俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

続・休載のお知らせ

2016-03-21 10:09:47 | Weblog
 明日(22日)から食道癌の治療のために再入院します。退院は1週間後の予定ですが、前回の入院での抗癌剤の副作用が50%も回復していない状態での再治療なので前回にも増して酷い「寝たきり老人」に近い状態で退院することになると予想しています。従ってブログ再開の予定は全く未定です。

三者比較

2016-03-21 09:51:13 | Weblog
 AとBに優劣を付け難い時にCを想定することによってAとBの優劣が明確になるということがある。仮にAとBの優劣が不明でも、A>CかつC>BであればA>C>Bという不等式が成立する。
 癌を放置するという選択肢を命題Aとする。命題Bは抗癌剤によって治療をするという選択で、2か月の延命と引き換えに3か月に亘る苦しい副作用に耐えねばならずその苦痛は多少軽減してもその後死ぬまで続くとする。どちらを選ぶべきかは難しいが多くの人が少しでも長生きできるBを選ぶだろう。
 ここで新たに架空の選択肢のCを想定する。これは3か月間、人工冬眠をするという対策だ。冬眠をすれば癌細胞の増殖は抑えられるから2か月延命できるとする。この対策に魅力を感じるだろうか。これによって得られるメリットは2か月の延命でありその代償として3か月間、植物人間になる。これでは動物として生きられる期間が1か月減ってしまう。年金受給期間が2か月長くなる以外には何のメリットも無かろう。
 次に命題BとCを比べるなら大きなポイントは3か月間の苦しい副作用か人工冬眠かという比較になる。副作用の激しさにもよるが、私なら苦しんで長生きするよりは冬眠のほうがマシだと考える。この3か月以外についても副作用によって苦しめられないCのほうが快適と思えるから、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)を考慮してCを選ぶ。AとBを直接比較した時には延命ということに目が眩み勝ちだが延命の正体が人工冬眠以下の苦しい生活ということであれば判断が代わり得る。
 こうしてA>CとC>Bが成立すればA>Bとなる。AとBを直接比べれば迷っても命題Cを想定することによってAとBの冷静な比較が可能になる。
 この奇妙な不等式のヒントをプラトンの「ゴルギアス」から学んだ。「幸福とは欲望を満たすことだ」と主張するカリクレスに対してソクラテスは「疥癬に罹って(中略)掻き続けて一生過ごすことが幸福だろうか」というとんでもない命題を提示して「満たされない欲望を満たせば幸福になれる」という」命題を否定した。そしてソクラテスは、「不満の充足よりも不満が存在しない状態のほうが幸福な状態」とまるでエピクロスの「アタラクシア(平穏な心)を想起させるような結論へと導く。確かに腰の痛い老人の「屈身欲」や足の痛い人の「ビッコ欲」を想定することは無意味であり、不満の充足よりも不満が存在しない状態のほうが遥かに望ましい。
 こんな発想の転換は、残念ながら論理からは導かれない。幾何学の難問がたった1本の補助線によって解けることがあるし、ミステリーやパズルの謎を解く鍵は意外なところに潜んでいる。常識にとらわれない柔軟な発想が思索のためには欠かせない。

春休み

2016-03-20 10:10:48 | Weblog
 田舎の高校出身の私の受験テクニックはかなり低レベルだったと思うが、受験勉強に関して1つだけお勧めできることがある。高校に入学した年の春休みの過ごし方だ。
 宿題が無い春休みは誰しも気が緩む。中でも高校受験を終えた中学生の立場は、大学受験を終えた高校生と並んで一生で最も気楽な時期だろう。決して他人を出し抜こうとした訳ではないが、私は中学卒業後の春休みにかなり勉強をした。カリキュラムが変わるし新しい教科書も無い時期に何を勉強するのかと疑問に思う人もあろうが、私は中学の延長として学べる高校生向きの英文法の参考書を何度も熟読した。高校受験を終えた直後だけに英語の基礎力は充分に備わっているから高校生用の参考書も簡単に理解できたししっかり身に付いた。その甲斐あって、高校入学の時点での英語の学力は受験時点と比べて飛躍的に高まっていた。
 人は目標があれば努力し、目標を失えば努力しない。受験合格という目標を達成した時点で人は糸の切れた凧になる。しかし受験生の春休みは余りにも長い。ほぼ1か月を無為に過ごすことは勿体ない。ところが現実として受験を終えた受験生には目標が無い。どこにも所属していないから指導してくれる人もいない。だから無駄遣いされ易い。
 近年、東大などの合格者に占める中高一貫校のシェアが高まっているのは意外とこんなことが大きな要因になっているのかも知れない。中高一貫校はエスカレータ式に進級するから高校受験という試練を欠くが、中高間の空白期間が無いというメリットを軽視すべきではなかろう。受験勉強の期間が1か月長くなるようなものだ。
 中学卒・高校未入学の生徒の大半が目標を見失っている。その一方で中高一貫校の生徒は着々と新学期の準備を進めている。この差は大きい。
 中高分離と中高一貫のどちらが優れた教育制度であるかは一概には言えないが、中卒後の空白期間が無いことが大学受験に有利に働くことは間違い無かろう。
 中学を卒業したばかりの人々に忠告したい。空白期間を楽しんでいる間も中高一貫校の生徒は着実に学力を高めている。これが大学受験においては決定的な差ともなり得る。

