俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

恐怖

2014-11-30 10:14:13 | Weblog
 アメリカのミズーリ州での黒人青年射殺事件が不起訴にされたことに対して人種差別だとして全米各地で抗議行動が起こっているが、私は白人警察官のウィルソン氏に少なからず同情する。似た経験があるからだ。
 大阪の阿部野橋駅で、当時近鉄バファローズの主砲だったデービス選手に出くわしたことがある。その時の感情は恐怖だった。デービス選手は身長190㎝・体重89㎏の巨漢だ。テレビで見る印象とは全然違ってスーツを着ていても分かるほど筋骨隆々だった。黒い巨人を見て私は踏み潰されそうにさえ感じた。こんな強そうな人を見たのは初めてだった。
 デービス選手と言えば東尾投手を殴ったことでも有名だ。1986年の近鉄・西武戦で東尾投手のビーンボール紛いの死球に激昂してぶん殴った。そのパンチが余りにも見事なストレートだったことに驚いたものだった。後で知ったことだが、デービス選手は大学時代、野球とボクシングの2種目の選手だったそうだ。多分、中田翔選手や清原和博氏などとは格が違う史上最強のプロ野球選手だろう。
 射殺されたブラウン氏は18歳の黒人青年として顔写真だけが報じられるが実は身長193㎝・体重136㎏の巨漢だった。ウィルソン氏は「(プロレスラーの)ハルク・ホーガンのような屈強な男に攻撃されて命の危険を感じたので発砲した」と証言しているが、こんな巨漢に攻撃されたらそう感じても無理は無い。身長192㎝・体重157㎏の白鵬関にも匹敵する大男に攻撃される恐怖は充分に理解できる。12発も撃ったことを殺意の証拠と考える人もいるが、これは逆に恐怖によるパニック反応と理解できる。多分、恐怖に駆られて弾が切れても引き金を引き続けていたのではないだろうか。
 この報道におけるマスコミの偏り方はいつものとおりだ。常に被害者は正しく加害者は極悪人で、アメリカでは人種差別が横行するというシナリオに従って報じられる。だから被害者が巨漢だったことには触れようともしないし、時には18歳のブラウン氏を「黒人少年」と呼ぶこともある。
 嘘を言わなくても重大な事実を隠蔽するだけで読者・視聴者に与える印象を操作できる。嘘であれば検証できるが、隠蔽されればそれが意図的な隠蔽かどうかを検証することは難しい。中国では天安門事件の存在さえ歴史から抹殺されている。隠蔽こそ事実を最も大きく歪める。

思春期

2014-11-30 09:35:37 | Weblog
 思春期には心身共に不安定になり易い。体の変化は外に現れるので同級生と同じだと思って安心できる。しかし心の変化は外からは見えない。自分の内面で何が起こっているのか分からずに途方に暮れることもある。
 成長期の不安定さと将来に対する漠然とした不安が何らかの異常行動を招くこともあろう。現代医学はこれを精神病の初期症状と解釈する。早期発見早期治療によって重篤化を防ごうとする。これは誤診だ。殆んどが病気ではなく成長のためのプロセスだ。青虫が蝶になる前に蛹を経由するように、子供と大人の間には思春期がある。これは子供の世界とも大人の世界とも異なる。このことを理解しない愚かな精神科医が、若年精神病とか発達障害とか名付けて病人扱いをする。若年層をヤブ医者から守ることが急務だ。
 思春期には物思いに耽ることが増える。軽度の抑鬱状態を初期の鬱病と診断された子供には悲惨な未来が待っている。抗鬱剤を処方された子供は物思いに耽らなくなる。これは症状の緩和でさえない。薬によって物思いができなくなった、つまり能力の一部が損なわれたということだ。
 ブラック企業に勤める人が鬱病を患うことがある。連日のパワハラや無茶な残業で心身共に疲弊しているから心がブレーキを掛けているのだろう。ヤブ医者が抗鬱剤を処方すれば患者は矛盾を感じなくなり死ぬまで働き続ける。彼は人から家畜に品種改良された。
 思春期には頭痛を起こすことも多い。私自身、頭痛を患った時期があった。原因不明ということで放置することにしたが、ヤブ医者に薬漬けにされなかったのは幸運だった。今では割とよく知られていることだが、頭痛薬の最大の副作用は頭痛の悪化だ。「頭の痛い問題」と言うように心因性の頭痛もある。
 抗精神病薬とは実は精神を異常にさせる薬だ。こんな物が子供に使われたら健全な成長は望めない。アクリルケースで形を歪められた四角い西瓜のようなものだ。
 周囲が狂っていれば正常な人が狂人扱いをされる。イスラム教原理主義が罷り通る「イスラム国」では無神論者もキリスト教徒も狂人だ。しかし本当に狂っているのはどちらなのだろうか。
 狂気と正気の区別でさえ難しいのだから病気と健康の区別はもっと難しい。医療で早期発見早期治療が謳われてから久しいが、早とちりによる誤診にもっと気を付けるべきだろう。人の貴い個性を異常と見なすべきではない。人の成長の仕方は様々であり、背の低い子供に安易に成長ホルモンを投与するような乱暴な医療は危険すぎる。医療過信は医療不振よりも遥かに危険だ。
 

