人間は本来、我儘な動物だろう。しかし社会生活を営むためには我儘を抑えて協調を図らねばならない。こうして羊のように従順な、仕来たりに従う第二の性格が育成されて社会人となる。
この第二の性格を全面的に否定する気は無い。人間は社会内でしか生きられないのだから社会性を失うことはできない。社会性を否定して勝手気ままに生きたい人は人里を離れて山奥で獣のような生活をするしか無い。
しかし抑圧されて貧弱になった第一の性格を放置したままで良いのだろうか。去勢された牛のような貧相な姿は人間本来のものとは思えない。人間はもっと雄雄しくて自由な動物だろう。
これは「あれかこれか」の問いではない、「あれもこれも」の問いだ。
命令されなければ動けない人は第一の性格が枯渇した人だろう。社会にとって価値があることを自分にとっても価値があると思う人は我欲を見失った人だろう。自分のための価値が元々はあった筈だ。それが見失われている。
「何をしたら良いのか」という問いは「私は何をしたいのか?」という問いに置き換えられるべきだろう。社会適応者として切り捨てていた不適応部分こそ第一の性格の残滓だ。これまで抑圧されていた欲望にこそ根源的な生命力があるのではないだろうか。
自由人は我欲の棚卸しから再スタートをするべきだろう。たとえ反社会的な欲望であろうとヴァーチャル空間でなら実現することが可能な時代になっている。抑圧を克服することこそ自己実現への唯一の道だ。
この第二の性格を全面的に否定する気は無い。人間は社会内でしか生きられないのだから社会性を失うことはできない。社会性を否定して勝手気ままに生きたい人は人里を離れて山奥で獣のような生活をするしか無い。
しかし抑圧されて貧弱になった第一の性格を放置したままで良いのだろうか。去勢された牛のような貧相な姿は人間本来のものとは思えない。人間はもっと雄雄しくて自由な動物だろう。
これは「あれかこれか」の問いではない、「あれもこれも」の問いだ。
命令されなければ動けない人は第一の性格が枯渇した人だろう。社会にとって価値があることを自分にとっても価値があると思う人は我欲を見失った人だろう。自分のための価値が元々はあった筈だ。それが見失われている。
「何をしたら良いのか」という問いは「私は何をしたいのか?」という問いに置き換えられるべきだろう。社会適応者として切り捨てていた不適応部分こそ第一の性格の残滓だ。これまで抑圧されていた欲望にこそ根源的な生命力があるのではないだろうか。
自由人は我欲の棚卸しから再スタートをするべきだろう。たとえ反社会的な欲望であろうとヴァーチャル空間でなら実現することが可能な時代になっている。抑圧を克服することこそ自己実現への唯一の道だ。