財政再建

2016-03-19 11:44:01 | Weblog
 消費増税の議論はすぐに財政再建の是非の議論に摩り替えられる。これはマスコミが政治家や官僚とグルになってマインドコントロールをしているのではないかとしか思えないほど悪質な世論操作なのではないだろうか。
 税収の増加は消費増税が唯一の策ではない。所得税や相続税などの正しい徴収とその脱税に対する追徴課税だけでかなりの金額が見込める。農家を含めた自営業者が脱税やり放題であることは公然の秘密だ。確かに自営業者の所得を把握することは難しく、たとえ厳しく取り締まっても徴税額よりも徴税コストのほうが高く付く。しかしそんな理由で放置することが正当であるとは思えない。たとえ個々の摘発が不採算であろうとも、それが一罰百戒の役割を果たして他の事業者が正直に納税するようになれば充分に採算が合う。追徴税を大幅に増額するだけではなく、その脱税額を問わず総ての脱税者の氏名を公表すれば脱税者は大幅に減るだろう。
 芸能人等の薬物犯罪を幾ら取り締まっても警察は1文の得にもならない。儲けるのはマスコミだけだ。それでも摘発を続けるのは波及効果が絶大だからだ。
 法人税の脱税も同様だ。毎年赤字の企業が存続できる筈が無いにも拘わらず日本の法人の約70%が赤字を計上している。疑わしい企業を徹底的に調べ上げ、不正が見つかればそれこそ会社の存続が不可能になるほどの追徴税を課すべきだろう。これによって倒産する企業が増えることによって一罰百戒の効果が高まり、他の企業が正直に申告するようになる。
 悪質な偽装をした食品企業は殆んどが倒産した。彼らに手心を加えて救済する必要など無いように、脱税する企業にも然るべきペナルティが課せられるべきだろう。脱税も食品偽装も国に対する犯罪ではなく国民に対する犯罪だ。
 支出削減の大本命は医療費だ。風邪症候群に対する無駄な医療の見直しだけでかなりの金額が削減されるが、高齢者や生活習慣病患者に対する無駄遣いはそれとは桁違いに大きい。病気でない人を病人に仕立て上げて薬漬けにすればたとえ健康な人でも病気にされてしまう。病気でない人に対する薬の押し売りは詐欺罪だが、積極的に病人を作り出す行為は傷害罪に該当するだろう。無駄なだけではなく有害な医療の根絶は財政再建のための切り札にもなり得る。
 インフルエンザ脳症の症例は日本以外には殆んど無く、子宮頸癌ワクチンの副作用と同様、医原病ではないかと強く疑われている。有害な医療による医原病患者が減ればそのための医療費も減るから、国民の健康の増進と医療費の削減が同時に成立するという好循環も生まれ得る。
 財政再建と消費増税を短絡的に結び付けるべきではない。消費税のような悪税に頼らなくても、黙認されている悪事を退治するだけで財政は再建できる。悪税による増収ではなく悪事の根絶によって財政を再建すべきだ。 

