作用と副作用は表裏一体だ。こんな劇物が軽い気分障害の人に使われたらどうなるか、大抵の場合、効き過ぎるということになるだろう。一時的な気分障害で受診した人が薬の副作用によって病人にされてしまうことさえある。内科医と違って精神科医はお茶を濁す類いの薬を持っていないから本格的な抗精神病薬が処方され勝ちだ。
 親近者との死別が一時的な欝状態を招くことは多い。これらの人が鬱病と診断されれば抗鬱剤が処方される。もし間違って初期の統合失調症と診断されたら恐ろしいことになりかねない。
 統合失調症はかつては精神分裂病と呼ばれた最も重篤な精神病であり、その行動は予測困難でしかも病識が無いことが多い。病識が無ければ自分が狂っているということに気付かない。
 統合失調症は重い精神病だけに副作用の大きい薬が多い。脳に異常反応を起こさせる薬による副作用で異常性が高まることもあるが、患者の訴えは無視されることが少なくない。狂人による妄想(つまり「キチガイのタワゴト」)と解釈されればどんな訴えも無視されて、危険な薬を次々に投与されて廃人にされることさえ起こり得る。統合失調症の患者が心疾患で死亡する確率は異常に高いそうだ。これが薬の副作用と無関係とは考えられない。

ペット

2014-06-25 10:10:23 | Weblog
 中国や韓国で犬肉食が非難されている。これは欧米による批判ではなく国内の愛犬家による非難だ。4本足であれば机と椅子以外、2本足であれば親以外は食べるとまで言われた中国で、これは大きな変化だ。しかしこれは家畜は食べて良いがペットは食べてはならないというよく分からない理屈だ。
 家畜とペットはどう違うのだろうか。西洋では家畜は道具でペットは仲間という位置付けらしい。日本の畜産農家では家畜も家族の一員として扱われ勝ちでありこの区分は理解しにくい。
 多分、ペットと家畜の最大の違いは個性を認めるかどうかということではないだろうか。牛・豚・羊などであれば従順であることが価値であり、ペットであれば時には従順ではなく我儘であったりふて腐れたりすることが個性として認められる。つまりペットであれば個性が認められ家畜であれば無条件に従順さが求められる。個性を認められる動物は肉ではなく個体として尊重されるということだろうか。
 ここで奇妙な類似性に気付く。教師と生徒の関係だ。生徒を個人として扱わず画一化しようとする教師に我々は強く反発する。これはペット以下の家畜として扱われるからではないだろうか。こんな教師にとって生徒は従順な家畜であるべきであって個性の発揮など身分不相応なことだ。
 人と人の関係は大別すれば人的関係と道具的関係に分けられる。マルチン・ブーバーの術語を使えば前者はIch-Duであり後者はIch-Esの関係だ。道具として扱われた人は道具として扱い返し、人格(あるいは「実存」)として扱われた人は相手の人格を尊重する。利害による繋がりは他人の関係であり、利害を超えた関係は家族的関係とも言われる。
 日本人は家畜に対しても道具的関係に留まることは難しくたとえ家畜であっても名前で呼ぶ。ペットか家畜かという区分よりも自分が手塩に掛けた動物かどうかのほうが我々には分かり易いのではないだろうか。つまり自分が育てた動物は食べるべきではないということだ。ある部族では、自分が育てた野菜でさえ食べないそうだ。私自身は犬を食べたいとは思わないが、犬はペットだから食べるなという理屈は多数者の価値観の押しつけだと思う。

オスの適性

2014-06-25 09:34:12 | Weblog
 動物には種としての適性以外にオスとしての適性がある。困ったことにはこれは種としての適性と矛盾することが多い。同じ特性が対オスでも対メスでも有利に働くこともあるが、ここでは敢えて対オス・対メスに分けて検証する。
 オスはオス同士の競争で勝たねばならない。縄張りを持つ種であればこのことは特に重要で、大きな体や強い力などが適性となる。ところがこれが種族外淘汰では弱点になり得る。天敵に捕食されるカブト虫は70%がオスで、しかも食べられたオスの角は平均より3%ほど大きいそうだ。対オスの適性が種族外競争では不適性になっている。
 対メスにおいてはもっと酷い。鳥のオスにおいて顕著な派手な外見は明らかに生存競争では不利だ。クジャクにおいてはメスに好まれるために巨大化した尾羽が飛ぶ能力を低下させている。
 鳥のメスは大半がオスよりも地味な外見をして目立たない。だから捕食されにくい。生存競争においてメスはオスよりも有利な形体を備えている。
 オスが個体にとっては不利な特性を持っているのは、所詮、遺伝子の運搬役に過ぎないからだろう。種にとって個体の生命などどうでも良い。より環境に適応できる子孫さえ生まれれば種は徐々に進化しながら存続できる。
 多分、安定した環境であれば変異の少ない個体が繁栄して、不安定な環境下では変異の大きな個体のほうが有利になり得る。「下手な鉄砲も数打てば当たる」という諺のとおりどれかがマグレ当りをする。メスの役割は偶然環境に適応したオスを選ぶことだ。変異はまずオスに現れ、環境に適応した有利な特性が子孫に継承される。メスは自らは危険を冒さずにオスが持っている有利な特性を子孫に伝える。
 オスにおける個体変異はプラスにもマイナスにも働く。マイナスであれば淘汰されプラスの場合だけメスに選ばれて子孫を残す。オスとは惨めな実験動物のような役割だ。

