俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

美を競うスポーツ

2009-12-29 17:30:01 | Weblog
 フィギュアスケートや体操のような美を競うスポーツではなぜ女子の衣装は男子より露出度が高いのだろうか。勿論、例外もある。シンクロナイズドスイミングや飛び込みでは男子の衣装のほうが小さい。しかしこれは水の抵抗を抑えるために必要最小限の水着を使っているのであって他意は無い。
 好意的に考えれば女子の肉体そのものがアートであってそのアートが演技の重要な得点源であると見なすこともできよう。
 それにしても、なぜ女子のフィギュアスケートはあれほど多頻度に股を広げるのだろうか。アクロバティックなビールマンスピンは女子では多くの選手が採り入れるが男子では見たことが無い。股を広げる演技に対して高得点を与えることによって、若く美しい女性に股を広げさせようと好色な男どもが企んだと考えることもできよう。
 フィギュアスケートなんて恥ずかしくてできないと多くの女性は感じるのではないだろうか。女子フィギュアスケートは男性週刊誌ではまるでポルノのような扱いになってしまっている。

相続税

2009-12-29 17:16:43 | Weblog
 朝日新聞によれば「政治資金は非課税扱いのため、政治団体の代表者を親から子に変更するだけで税負担無く資産を移すことがまかり通っている。」(12月25日付け朝刊)とのことだ。
 権力者は自分達に都合の良い法律を作るものだが、これは酷過ぎる。しかし国民が幾ら怒っても法律が改正されることは期待できない。
 こんな政治家の横暴に対抗するために、総ての資産家は政治団体を作るべきだろう。何も自ら政治家になる必要は無い。「友愛会」だろうと「緑の党」だろうと「生類憐れみの集い」だろうと何でも構わない。何らかの政治的スローガンを掲げて自分の資産をこの団体に移し、親族を役員にしてしまえば相続税を免れるこよができる筈だ。
 こんなやり方で相続税の矛盾を社会問題化するほど拡大してしまえば、政治家も何らかの見直しをせざるを得なくなるだろう。悪を退治するためには自ら悪の道を歩むこともやむを得まい。
 しかしもしかしたら一般庶民が知らないだけで主な資産家は既にこのことを実践しているのかも知れない。もしそうなら、それこそ早急に見直されねばならない。

幸福感

2009-12-29 16:58:56 | Weblog
 心理学のジェームズ=ランゲ説によると「人は悲しいから泣くのではなく泣くから悲しい」とされているが、悲しみ以上に幸福感こそ原因と結果が逆転しているように思える。つまり幸福だからエンドルフィンやドーパミンが出るのではなく、エンドルフィンやドーパミンが分泌されるから幸福と感じるのだ。
 マラソンや冬山の登山などは普通の感覚では苦痛でしかないにも関わらず愛好者がいる。これはランナーズハイやマゾヒズムと同様に脳内麻薬が分泌されるからと考えなければ彼らの奇妙な幸福感は理解できない。
 客観的状況が同じであっても幸福と感じたり感じなかったりするのは心理的要因ではなく生理的要因に過ぎない。エンドルフィンやドーパミンが分泌されさえすれば幸福を感じる。これは状況に変化が無くても酒を飲んだだけで幸福を感じることができるのと同じようなものだ。
 幸福になるのは意外なほど簡単なようだ。テレビCMを信じるならキッコーマンの旨い醤油やポンズ醤油、あるいは蓬莱のブタマンがあるだけで幸福になり得る。
 個人的な経験だが「一生なんて無駄の連続に過ぎない」と考えて憂鬱な気分でいたら、たまたま立ち寄った食堂の日替わり定食が安くて旨かっただけですっかり幸福な気分に変わったことがある。「何となく幸せ」ということが幸福の本質とさえ思える。感情は元来、主観的なものだが幸福感は特に極端なもののようだ。
 合理的な理由ではなく生理的な理由で幸福感が決まるなら「理」で解明することは不可能だろう。むしろ医学および生理学の領域だ。
 

クリスマス

2009-12-22 16:19:07 | Weblog
 今日は12月22日。ということは「しあさって」がクリスマスだ。
 何を当たり前のことを、と言われそうだが、「あさって」の24日をクリスマスだと思い違いをしている日本人が非常に多い。24日はクリスマスイブであってクリスマスは25日だ。イエスキリストの誕生日を祝うのなら25日がその日であり24日は前夜祭に過ぎない。
 日本人の習性として祝日はその当日であり前夜祭という考え方は殆んど無い。誕生日や結婚記念日の前夜祭をする人を私は一人も知らない。
 唯一例外と言えるのは大晦日だろう。大晦日は祝日ではないにも関わらず一般の意識は祝日に近い。これは1年の締め括りという意味の準祝日だからであって前夜祭ではなかろう。
 ところで「しあさって」という言葉を「3日後」の意味で使ったが、私の郷土の伊勢では「4日後」を意味する。3日後は「ささって」と言う。多分、語源は「3あさって」だろう。「4あさって」を3日後とするよりも理に適っていると思うのだが中部地方以外ではつかわれていない方言だ。