出産支援

2016-03-18 10:08:09 | Weblog
 大阪市内の中学校の校長による「女性にとって子供を2人以上産むことは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります。」という発言が批判に晒されている。軽率な発言とは思うがこれが「出産と育児は仕事上でのキャリアよりも大切だ」という主旨であれば私は90%賛成する。子供を育てることと自分を育てることはほぼ等価値だろう。
 私は基本的に個人主義者であり自分の行動は自分で決めるべきだと考える。他人からとやかく言われたくない。だからこそ合理的な選択を可能にする社会制度があるべきだと考える。
 人生で大切なことは無数にある。思い付くままに列挙しても①学問・学術②芸能・スポーツ③趣味・娯楽④結婚⑤育児⑥就業とキャリア形成⑦良き家庭⑧親族の介護⑨社会貢献⑩交友、そして女性固有の出産など無数に挙げられる。
 これらに順次あるいは並行して対処できるのであれば問題は発生しない。二者択一あるいは三者択一を迫られるから困らされる。
 ①と②は選択肢から除外しても良かろう。これらで卓越した才能を持つ人であれば他を犠牲にしてでもこれらに専念するだろう。稀に、有り余る才能に恵まれながらそれを放棄して平凡とも思える人生を選択する人がいる。例えば、人気絶頂期に僅か21歳で引退した山口百恵さんなどがその典型だが、こんな選択は本人にしかできない。
 人には様々な適齢期がある。明確な適齢期も曖昧な適齢期もあり、優先すべきなのは明確な適齢期だ。しかし困ったことには、現代社会においては適齢期が20~25歳に偏り勝ちだ。④⑥⑩や出産などの適齢期が重なっている。どれを優先すべきかは個人の選択に委ねることが基本だが、変更可能な人為的適齢期よりも変更不可能な動物的適齢期を優先すべきだと私は考える。つまり20~25歳で出産することが動物として好ましいという事実を尊重して社会制度はそれを支援すべきだと考える。
 しかし現実はそうなってはいない。社会制度が備わっていないばかりかそれを妨害する仕組みばかりが充実している。日本の企業は若い新卒者を採用したがるから若年期に出産などしようものなら職業選択の自由を奪われてしまう。ここで前代未聞とも思える奇妙な提案をする。大学生に無期限の出産・育児休暇を与えることだ。高校と大学では学ぶ内容が全く異なるから、専門課程に入る前の休暇であれば学問が中断されない。育児の目途が立つまで育児休暇を取得してから彼女のキャリアは始まる。
 勿論こんなことだけで問題が解決できるとは思っていない。出産と仕事の両立は大変な難題であり、女性が活躍できる社会を作るためには女性の多様なライフスタイルに対応できる様々な支援策が必要だと私は考える。託児所さえ充実すれば解決できると思っている人こそ問題を甘く見過ぎている。出産経験のある女性労働者に対する諸手当や定年延長などがあっても良いと私は考える。特定のライフスタイルの女性だけを優遇するのではなく、出産と仕事の両立を図ろうとする様々な女性の多様なニーズに応え得る多彩な支援策が設けられるべきだろう。

味覚障害(3)・・・卵

2016-03-17 09:57:09 | Weblog
 旨味を知覚できなくなったことや野菜の味が分からなくなったことと比べれば些細なことだが、卵の味も知覚できなくなってしまった。奇妙な表現だが、合成された卵味なら知覚できるのに本物の卵を食べても卵の味を感じなくなった。つまり、カステラを食べれば卵の旨みを感じられるのに卵料理を食べても卵の味がしない。様々な玉子焼きや錦糸卵、あるいは卵かけご飯も試してみたが、一向に卵の味がしない。卵の風味を味わえるのはカステラなどの卵菓子を食べた時だけだ。
 確かにカステラには卵が使われているからカステラを食べて卵の味を感じても当然だろう。しかし卵そのものを食べても感じない私がカステラを食べて感じる「卵の味」とは一体何なのだろうか。多分、化学的に合成された卵風味でありこれが卵以上に「卵らしい味」になっているのだろう。私は本物の卵では卵の味を知覚できないのに、人工香料と化学調味料によって作られた「卵味」なら知覚できるという情けない味覚を獲得させられてしまった。
 私には卵に対する特別な思い入れがある。卵ほど安くて旨くて栄養価の高い食材は他に無いと今でも考えている。貧乏な大学生時代も卵だけは欠かさなかった。生卵だけを持参して生協で卵かけご飯を食べたり、鮮度の落ちた卵なら何個も茹で卵にして食べたものだ。インスタントラーメンは勿論のこと、ちょっと贅沢をして野菜炒めを作る時にも必ず卵を入れた。
 こんな万能食材とも思える卵だが当時から謂われ無き中傷に晒されていた。「コレステロールが増えるから卵を一日に2個以上食べてはならない」と多くの人が信じていた。幸いなことに大学生の私は大学の図書館を利用してこれが根も葉も無いデタラメであることを知ったが、周囲の人々はマスコミまでがグルになって報じる卵有害説を疑おうとはしなかった。厚生労働省が卵の摂取制限を解除したのはそれから四十余年を経た昨年のことだ。しかし彼らは自らの誤りを積極的に告知しようとしないから多くの人々は今尚、卵の摂食制限を信じている。このことが、私のマスコミや官公庁に対する不信の原点ともなっている。
 「アメリカの夜」というフランソワ・トリュフォー監督の映画がある。この作品の英語でのタイトルは`Day for Night'でありハリウッドで多く使われる技法を皮肉っている。それは、夜に撮影するよりもカメラにフィルターを付けて昼間に撮影したほうが「夜らしい」映像が得られるという技法だ。本物よりも贋物のほうが高く評価される社会に私は憤るが、私自身が贋物の卵風味を本物の卵以上に卵らしく感じる体質になってしまったことを嘆かずにはいられない。鏡に映らない妖怪や幽霊の話はしばしば耳にするが、私は鏡に映った映像でしか外部を認知できない化物に改造されてしまった。