規制

2014-06-23 10:03:01 | Weblog
 有益な規制もあるが、中国や韓国の例からも分かるように、多くの規制が国益・省益や政治家個人の利益のために悪用されている。
 8月から煙草を理由にしてコンビニの出店規制が強化される。現在は1箇月に25,000本以上売る店の半径100m以内での新規出店が規制されているが、これを「15,000本以上」に改めると言う。
 煙草1本が20円とすれば月商30万円ほどだ。粗利益率が15%であれば月収4.5万円に過ぎない零細店を守るためにコンビニの出店を規制する必要などあるのだろうか。これはコンビニの出店を規制することだけが目的と思える。
 零細煙草店は品揃えが悪いし商品も古い。埃を被った煙草を平気で売るほどサービスの悪い店もある。こんな店を守る必要など無く、競争を通じて淘汰されるべき店だろう。
 この規制は煙草を隠れ蓑として使っている所が狡猾だ。批判があっても「有害な煙草に対する規制だ」と言い逃れができる。日本では反煙草ヒステリーが蔓延しており、煙草の規制であればまるでオウム真理教の信者に対する処罰のようにどんな理不尽なものであろうとも許容されている。
 コンビニが煙草を扱わなければ良いと考える人は小売店の実態を知らない。煙草はコンビニの売上高の2~3割を占めるドル箱商品だ。冷蔵も不要で商品の改廃も少なく継続購入による集客も見込める煙草を扱わなければコンビニの経営は成り立たない。これは煙草規制に名を借りたコンビニ規制だ。
 小型店であるコンビニを規制することは難しかった。大店法などによる規制対象外だからこそコンビニは50,000店を超えるまでに増えた。煙草規制を口実にしてコンビニを支配することが財務省の狙いだ。役人は本当に狡賢い。この知恵と権力をもっと有効に使えないものだろうか。

勉強

2014-06-23 09:32:25 | Weblog
 語学は最も効率の悪い勉強ではないだろうか。科学であれ歴史であれ1時間も勉強すればそれなりに知識が得られる。ところが語学の入門書を1時間読んでも何の知識も得られない。最低でも数百時間勉強せねば使い物にならない。
 医学・薬学・栄養学はなぜか学校では殆んど教えられないが、非常に役に立つ。テレビ・新聞・雑誌などがこれらをしばしば採り上げることからも分かるように、国民の関心も高い。医療系の教育の不備がオカルト医療を招いているとも思える。少しでも時間があればこれらを真っ先に勉強すべきだろう。勉強すれば、巷に嘘が溢れ返っていることに驚愕することだろう。
 知識が有用性によって評価されることは少ない。知識のための知識のほうが高尚だという極論もあるが、役に立つ知識こそ必要だ。例えば気象学を学べば天気予報に対する理解が深まって告知される情報以上の細かい予測が可能になる。
 役に立たない知識の代表は哲学だろう。こんなものを学んでも理屈っぽくなるだけで何の役にも立たない。しかし哲学を専攻した者の一人として少なくとも2つのメリットを挙げたい。
 1つは悩みの解消だ。私は子供の頃に宇宙の果てや時間の始まりを考えてノイローゼ気味になったことがある。これにはカントが答えてくれた。「経験という有限の世界の知識しか持ち得ない人間は無限について考えることなどできない」ということを「純粋理性批判」の二律背反を通じて明かしてくれた。理性の限界を知ることによって理性の暴走が食い止められた。
 もう1つは考える力が付くということだ。「哲学を学ぶことはできないが哲学することを学ぶことならできる」とよく言われる。これは決して言い訳ではなく、スポーツと同じということだ。幾ら教えられても運動能力は向上しない。自ら運動して初めて向上するのと同じように考えることによってのみ思考力は磨かれる。要するに自分でしっかりと考えるということであり、考えるために必要な技術が身に付くというメリットがある。