最高善

2009-12-22 16:06:06 | Weblog
 かつて哲学には「最高善」という考え方があった。しかしこれは最高善に神を据えない限り必ず矛盾を招くのでこの概念を使う人は殆んどいない。
 例えば人命を最高善とすれば死刑は許されないし、テロリストが無茶な要求をしても「人命は地球よりも重い」と訳の分からぬ理屈でテロリストに無条件降伏することになる。
 社会の秩序を最高善とすれば現体制批判は許されず、ファッショ化へと向かう。
 平和を据えれば植民地支配を黙認することになる。
 このように哲学的には破綻した概念ではあるが現実問題を考える時には役に立つことが多い。受験を今の最高価値と考えるなら他のことは犠牲にせざるを得ないし、家族を重視するなら、そのために何をすべきで何をすべきでないかは自ずから明らかになるだろう。
 ところで今、普天間の米軍基地の問題がグシャグシャになっている。各政治家が好き勝手なことを言って収集が付かない状態だ。私は単純化が必ずしも正しいとは考えないが、何を最優先にすべきかを考えれば案外簡単な問題だと思える。私は普天間の住民の安全が最優先だと考えるが、放言する政治家に「何が最優先か」と尋ねるだけで問題点は随分整理されると思う。

言論の責任

2009-12-22 15:50:05 | Weblog
 言論の自由は守られねばならない。個人がどんな過激な発言をしてもそれで罰せられることは無い。しかしマスコミの場合は違う。間違った報道は責任を問われるべきだろう。言論で収入を得ている組織が言論の責任を負わないのは詐欺のようなものだ。
 かつて朝日新聞をはじめ多くのマスコミが北朝鮮を「地上の楽園」として褒め称えた。この報道を信じて多くの在日朝鮮人が北朝鮮に帰国した。そして今、多くの人が飢えと貧困に苦しんでいると現在のマスコミは伝える。
 報道されたことを信じて朝鮮海峡を渡った人に対してマスコミは責任が無いのだろうか。あくまで言論は自由だと言って責任逃れをするつもりだろうか。これはイデオロギーに基づく誤った報道だけに納豆にダイエット効果があるかどうかよりも遥かに重大な問題だ。
 自由と責任が表裏一体だということは(理解しているかどうかはともかく)小学生でも教わっている。なぜマスコミは責任を取ろうとしないのだろうか。損害賠償は無理としてもかつての報道を反省する姿勢ぐらいは示して欲しいものだ。それとも金日成体制では地上の楽園だったが金正日体制になってからテロ国家に変質したと説明するのだろうか。
 戦時中の提灯記事についてはマスコミも自己批判をしている。但し「言論統制が厳しかったから」という言い訳を必ず付け加えている。それでは言論の自由な時代でのこの虚報についてはどう釈明するのだろうか。

政策と対策

2009-12-15 15:55:06 | Weblog
 中国には「上に政策があれば下に対策あり」という諺がある。権力者が国民から搾取しようとして法を作っても国民は面従腹背というやり方で法を骨抜きにしてしまうという意味だ。
 中国人は昔から法律が大嫌いだ。秦を倒した劉邦は法三章を宣言して熱烈に歓迎されたと言われている。法三章は殺人・傷害・窃盗のみを罰するという内容で、モーゼの十戒と比べて遥かに寛容なルールだ。それだけ秦の民は悪法に苦しめられていたのだろう。
 もし法律が権力者による民衆の支配のためのものでしかないなら法律など少ないほど良い。しかし総てをそう考えるのは誤りだ。古くはイギリスの大憲章、これは貴族が王に課したルールだ。法律は権力者のためだけではなく民衆のために定められたものも決して少なくない。
 道路交通法などはその典型だろう。道路交通法を定めることによって権力者が得る利益は余り多くない。あくまで民衆の交通をスムーズにするためのルールだ。道路交通法に違反することが反権力闘争になるなどと主張するのは暴走族だけだ。
 道路交通法は民衆のためのルールだから権力者の利害の絡む法律と比べて取り締まりが緩い。長年放任されてきた飲酒運転は悲惨な事故をきっかけに世論の批判が強まりまともに規制されるようになった。スピード違反は今なお放任されている。歩道の自転車は最早無法状態になっている。権力者はザル法を作って責任逃れをすることによって法律を守らない者のモラルの問題に摩り替えている。これはモラルの問題ではない。ルールの問題だ。

