俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

テレビの無責任

2013-05-31 14:04:03 | Weblog
 昨日(30日)「拉致被害者の息子が脱北をしようとしたがラオスから強制送還された、と韓国の東亜日報が報じた」と多くのマスコミが伝えた。その後、韓国政府はこの情報を否定したがテレビはこれを流し続けた。今日になってもまだ流し続けているテレビ局もある。
 私は東亜日報も韓国政府も信用していないが、どちらかと言えば韓国政府を信じる。だから韓国政府が否定した時点で東亜日報の記事は誤報だと思った。
 テレビは違った。韓国政府による否定を無視するかのように拉致被害者の松本京子さんに関する情報を流し続けた。彼らは韓国政府よりも東亜日報を信じるのだろうか。そんなことはあるまい。
 ここにテレビ局の無責任さを感じる。脱北者が強制送還されたというニュースよりも、その中に拉致事件関係者がいたほうが情報価値は高まる。彼らは正確さよりも話題性を選んだ。仮に誤報であってもいつもの手で「東亜日報が報じた」ということは事実だと開き直れる。悪いのは東亜日報であって我々ではないという理屈だ。
 情報には早さと正確さが求められる。第一報はともかく、韓国政府が否定した時点でこの情報には早さも正確さも無くなっていた。
 緊急事態であれば未確認情報を伝えることも許されよう。そうでない限り、話題性よりも正確さが優先されるべきだ。韓国政府が否定した時点で信憑性は大きく損なわれていたのだから、拉致問題から切り離して、亡命者の強制送還という国際的な人権問題として報じるべきだっただろう。これでは他社の誤報に便乗した捏造報道であり火事場泥棒のような恥ずべき行為だ。

分からないこと

2013-05-31 13:39:04 | Weblog
 知っていると思い込んでいる人は実は何も知らず、知らないということを知っている私のほうがずっとよく知っている。これはソクラテスの「無知の知」だ。広辞苑には「自分の無知を自覚することが真の知に至る出発点」と書かれている。異論もあろうが、これが西洋哲学の出発点となった。その後キリスト教の害毒に冒されて劣化した哲学を救ったのがカントだ。
 カントの偉大な業績は理性の限界を示したことだ。知覚を通じた経験に基づいてしか思考できない人間理性は無限や永遠に関して考える能力を持ち得ない。この認識に基づいて空虚な思弁哲学は否定された。
 分からないことを分かることは大切だが、分かれないことを分からないと認めることも同じぐらい大切だ。分からないことを分かると思い込むから問題が生じる。
 冤罪が生まれるのは分からないことを分かったと思い誤るからだ。犯罪が証明できて初めて有罪と宣告できる筈なのに、曖昧な状況証拠を積み上げて冤罪を生み出す。分からないものを分からないと認めれば冤罪は生まれない。因みに和歌山砒素カレー事件の林真須美死刑囚を私は冤罪だと思っている。分からないからだ。
 癌も実はよく分かっていない。どれが癌でどれが良性腫瘍かについては専門家の間でも意見が分かれることがあり、治療の効果も予防法も分からないことだらけだ。分からないままに思い込みに基いて手術をするのだから何とも危ない話だ。
 私が散々非難している地震予知について、真面目な研究者も腹に据えかねたのだろうか、28日にはこんな発表があった。「現在の科学的知見からは確度の高い予測は難しい。」これまでに散々デタラメな発表を続けた似非科学者どもに弁解の機会を与えたいものだ。何と言い訳するだろうか。