有給休暇

2014-11-28 10:11:40 | Weblog
 人員が充分であれば有給休暇は同僚に迷惑を掛けない。だから労働者の権利として堂々と使うべきだ。しかし精密機械の部品が欠けたらどうなるか?全体が止まってしまう。
 規模の大小を問わず、民間企業は最少の人員で最大の成果を求める。欠けても支障が生じないのはクビにしたいような役立たずだけだ。公務員であればたっぷりと余剰人員を抱えているから有給休暇を使い放題だろうが、今時の民間企業にそんな余裕は無い。だから必然的に有給休暇は消化されない。
 もし誰かが有給休暇を使っても支障の無い職場があればそこには余剰人員がいるということになる。サッカーで一人が退場になれば圧倒的に不利になるように、誰かが欠ければ他の10人の負担は1割ずつ増えることになる。そんな組織が当たり前でありそれだけシビアに人員は配置されている。
 有給休暇が取り易い恵まれた職場もある。それは競争が激しくない特殊な業界と公務員およびその天下り団体だろう。補助的役割しかしていない人も代替可能だから有給休暇を取り易い。だからこそ多くの女性社員は役職に就いて責任を負わされることを嫌う。あるアンケートでは、体調不良でも無理をして出社したことのある女性が96%を占めたそうだが、こんな立場よりも多少給料が少なくてもマイペースで働けるほうが多くの人にとっては好ましい。日本人の有給休暇の取得率は48.8%とのことだが、これらの人と病弱者を除けば限りなくゼロに近いのではないだろうか。
 博覧会を担当した時、開催期間中、私は風邪で半日だけ休んだ。県庁から出向していた人の中には108日間無休だった人もいた。忙しい職場とはそういうものなのだろう。
 私は決して仕事が好きな訳ではないが、30余年の在職期間中、退職直前以外ではたった1度しか有給休暇を使わなかった。やるべきことをやらずに休めるほど無責任ではなかった。有給休暇の権利は2年で失われるが、使えない人のために買取制度があるべきではないだろうか。これは決して休む権利の剥奪ではなく休めない人のための権利であり、労働に対する正当な報酬だ。休めないほど多忙な人が報われるべきだ。有給休暇の時効制はサービス残業以上に悪質な労働者搾取であると私は考える。