味覚障害(2)・・・野菜

2016-03-16 09:57:01 | Weblog
 グルタミン酸を塩味としか知覚できないことの次に困ったのは、野菜に対する味覚が損なわれたことだった。入院直前の私の主食は医師から処方された栄養飲料とそれを補完するための野菜ジュースだった。退院後も徐々に固形食を増やしつつこの2つの飲料には頼る積もりでいた。ところが思わぬ大誤算が生じた。味覚障害のために野菜ジュースが不味くて飲めなくなった。それまではバランスが取れていた筈のジュースの味が、セロリの臭さだけが際立つ奇妙な味に変わってしまった。セロリの臭さは50年前に初めてセロリを食べた時に感じた不快感に類似しており、突然50年振りの古い印象が蘇った。
 考えてみればセロリの味も野菜ジュースの味も決して単純なものではない。様々な味と香りが複雑に絡んでいる。その複雑な味の大半が消されて最も不快な味だけが知覚されるようになったように思える。
 なぜか野菜は、セロリに限らずどれにも独特の臭みがある。ニンニクは勿論のことネギ類もピーマンなども臭い。野菜とは実は臭い食べ物だろう。大根やキャベツやモヤシなどが万能野菜のように扱われ勝ちなのはこれらが安価であるだけではなく比較的臭みが少ないからではないだろうか。
 野菜ジュースは複雑な味と香りがブレンドされて微妙なバランスを保っている。味覚の一部が損なわれればバランスが崩れてとんでもない味に変わり得る。これはドミソのソが半音狂えば不協和音になるのと同じことだろう。
 外部から伝わる刺激は知覚を通じて統合される。刺激は知覚によって統合されてから初めて伝達され刺激そのものが直接人に伝わることは決して無い。
 無色光は決して無色ではない。太陽光線がプリズムを通過すれば無数の色と紫外線・赤外線に分解される。太陽光が無色であるのは無数の色によって構成されているからだ。青い光が青いのは、青い色素が多いからではなくそれ以外の色素が遮断されているからだ。
 同じように様々な味と香りによってバランスが保たれていたセロリや野菜ジュースの味は、一部の味覚が損なわれることによって酷い味へと変貌し得る。だからこそ嗜好は千差万別・人様々になる。
 野菜をとてつもなく不味く感じるようになったのは、もしかしたら狂いではなくリセットなのかも知れない。野菜とは元々最も不味い食べ物であり「食育」によって押し付けられた歪んだ嗜好なのかも知れない。もしそうであれば野菜を味わえる状態に戻ることはかなり難しそうだ。味覚が狂った人間の勝手な言い草かも知れないが、あれほど雑多で癖の多い野菜を同時に多品種摂取して不快に感じないことこそ不自然と言えるのではないだろうか。

