種の存続のために群居性が有利とは限らないが、哺乳類が群居化し易いことと人類が群居性を活かして繁栄したことは確実だ。
哺乳類は母による授乳が不可欠だ。授乳をしない変異体が現れた場合、その変種は子孫を残せないから必ず淘汰される。従って授乳という本能は100%確実に継承される。最も冷血と思える肉食獣であっても哺乳類である限り子育てを怠ることは無い。哺乳類における母子の絆は絶対に失われずこれが基本になって様々な群居形態が生まれる。
魚類や昆虫類においても群居は存在するがこれは哺乳類とは違って単に生存競争において有利なだけだから参加も離脱も各個体が任意に選択できる。彼らにとっての群居は必須の生存条件ではない。
群居する哺乳類にとって群居環境は生存環境でもありそれが快適であることは種の利益と一致する。だからこそ他者との関係を良好にするために高い知能が必要になる。哺乳類が一般に他の動物よりも高い知能を持っているのは本来、他者との関係を良好にして快適な群居生活を送るためだったのではないだろうか。
人類は群居の恩恵を最大限に受けている。非力で繁殖力も乏しく何の取り得も無い人類がここまで増殖できたのは集団がそれぞれの「文化」を築いたからだろう。それぞれのグループが独自の「文化」を築いて他のグループを支配し、そのことを通じて更に大きな群居集団が形成された。
様々な環境に適応するために人類は自らの本能を破壊し続ける。固定した環境においてであれば本能に基づく行動が有利だ。それは数十世代を掛けて磨かれたものだからだ。ところが異変が多く複雑な環境においては臨機応変に対応できる「学習力」のほうが有利だ。人類は大半の本能を放棄することによって最大限の学習力を獲得した。これが「自由」と呼ばれている。
その一方で群居動物である人類は集団としての快適性を求める。集団の秩序を破壊しようとする者は「悪」と呼ばれ徹底的に攻撃され、集団の利益に貢献する自己犠牲が奨励される。この本能が「正義」と呼ばれる。
人類に確実に残っている本能は母子の絆だけだ。他は破壊されつつある。群居本能に背く「自由」が群居本能に基づく「正義」と対立するのは必然だろう。
正義を重視する人の根底には群居生活を快適にせねばならないという信念があり、自由を重視する人にとっては群居状態からの離脱こそ重要だ。どちらを優先すべきかは判断できないだけにこの二者の対立は倫理の根本問題になる。人類の倫理を生物史から捕えるなら「正義」は群居の肯定から「自由」はその否定から生まれた理念だけに、理性以前のレベルでの対立ともなりかねない。
「正義」だけではなく大半の倫理は快適な群居生活を営むためのものであり、群居を否定しかねない「自由」をどう位置付けるかは常に問題になる。「自由」は群居動物の倫理において継子(ままこ)であり続けるだろう。
哺乳類は母による授乳が不可欠だ。授乳をしない変異体が現れた場合、その変種は子孫を残せないから必ず淘汰される。従って授乳という本能は100%確実に継承される。最も冷血と思える肉食獣であっても哺乳類である限り子育てを怠ることは無い。哺乳類における母子の絆は絶対に失われずこれが基本になって様々な群居形態が生まれる。
魚類や昆虫類においても群居は存在するがこれは哺乳類とは違って単に生存競争において有利なだけだから参加も離脱も各個体が任意に選択できる。彼らにとっての群居は必須の生存条件ではない。
群居する哺乳類にとって群居環境は生存環境でもありそれが快適であることは種の利益と一致する。だからこそ他者との関係を良好にするために高い知能が必要になる。哺乳類が一般に他の動物よりも高い知能を持っているのは本来、他者との関係を良好にして快適な群居生活を送るためだったのではないだろうか。
人類は群居の恩恵を最大限に受けている。非力で繁殖力も乏しく何の取り得も無い人類がここまで増殖できたのは集団がそれぞれの「文化」を築いたからだろう。それぞれのグループが独自の「文化」を築いて他のグループを支配し、そのことを通じて更に大きな群居集団が形成された。
様々な環境に適応するために人類は自らの本能を破壊し続ける。固定した環境においてであれば本能に基づく行動が有利だ。それは数十世代を掛けて磨かれたものだからだ。ところが異変が多く複雑な環境においては臨機応変に対応できる「学習力」のほうが有利だ。人類は大半の本能を放棄することによって最大限の学習力を獲得した。これが「自由」と呼ばれている。
その一方で群居動物である人類は集団としての快適性を求める。集団の秩序を破壊しようとする者は「悪」と呼ばれ徹底的に攻撃され、集団の利益に貢献する自己犠牲が奨励される。この本能が「正義」と呼ばれる。
人類に確実に残っている本能は母子の絆だけだ。他は破壊されつつある。群居本能に背く「自由」が群居本能に基づく「正義」と対立するのは必然だろう。
正義を重視する人の根底には群居生活を快適にせねばならないという信念があり、自由を重視する人にとっては群居状態からの離脱こそ重要だ。どちらを優先すべきかは判断できないだけにこの二者の対立は倫理の根本問題になる。人類の倫理を生物史から捕えるなら「正義」は群居の肯定から「自由」はその否定から生まれた理念だけに、理性以前のレベルでの対立ともなりかねない。
「正義」だけではなく大半の倫理は快適な群居生活を営むためのものであり、群居を否定しかねない「自由」をどう位置付けるかは常に問題になる。「自由」は群居動物の倫理において継子(ままこ)であり続けるだろう。
凄いです