贋薬

2014-06-22 10:02:00 | Weblog
 もしアンチエイジングが可能であればそれは真っ先にハゲや白髪を防ぐために使われるだろう。そんな薬を求める人は多く効果もはっきり目に見える。ところが未だそんな薬は無いようだ。ハゲの治療薬があればその効果は目に見える。逆に効かないということも一目瞭然だ。だから贋薬が紛れ込めない。
 巷に溢れている贋薬は効果が確認しにくいからこそ売れている。ご利益宗教と同じトリックだ。誤魔化しの余地があるからこそ生き延びている。信者が不幸に会った時、主に2つの言い訳が可能だ。1つは、ご利益があったから最悪を免れたという理屈だ。たとえ片足を失っても、両足を失わずに済んだという幸運をご利益と見なす。もう1つは信心が足りなかったとして信者に責任転嫁をすることだ。不幸に会った人はその宗教に不信感を持つが、この反論はその不信感を不幸の原因とするのだから効果的だ。
 贋薬もご利益宗教と同じ手口を使う。鬱病を治す筈の薬が全然効かなくても、悪化を防いでいると言い逃れをすればそのまま一生薬漬けにできる。ハゲの治療薬と称していればこんな言い逃れは通用しないだろう。
 コラーゲンのサプリメントの宣伝にはもう呆れるしか無い。コラーゲンの豊富な肌は弾力性が高い、だからプリプリ肌を作るためにコラーゲンを飲めと言う。非科学の極みだ。コラーゲンを飲んでもコラーゲンは増えない。アミノ酸に分解して吸収されるのだから肉などの一般の蛋白質と何ら変わらない。効果の確認が難しいからこそこんな馬鹿げた贋薬が売れるのだろう。もしかしたらプラセボ効果ぐらいならあるかも知れないが、コラーゲン効果の理屈はハゲの人に髪の毛を食べさせようとするようなものだ。毛を食べても頭髪が増えることなどありえないと分かっているから誰もそんなことをしない。コラーゲンを有難がる頭の弱い人は、コラーゲンよりも猿か羊の脳ミソでも食べて少しは脳の機能を高めたほうがずっと良かろう。

不確実

2014-06-22 09:32:09 | Weblog
 確実なことに基づくことは重要だ。しかし確実なものにしか頼れなければどうしようもなく不自由になる。確実なものなど殆んど無いからだ。
 テレビを点けてもそのメリットは不確実だ。碌でもない番組かも知れないし、贔屓のチームが負けて却って不愉快になることもあり得る。それでも見るのは不確実であることが楽しいからだ。結果が分かっている試合を録画で見れば楽しみは半減する。
 恋愛で一番楽しいのは関係が不安定な間だと言う。相手の気持ちが分からないのでドキドキ・ハラハラしている時に気持ちは最も昂る。釣れるまでは夢中になっても、釣ってしまった魚には餌を与えることさえ惜しくなる。
 分からないから面白いのならデカルトの方法は根本的に間違っているのかも知れない。「我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」のように確かなことを土台にして積み上げようとすることは最も不自由でつまらない人生を歩むことだ。パスカルは「パンセ」でデカルトを「無益で不確実」と酷評している。
 「2+3=5」のような客観的な事実などどうでも良い。むしろ「2+X=Y」こそ重要だ。Xとは不確定な「私」でありYはその結果だ。周囲に対して働き掛けることによって自分も周囲も変動する。あるいは「X+Y=Z」でも良かろう。不確定な社会に不確定な「私」が働き掛けて未来を作るという構図だ。
 行動は事実に基づくことが望ましい。ところが世の中は分からないことだらけだ。事実が明らかになるまで待っていれば何もできない。行動の基準は確率的に選ばれるべきだろう。
 私はその後の選択肢が豊富なほうを選ぼうと心掛けている。例えば、生きるか死ぬかであれば迷わずに「生きる」を選ぶ。生きるを選べば後から死を選べるが、死を選んでしまえば後から「生きる」を選べないからだ。
 現在、私は独学を続けている。知りたいことは幾らでもある。どんな成果が得られるかはやってみなければ分からない。やってみて失敗だったらやり直せば済むことだ。だからやり直せる範囲で挑戦を続けるつもりだ。未来は不確実だからこそ自由がある。もし確実であれば選択肢つまり自由が無くなってしまう。生きるとは不確実性に対処することだろう。