家事

2013-05-29 15:59:37 | Weblog
 女性の社会進出が盛んに奨励されている。「企業が女性の能力を生かし切れていない」という指摘になら同意できるが「能力の高い女性は外で働け」と言っているような主張は「育児や家事に励む女性は人間のクズだ」と言っているように聞こえて腹が立つ。なぜこんな差別的な発言が放置されているのだろうか。
 マスコミに登場する人は仕事を持っている。男女共に仕事を持つ人だけが発言し、マスコミで働く人がそれを報じる。仕事を持つ人しかいない閉じられた世界が総ての情報発信源だ。
 働いている人は自分を肯定する。働いて収入を得ることが唯一無二の正しい生き方だと信じてそれを疑おうとはしない。自分の生き方を肯定するのは構わないが違った生き方を否定することはやめて貰いたいと思う。社会で働くことのみを是とする偏狭な価値観こそ否定されるべきだ。
 私はずっと高等遊民に憧れていた。働くとは「企業の利益を拡大するために有償で貢献すること」に過ぎず、社会貢献とも自己実現とも全く無関係だ。年金受給者になってようやく「社畜」から解放されたと思っている。男性だけではなく女性まで社畜にしようとする今の風潮には賛成できかねる。
 「主夫」にも憧れていた。妻の収入に頼って主夫業に専念するというまるでヒモのような生き方で、周囲からは馬鹿にされそうだが社畜よりは人間らしい生活だと思っていた。残念ながら実現できなかっただけに、実現できる女性を羨ましく思う。
 家事も育児も立派な労働だ。なぜ家事や育児に専念することが否定されねばならないのだろうか。家事のプロである専業主婦という生き方こそ積極的に肯定されるべきだ。私は山口百恵さんの生き方を支持する。マスコミが家事や育児を蔑視するから少なからぬ女性が無理な二重生活を強いられている。新しい女性解放論は、外での仕事からの解放でもあるべきだろう。

用不用

2013-05-29 10:00:16 | Weblog
 ラマルクの用不用説は否定された。彼は獲得形質が遺伝すると唱えたが、何世代にも亘って尻尾を切り続けても尻尾の短い鼠は生まれなかった。
 遺伝のレベルでは用不用説は否定されたが個体のレベルでは有効だ。よく使えば発達するし使わなければ萎縮する。後者は廃用性萎縮と呼ばれている。
 前者は誰でも知っている。スポーツ選手を間近に見ているからだ。彼らの超人的な運動能力は鍛錬の賜物だ。筋肉と同様、脳もよく使えば発達すると思われるがこちらは証明されてはいないようだ。脳については人体実験ができないからだろうか。
 廃用性萎縮は老人において多く確認されている。寝たきり老人や老人性認知症の多くが実は機能的なものではなく人為的なものだと言われている。一日中寝かされていれば脳を含めて全身が廃用性萎縮を起こしても不思議ではない。
 若い人の多くが廃用性萎縮は老人に起こるものだと思っている。若い内は使わなくても現状が維持され使えば発達すると思っているようだが、これは間違いだ。廃用性萎縮は若年期どころか成長期にも起こる。私自身の経験だが、小学生の時に左腕を骨折した。ギプスを外した時に左腕が見るも無残なほどに痩せ細っていることに驚愕した。
 用不用の法則は進化においては否定されたが個人においては有効だ。若い内に脳と体をしっかりと鍛えておかないと後で後悔することになる。

一人1票

2013-05-29 09:36:32 | Weblog
 成年後見制度で後見人が付いている人の投票権が認められることになった。誰もが対等な権利を持ち一人1票という原則からすれば当然のことなのだが、このことによって却って一人1票のルールが崩されようとしている。
 被後見人の事情は様々なので一概には言い難いが、身辺のこともできない人がどうやって政治的な判断をするのだろうか。彼らは何を根拠にして1票の権利を行使するだろうか。多分、大半が後見人の言いなりになるだろう。
 認知症の老人についても同じことが起こる。施設に入居している人なら施設の指示どおりに投票するだろう。するとその施設は特定の候補者に対して何十票も投票できることになる。これでは一人1票の原則から逸脱するのではないだろうか。今回の法改正では第三者の立会を「努力義務」としている。これでは実質的にザル法であり立会人不要ということになってしまう。
 知的障害者の投票権を強く主張しているのは本人ではない、周囲の人だ。それは知的障害者の権利の行使のためではなく、自分の言いなりになる人の投票権、言い換えれば自分の投票権を拡大することが目的だ。
 どんな人であろうともその人の意志であれば唯一無二のものであるから尊重されねばならない。しかし他人の意志を意志させられているのなら、それを独自のものと認めることはできない。
 一般の人が1票しか持てないのに介護をする人に実質的に2票あるいはそれ以上の投票権を与えるべきではない。それを防ぐための罰則が不可欠だ。