する

2014-11-28 09:38:21 | Weblog
 「生きるために生きる」は同語反復であり意味を持たない。しかし多くの人の実感はこれに近いのではないだろうか。「死にたくないから生きる」も同じようなものだ。
 ショーペンハウエルは「盲目的な生への意志」と考えたが生きている人は生きることを意志しない。虫でさえ摂食と繁殖を求めて生きる。働くために働く人がいないように他のことが目標とされる。仕事が生き甲斐である人はその報酬や達成感が目標であり、「シジフォスの神話」のような虚しい労働は目標たり得ない。
 私は「するために生きる」と考える。生きることは目標ではなく何かをするための「場」だ。シェークスピアのように「人生(世界)は舞台だ」(「お気に召すまま」より)と言っても良かろう。何かをするためには時間と空間が必要だ。時間と空間が無ければ何もできない。時間と空間を提供する「場」こそ生きるということに他ならない。生きる「場」が「する」ための場になる。生きているという資格が無ければ活動する権利を失う。
 死んだ人には時間も空間も無い。勿論、視覚も聴覚も無い。死んだ人は「無」であって生まれなかった人と同じだ。
 人は生きている間だけ何かができる。死んだら何もできない。生きていれば死ぬこともできるが、死んだ人は再び死ぬこともできない。本当に何もできない状態になる。死ねば何も無く何もできない。何かをするための必要条件が「生きている」ということだ。
 生きて何をするべきかという基準は無い。各自が勝手に選べば良い。但し1つだけ気を付けるべきことがある。それは、騙されない、ということだ。キリスト教やイスラム教の教えを信じて自分を制約することは全く馬鹿馬鹿しい。これはオウム真理教に騙されることと大差は無い。もう1つの敵はマスコミだ。マスコミは自分達にとって都合の良い嘘に凝り固まっている。彼らの嘘に騙された人が多数者を占める。多数者とは良識(bon sens)を備えている人々ではなく多くは単なるマスコミの代弁者だ。嘘から解放されることが自分を生きるための第一歩になる。
 私は他人のために生きることを勧めようとは思わない。個人は巨大な有機物の一部かも知れないがその有機物には目標が無い。無意味な有機物の一部であるよりは、やりたいことをやったほうが良かろう。しかし仮に、他人を幸福にすることが心底好きな人がいれば、私は決してその人を咎めようとは思わない。やりたいことをやれば良い。

向精神病薬

2014-11-27 10:21:41 | Weblog
 二日酔いの不快感を解消する最も簡単で有効な方法は迎え酒だ。しかしこれは治療ではない。二日酔いの状態をほろ酔いの状態に変えて不快感を消しているだけだ。肝臓の負担は大きいしアルコール中毒を招く恐れもある。現代の精神医学は不快な症状を緩和するだけであり病気を悪化させることが多いのだから迎え酒と同じようなことをやっているのではないだろうか。
 痛み止めを使えば怪我の痛みが消える。しかしこれは治療ではない。切り傷であれば傷口から血が流れ続けるし骨折なら骨が折れ曲がったままだ。やるべきことは傷の縫合であり骨の整形だ。結果に過ぎない痛みではなく原因である怪我を治すことが治療だ。
 不快感の解消は治療ではない。それにも拘わらずその場凌ぎの対症療法で満足する医師や患者が多過ぎる。下痢を止めれば有害物が排泄されないので却って重症化する恐れがある。
 感染症であれば予防することも治療することもできる。欠乏症もその栄養素を補給することによって治療できる。これらは原因が分かっているから治療できる。原因が分からないことに対する対症療法は治療ではない。それは切り傷に対する痛み止めのような偽医療だ。
 原因が分かっていれば医療は有効だ。しかし逆に、原因がわからないことに対する対症療法は殆んどが無効でありしばしば有害でさえある。
 脳出血等であれば手術で対応できる。それは原因が分かっているからだ。精神病の殆んどは原因が分からない。分からないままにとりあえず薬によって異常反応を起こしてあわよくば異常×異常=正常となることを期待している。こんなものは治療ではない。動物実験のようなものだ。
 パワハラやセクハラが横行しサービス残業が当たり前のブラック企業の社員であれば出勤するだけで嫌な気分になるだろう。こんな正常な感覚を薬によって捻じ曲げてエヘラエヘラ笑っていられるようにするのが治療であるならそれは抗精神病薬ではなく人を狂わせる「向精神病薬」だ。
 日本では軽い抑鬱状態に対して抗鬱剤が処方され勝ちだが、こんな危険な治療を行うのは日本だけだろう。欧米では軽度の鬱病でさえ極力抗鬱剤を使わずに治療しようとするそうだ。抗鬱剤の危険性を理解しているからだろう。脳に異常反応を起こさせる抗精神病薬を安易に使い続けることによって精神病患者が人為的に作られている。