熱い水

2009-12-15 15:37:01 | Weblog
 外国人がウェイトレスに「熱い水が欲しい」と日本語で言ってキョトンとされ、何度言い直しても通じず、最後に`hot water'と言って初めて意思が通じたという話を聞いたことがある。
 もし私が当事者のウェイターだったらどうだろう。「アツイミズ」と言われても何のことか分からない。水は日本では0℃~約30℃ということが常識だからだ。約30℃を超えれば「湯」と呼ばれる。
 つまり「水=water」ではない。「水=cool or cold water」と捕らえるのが正しいのだろう。
 このように翻訳はしばしば勘違いを招く。「日本人はウサギ小屋に住むエコノミックアニマル」という言葉はその典型例だろう。ウサギ小屋(cage a lapins)はフランス語ではマンションの意味だ。エコノミックアニマルは「イエローモンキー」などとは違って侮蔑語ではない。「人間は考える動物だ」と言っても人間を侮辱したことにはならない。
 英文でteachable animalという言葉に出会ったことがある。勿論これは「教える獣」という意味ではない。その文章は「高等教育を受けた人は創造者かティーチャブルアニマルになる」という内容だったから「教育者」と訳するのが正しかろう。
 キリスト教原理主義者とは違って、人間が動物の一種であることを疑わない日本人が「アニマル」という語に偏見を持つのは奇妙な話だ。「ケダモノ」という侮蔑語があるせいだろうか。

飢餓の輸出

2009-12-15 15:14:29 | Weblog
 地球の人口65億人は多すぎる。資源配分の不備があるとは言え、現実に8億人が栄養不足の状態であり、毎年、数千万人が餓死している。もっと人口が少なければ平和に共存できるだろう。
 ではどうすべきか。人口が多い中国やインドがヤリ玉にあげられるがこれは必ずしも合理的ではない。中国もインドも食料自給率が100%を超えている。領土が広ければ人口が多いのはある意味では当然のことだ。
 むしろ人口密度の高い国が率先して「人減らし」に励むべきだろう。人口密度の高い国は食料が自給できないので自ら飢えに苦しむか、他国から食料を買い漁ることによって「飢餓を輸出」している。
 では人口密度の高い国はどこか。①バングラデッシュ②台湾③インド④日本⑤フィリピンだ。バングラデッシュとフィリピンは飢えと貧困に苦しみ、日本と台湾は食料品を輸入することによって飢餓を輸出している。今のところインドは例外で食料自給率は130%らしいが国内の飢餓人口は1.2億人だそうだ。こんな国が人口を減らすことこそ最大の国際貢献だ。
 日本では人口減少を問題視する声が多い。少子化対策の大臣までいる始末だ。しかし国際的に考えても国内的に考えても日本は人口を減らすべきだ。
 人口が減れば水も空気も綺麗になるし、食料自給率も高まり失業率も下がる。総額としてのGDPは減るかも知れないが個人当たりのGDPは増えて今よりも豊かな国になる。そして何よりも飢餓の輸出が減る。
 確かに過渡期においては年金の不足や過疎化などの問題が生じる。しかしこれは言わば産みの苦しみであって将来の幸せのためには必要なことだ。人口の拡大再生産は問題の先送りに過ぎずまるでネズミ講のようなものだ。無限連鎖に頼った一見合理的に見える国策が日本と世界を不幸へと導く。

失業

2009-12-08 16:22:26 | Weblog
 先日、英会話講師だったイギリス人のリンゼイさんの殺人容疑で市橋容疑者が逮捕された。
 事件および指名手配から2年以上経つので、てっきり富士山麓の樹海あたりで死んでいるのだろうと勝手に想像していたので少なからず驚いた。それ以上に驚いたのは彼が数十万円の現金を持っていたということだ。指名手配されているという就業のためには最悪の条件の人でも貯金ができるほどこの国は豊かなのだということを改めて思い知らされた。
 指名手配者だけではない。わざわざ指紋を変えてまで入国しようとする人もいるぐらいなのだから不法入国者でも結構稼げるのだろう。不況だと騒いでいる割には巷には仕事があるようだ。勿論多くは3Kとされる肉体労働だろう。とは言え高齢者や病弱者あるいは特殊な事情を抱えた人でなければ誰でも職を得ることができる社会で失業率が5%を超えているのはなぜだろうか。選り好みをしているとしか思えない。失業保険や生活保護という制度が一部の失業者を甘やかして、失業率を高めているようにさえ思える。
 労働は苦痛だ。働かなくても生活できるなら誰も働こうとはしない。「宝くじで1億円当たったらどうするか」という問いに対して「嫌いな上司に辞表を叩き付ける」という答えが少なくないのもその現れだろう。