2013-05-27 10:00:08 | Weblog
 右脳・左脳という考え方がある。右脳は視覚的・感情的で左脳は聴覚的・論理的とされている。しかし右手を使えという話ならともかく、右脳を使えと言われても対応できない。私はこんな区分よりも表層的か深層的かの区分のほうが重要だと考える。そして奇妙なことに通常とは逆に表層ほど高度かつ人間的で、深層ほど低級かつ動物的だ。
 こういう構造になっているのは進化のプロセスが原因だ。最初に脳らしきものを獲得した動物の機能は極めて単純で生体反応しかできなかった。それが進化して魚類になると本能に基づく生得行動だけではなく学習行動も備わる。この新しい脳は古い脳の上に乗らざるを得ない。生得行動が不必要になる訳ではないからだ。これは建築物の建て増しと同じことだ。土台を残したまま上へ上へと積み重ねざるを得ないからだ。
 こうして魚類・爬虫類・哺乳類・人類への進化において脳はどんどん重層構造になった。こういう事情から人間特有の知的活動を司る大脳皮質は最表層にある。そして信号(情報)は奥から伝わるので大脳皮質には最後に届く。
 こんな特性だから人間はしばしば不合理な反応をする。初めに原始的な脳が反応して、次に獣の脳が反応し、最後にやっと人類の脳が反応する。つまりまず危険・安全が判定され、次に好き・嫌いが判定され、最後になってようやく良い・悪いが判定される。
 危険に会ってパニックを起こしている人や、何でも好き・嫌いという偏見を通してしか考えられない人は大脳皮質に届く前に判定を終えてしまっている。危険・安全や好き・嫌いという動物的反応が不必要な訳ではないが、人間であるためには事実に基づくこと、つまり科学的あるいは論理的な大脳皮質による思考を行う必要がある。

物への怒り

2013-05-27 09:29:53 | Weblog
 怒りは人へと向かう。物による被害であっても無理やり人為的なものを見付け出して関係者に対して怒る。例えば工事現場で鎖が切れて資材が落下したために被害を蒙った場合、鎖や資材に怒るのではなく担当者や責任者や鎖のメーカーに対して怒る。あるいは車体の故障が原因で撥ねられた歩行者の場合、まず運転者に怒り、その後メーカーに怒ることがあっても自動車に怒ることは無い。
 「罪を悪(にく)んで人を悪まず」という言葉があるが聖人君子でなければそんな境地に達することなどできはしない。窃盗や傷害の被害者はまず犯人に怒る。抽象的な窃盗一般や傷害一般に対して怒ることは無いし、犯罪の原因となった「貧困」に対して怒ることも無かろう。
 それでは「原爆許すまじ」という奇妙な標語をどう理解すれば良いのだろうか。
 アウシュビッツ強制収容所の怒りの対象はナチスであり南京大虐殺記念館なら日本軍だ。では原爆ドームを見て誰に怒れば良いのか、原爆に怒ることが義務付けられている。何とも奇妙な話だ。原爆が自らの意志で飛んで来る筈など無いのだから誰かに対して怒るべきだろう。それとも日本人は「罪を悪んで人を悪まず」の境地に達した聖人揃いなのだろうか。
 我々はあるスローガンとの類似性に気付くべきではないだろうか。それは何と「真珠湾忘るまじ」`Remenber Pearl Harbor'だ。「Japをやっつけろ」という意味で使われた米軍のスローガンだ。
 米軍による占領下で言論統制を受けながら精一杯の怒りを込めて「原爆許すまじ」という`Remenber Pearl Harbor'をもじった標語を作ったのではないか?後の世代が腑抜けにされてこの怒りに気付かないのなら改めてこの標語の素晴らしさを再認識すべきだろう。米軍による無差別大量殺戮にはいかなる正当性もあり得ない。