大学生

2014-11-27 09:43:57 | Weblog
 23日付けの「独学」で「66%の人が学生時代に戻りたいと答えた」と書いたが、こんな郷愁を抱くのは旧世代だけかも知れない。今の大学生、特に地方出身者の生活はかなり大変らしい。
 ’70年代前半の私達の世代も決して裕福ではなかった。私の定番の昼食は大学生協での卵かけごはんと味噌汁ご飯、およびお茶漬け海苔を持参してのお茶漬けだった。食べ放題の白菜漬けか沢庵だけがおかずだった。それでもそんなに困窮した思いをしなかったのは学費の安さとアルバイト賃金が高かったからだろう。それなりに稼げるアルバイトは幾らでもあった。
 当時の国公立大学の授業料は年間12,000円だった。現在の僅か2%だ。この安い授業料を私はいつも滞納していた。滞納が半年になって掲示板に名前が掲げられるまで納金しなかった。当時の金利は年間で10%近くあり、6,000円を半年滞納すれば300円ほどの利息を稼げたからだ。
 当時は非正規雇用労働者は殆んどいなかったのでアルバイトの時間給はかなり高かった。学習塾などの講師の仕事であれば選り取り見取りだった。アルバイト労働者は貴重な臨時労働力として優遇されていたと思う。だから卒業したら却って貧しくなった。初任給は10万円だったが福利厚生費などが天引きされるので手取りは8万円ぐらいだった。フルタイム勤務よりもアルバイト学生のほうが稼げる不思議な時代だった。
 その後、フリーターという言葉が流行語になった。就職せずに非正規雇用で好きなように働いても充分に生活できたからだ。
 割と親しかった女性二人はそれぞれ書店と煙草屋で働いていた。短時間の勤務だったから二人共学業と両立させて大学院に進んだ。今ではこんなことなどあり得ないだろう。
 社会構造はすっかり変わってしまった。国公立大学の授業料は高騰し、非正規雇用労働者の増加によりバイト料は低迷している。今のアルバイトの賃金レベルでは学費を稼ぐだけでも大変だ。普通のアルバイトでは勤務時間が長くなり学業と両立できない。時間給の高い風俗店を選ぶのは学業を諦めないためにはやむを得ないことではないだろうか。
 現代ではアルバイトを含めた非正規雇用労働者は貴重な臨時労働者ではなく使い捨て労働者と位置付けられている。大学生が週に2・3日の労働で生活費を稼げた時代があったとは現代人には信じられないことだろう。
 現在フリーターでは生活が苦しい。増してや大学生がアルバイトで自活するなど、学業を犠牲にしない限り不可能だ。教育に対する日本の公的資金支出額は、GDP比ではOPEC32ヶ国中で最低だそうだ。教育こそ未来に対する投資だ。大学生の投票率は低いが、多数者であり投票率の高い高齢者にばかり政治家は迎合すべきではない。
 大学を富裕層に独占させないためにも、あるいは女子大学生が風俗店で働かなくても済むためにも、公立大学の授業料の大幅値下げが必要なのではないだろうか。そうしなければ格差が世襲されてしまう。

施し

2014-11-25 10:22:21 | Weblog
 水不足で困っている人にペットボトルの水を与えても一時凌ぎにしかならない。救援物資はいずれ底を突く。その場凌ぎではなく抜本的対策が必要だ。緊急時には支援が必要だが、抜本的対策となるのは浄水化や井戸掘りなどの技術提供だろう。
 患者が死にそうな時にはカンフル剤が使われるがこれも一時凌ぎであって延々と使い続ける訳には行かない。
 道端に乞食がいれば施し物をすべきだろうか。施す人がいるから彼らは乞食をやめようとしない。昔から「乞食も三日すれば忘れられぬ」と言うように彼らを助長することになる。
 野生のイノシシに餌をやる人がいる。そのせいでイノシシは人を怖がらなくなり市街地にも現れる。獣界と人界の境界を破壊したのは餌をやる軽率な人だ。
 生活保護は最後のセーフティネットだろう。働けない人を助けるのが目的であり、働かない人を助長すべきではない。働かない人を助ければ働かないことが奨励される。人は安楽を好む。一旦楽な暮らしを覚えてしまえばわざわざ煩わしい生活などしようとは思わない。不労所得の味を覚えれば額に汗して働くことなど馬鹿馬鹿しくなる。
 生活保護の意味を根本から見直すべきだろう。現在の生活保護は救援物資でありカンフル剤だ。施しは有害だ。歩くことをやめた老人が歩けなくなるように、働かない人を働けなくしているのが現行制度だ。無条件に支給するのではなく何らかの報酬にすべきではないだろうか。極論すれば穴を掘ってそれを埋めるだけでも構わない。何かに対する報酬にしなければ働かないということが肯定されてしまう。
 高齢や病気などで働けない人と、働けるのに働かない人は全く別に扱うべきだ。働かない人の一部は暇を持て余らせてパチンコ店などに入り浸る。極端な話かも知れないが、就労斡旋を兼ねた不労者収容所を作ってはどうだろうか。提供するのは住居と食事と健全な娯楽と職業訓練だ。訓練の中に農業などの生産活動を含めても構わない。これなら生活保護費がパチンコなどに使われることが無くなり、却って国民の負担が軽減されるのではないだろうか。勿論、農作物による収入も見込める。普段の生活態度まで分かるから良い人には良い仕事を斡旋することも可能になるだろう。ネガティブな書き方をしたがこれは実質的に給付金付き職業訓練所であり決して人権を侵害することにはなるまい・

心の初潮

2014-11-25 09:42:59 | Weblog
 大抵の人は酒を飲むと多少陽気になり口数が多くなる程度だが、性格が大きく変わる人がたまにいる。アルコールは脳などに異常反応を起こさせるがその度合いは人によって大きく異なる。抗精神病薬の効き目もアルコールと同程度に個人差があるのではないだろうか。特に若年層においては少量で劇的な反応を起こす人もいるだろう。
 成長期である思春期は心身共にバランスが崩れ易い。体の成長についての知識は蓄積されているので初潮を病気と思う馬鹿な医師などいないが、心の初潮に対してはとんでもない「治療」が行われている。初期の精神病と誤診して抗精神病薬が投与される。子供から大人へと成長するために精神が不安定になり易い若年層の場合、少なからぬ人が異常反応を起こす。こうして若年精神病患者が作られる。これは医原病だ。
 思春期は人間関係や恋愛などで悩むことが多い。これらは乗り越えるべき壁だ。乗り越えなければ社会人として生きられない。壁に挑むべき時期に、軽度の鬱病と診断して抗鬱剤で誤魔化してしまえば社会に適応できなくなってしまう。ヨチヨチ歩きを禁じられた幼児が一生歩けなくなるようなものだ。勿論、医原病を患う恐れもあるから二重に有害だ。
 体は10億年に亘る進化の賜物なので多少の有害物でも克服できる。しかし心の進化は僅か数百万年の歴史しか無い。心は脆弱であり容易に破壊され得る。目に見えない心がどれほど脆いものであるかを精神科医は知らない。「病は気から」と言うように心理状態の異変だけで人は病気になる。その逆にプラシーボ(偽薬)によって症状が改善することも少なくない。人を制御する心はガラス細工のように繊細で壊れ易い。
 対症療法は治療ではない。ただの時間稼ぎだ。不快な症状を緩和している間に自然治癒力が働いて体が勝手に回復する。医学はとんでもない思い違いをしている。医療によって治療できることなど殆んど無い。医療はただの時間稼ぎに過ぎず、患者を治癒へと導くのは自然治癒力だ。体の健康は自然治癒力によって保たれている。
 ところが心には自然治癒力が働かない。人類はまだそこまで進化していない。心に自然治癒力が備わるためには1億年くらい掛けた進化が必要なのではないだろうか。心には自然治癒力が備わっていないのだからそれをアテにした対症療法は無効だ。心の病を克服するためには心の成長が不可欠であり、健やかな成長を妨害する薬物は毒物に過ぎない。抗精神病薬は酒や麻薬以上に若年者の精神を蝕む。