国産品

2013-05-25 09:24:29 | Weblog
 マスコミは食品の危険を騒ぎたがる。特に賞味期限偽装や残留農薬はニュースになり易い。これは視聴者や読者のニーズに応えるためのものなので偏っている。そのせいだろうか、大切な情報が随分欠落しているように思える。
 例えば中国産の野菜の農薬には大騒ぎをするのに国産の野菜には無関心だ。日本の農家の農薬使用量は世界一であり、しかもその検査が殆んどされていないことについては報じられない。輸入野菜は検査されるから問題になるだけで検査さえされていない国産野菜は汚染し放題だ。
 7月からBSEの検査対象が生後48ヶ月超に変更されるが、生後48ヶ月以下の牛は感染していても検出できないことが以前から分かっていた。このことは殆んど報じられず、10年以上に亘って全く無意味なことをやっていた。これは「消費者の安心」のための儀式のようなものであり、科学ではなくただのお祓いだ。このお祓いの継続を求める人が決して少なくない。
 「TPPで安全な国産品が淘汰される」という主張を耳にするが、本当に安全なら淘汰されない。危険でしかも不当に高い物が淘汰されると考えるべきではないだろうか。
 もし本当に品質が良ければ高くても売れる。実際、国産の工業製品は高品質だから高額品も低額品も世界中に輸出されている。一方、国産の農産品は高くて低品質だからリンゴ以外は殆んど輸出されていない。
 国産品が安全というのは工業製品から連想された神話に過ぎない。輸入品のトラブルを針小棒大に騒いでいるから、相対的に安全だと思い込んでいるだけだ。

休火山

2013-05-25 08:57:12 | Weblog
 私が子供の頃、富士山は休火山だと教わった。今では休火山も死火山も死語になっている。活火山と区別が付かないかららしい。
 活断層という言葉も早急に死語にすべきだろう。国民に不必要な不安を持たせるだけだ。そもそも定義でさえいい加減だ。従来「13~12万年前以降にできた断層」だったものが今年の1月に突然「40万年前以降」に変更された。12万年前にせよ40万年前にせよ、何ら学術的な根拠の無い恣意的なものだ。
 4月に淡路島で震度6弱の地震が起こった時には、呆れたことに「未知の活断層が動いた」と発表した。実際には「新しい断層ができた」のだろうがそれを認めれば活断層が震源になると騒げなくなるから「未知の活断層があった」ということにしたいのだろう。
 阪神大震災が起こった1995年から昨年までに、地震調査研究に3,600億円が投じられたと言う。これだけの研究費を使いながら東日本大震災を全く予測できなかったことについて何の釈明も無く、誰も責任を問われない。これではただの金喰い虫だ。
 12万年前だろうと40万年前だろうと100万年前だろうと、所詮50歩100歩の議論だ。定義を弄んでいる暇など無い。どうせ分からないのなら火山の定義と同様、ただの「断層」と呼ぶべきだろう。分からないことを「分からない」と認めるのが科学であり、分からないことを「分かる」と主張して事実を歪めてまで金儲けに利用するのは詐欺にも等しい。

無知

2013-05-24 09:31:57 | Weblog
 韓国の中央日報に「広島・長崎への原爆投下は神の懲罰」という記事が掲載された。評価は主観の世界でありどう評価するかは個人の自由だ。従ってどんなに悪意に満ちた論評であろうとも認められるべきだろう。
 しかし記者は無知を恥じるべきだ。彼は広島で朝鮮民族の同胞2万人が犠牲になったことを知らないからこんな記事を平気で書けるのだろう。当然、広島に韓国人原爆犠牲者慰霊碑があることも知るまい。彼の理屈に従えば、たまたま日本にいて犠牲になった朝鮮人も神の懲罰を受けたということになる。改めて問いたい「2万人の朝鮮人は神の懲罰を受けたのか?」と。
 私は頻繁にマスコミ批判をする。主な理由は彼らが不勉強だからだ。特に理系情報でしばしば見受けられる初歩的な知識の欠如には呆れざるを得ない。決して最新情報を要求するつもりは無い。せめて高校の教科書に載っている程度のことぐらいは理解をした上で記事を書いて欲しいと思う。
 個人の怠慢である日本の記者と比べれば、韓国の記者には同情できる。彼は知らなかったのではなく知れなかっただけだ。韓国では酷く偏向した歴史教育がされているので正しい知識を持つ機会が無かっただけだ。彼は韓国の誤った歴史教育の犠牲者だ。むしろ韓国とは違って教育も学問も自由な日本にいて、この記事に対して朝鮮人犠牲者2万人という事実についての問題提起をしないマスコミや政治家・文化人の無知を咎めたい。理系は苦手であろうとも、文系の社会常識を身に付けることは公の立場にいる者の責務だろう。広島市民なら小学生でも知っていることを知らなかったということを恥じるべきだ。