いい夫婦

2014-11-23 10:02:59 | Weblog
 久し振りに会った異性の変貌ぶりに驚くことがある。頻繁に会っていれば余り気にならないが久し振りであるほど驚きは大きい。
 人は日々老化する。本人には分からない程度に徐々に老化する。本人や頻繁に顔を合わせている人にその変化は分かりにくいが、久し振りに会えばその変化に驚く。
 仮に毎日10gずつ体重が増える女性がいたとする。毎日顔を合わせていればその変化は感じられない。ところが1年振りに会った人であればいきなり3.65㎏太った彼女に出会って驚愕する。
 こんなジョークがある。紳士衣料品店の美人店員が退職を申し出た。店長がその訳を尋ねると彼女は「釣り銭を確認する人が増えた」と答えた。
 ヤボを承知で解説するが、以前であれば総ての客が彼女から目を離さなかったのに容色が衰えたから釣り銭を見る余裕を与えてしまったということだ。彼女は美人としての称賛を得られなくなったから勤労意欲を失った。
 昨日(22日)は「いい夫婦の日」だった。何がいい夫婦なのかはよくわからないが仲睦まじくあるために最も有効なのは時間を共有することだろう。時間を共有すればお互いのことがよく分かるし話題や価値観も共有できる。そればかりではなく頻繁に顔を合わせていればお互いの老化が気にならなくなる。少しずつ老化するから相手の変貌に気付かない。常に少し前の面影を思い出し続けているからお互いの姿は現実よりも若い。
 人は決して「ありのままに」見る訳ではない。必ず以前の印象に引き摺られる。若い頃であれば再会した時に美しく育ったことに驚くこともあろうが、最盛期を過ぎれば衰える一方だ。美しく老いることは至難の業だ。老いを目立たせないためにも夫婦は多くの時間を共有すべきだ。それが夫婦円満のための秘訣だ。

独学

2014-11-23 09:34:21 | Weblog
 退職後、只管独学に励んでいる。我流の独学では何の資格も得られないが最も自由に勉強できる。哲学科の学生だった頃、私は同級生と比べてかなり好き勝手な勉強をしていた。それでも心理学・文学・動物行動学ぐらいまでしかジャンルを広げていなかった。今では全く自由だ。医学・生物学・気象学などの理科系や歴史・教育などの人文系、あるいは最も苦手だった政治・法律などの社会学系についても勉強している。似非科学として敬遠していた経済学も行動経済学というジャンルを見つけたのでそれなりに楽しんでいる。授業とは違って本は質問に答えてはくれない。それでもネットを使えばある程度なら疑問も解消できる。
 人は学問を通じて自由になれる。誤った信条に縛られる人は自由ではない。例えばオウム真理教の信者は誤った教えを信じて無差別テロまで犯した。彼らは正しいと信じて行動したのだが、それが誤りであったことは今では彼らにも分かっているだろう。彼らの人生は全く無駄に費やされた。それどころかもし可能ならリセットしたい一生だった。マスコミに踊らされている多数派の人も彼らと大差は無い。マスコミによる操作に盲従している人は自分で考えている訳ではない。思考も生き方もアウトソーシングしている状態だ。これでは自分の人生ではない。このことを疑わない人と比べれば「誰かに操縦されている」と訴える統合失調症の患者のほうが余程正常とさえ思える。情けは人のためならずと言うが、学問も人のためではない、自分自身のためのものだ。
 あるアンケートでは66%の人が学生時代に戻りたいと答えたそうだ。しかし今考えれば学生は決して自由な境遇ではなかった。まずお金の心配をせねばならない。あるいは就職・結婚といったことも考えるから雑念が多くなり学問のために最適な環境とは言い難い。それと比べて退職後なら何の制約も無い。老化と寿命だけが将来に関する不安だ。伊能忠敬のように隠居後に学識を深めることは理に適っている。
 独学の一番の欠点は人との出会いが無いことだ。大学へ行って一番良かったことは知的レベルが同等以上の良き友人に出会えたことだ。今でも数人との付き合いが続いている。