味覚障害(1)・・・旨味

2016-03-15 09:50:42 | Weblog
 抗癌剤の副作用によって私が患った味覚障害は少なからず哲学的な意味を持つ障害だ。人が外界を知るためには知覚というフィルターを通さねばならず、それが狂えば外部認識も狂う。
 入院するまでの約2週間、固形物を一切食べなかった。吐血することを恐れて、医師から処方された栄養飲料と野菜ジュースと水だけに依存していた。この節制が功を奏して入院後の2日間は、決して旨くない病院食を完食できる程度まで自然治癒していた。
 3日目に異変が起こった。抗癌剤の副作用による食欲不振と共に、全く予想しなかった味覚障害が生じた。最も顕著な障害は、和食の味を感じなくなったことだ。ご飯や吸い物や煮物などの「旨み」が全く分からない。辛うじて果物と乳酸菌飲料と、なぜかカステラの味だけが知覚可能であり、他の食品はまるで粘土細工のように感じられた。
 食欲が無く味覚も狂ったままで病院食の摘み食いを続けている内に、動物系のイノシシ酸は比較的正常に知覚できるのに植物系のグルタミン酸が知覚できなくなっているようだと分かった。障害は基本的に引き算として現れる。つまり「できなくなる」。何かを知覚「できなくなった」り、明らかに異なるものが区別「できなくなる」。
 この仮説を検証すべく、退院後に「味の素」を舐めてみて仰天した。味の素は塩辛かった。そんな馬鹿な、と思った。間違えて「味塩」を舐めているのだとさえ思ったが間違いなくグルタミン酸ナトリウムだった。
 私の狂った味覚は、グルタミン酸と塩化ナトリウムの2者の味を混同するようだ。だから昆布出汁を塩味と知覚する。本来なら旨みとして知覚すべきグルタミン酸を塩味として知覚すれば、和食の殆んどが単に塩辛いだけの料理になってしまう。
 私の場合は抗癌剤の副作用によって味覚が狂わされたことによる異変だが、赤緑色盲の人が赤と緑を区別できないように、先天的にグルタミン酸を塩味と知覚する人がいても不思議ではない。グルタミン酸の旨みを知覚できない西洋人は決して少なくないらしいが、彼らが私の狂った味覚と同様にグルタミン酸を塩味と知覚するのなら、和食などただ単に塩辛いだけの料理に過ぎない。 
 和食を世界に誇るべき食文化と信じることは日本人の独り善がりに過ぎないのかも知れない。

hospital

2016-03-14 09:54:13 | Weblog
 東京オリンピックのキーワードの1つである「お・も・て・な・し」に当たる英語はhospitalityで、この語源はhospitalだと言われている。しかしこれは疑わしい。病院は快適な場所ではなくかなり不快な場所だからだ。治療であれ検査であれ苦痛以外の何物でもなかろう。
 hospitalは隠語だと思う。「何か」を隠蔽するために使われた言葉だろう。丁度、便所を「お手洗い」と呼ぶように。ではhospitalは何を意味するか?多分、「慰安所」だろう。衛生や管理のために戦場の慰安所の多くは野戦病院の傍に設置されそれを指す隠語としてhospitalという言葉が用いられたのではないだろうか。
 戦場における性欲処理について詳細に記した書物は見当たらず、以下は殆んどが憶測に基づくが、主な方向性として「現地調達」と「自前手配」に分類できるだろう。
 戦国時代を舞台にした時代劇では兵士が農家に乱入して女と食料を略奪するシーンがしばしば描かれる。多分これが根源的な現地調達だろう。その一方で前線基地や砦に対して中央から何らかの娯楽や享楽が提供されることがあるだろうし、その場所が常設されることになればそこが慰安所になる。
 自陣にいる軍隊に対する慰安は自前で提供できるが、敵陣まで赴いた軍隊を慰安することは難しい。敵陣にいる限り味方による性的支援など期待できず、自ずから自力による調達に頼らざるを得ない。言い換えれば自衛軍なら自前の慰安組織を持ち得るが侵略軍であれば現地調達に頼るということだ。
 独立戦争以外は殆んどが侵略戦争であるという世界に類を見ないユニークな国家であるアメリカは、軍のために本格的な慰安施設を持ったことが無いと思える。日米戦争後の進駐軍(占領軍)にせよ、現代の世界各国の米軍基地にせよ、米軍が駐留すれば婦女暴行の嵐が吹き荒れる。彼らを野放しにはできないから各国の政府は米軍のための売春施設を作ることを強いられる。フィリピンやタイなどのゴーゴーバーは明らかに米兵から市民を守るための防波堤であり、そこでの公用語は英語だ。
 日本の軍隊がいつから自前の慰安組織を備えるようになったのかはよく分からない。日清戦争や日露戦争の時点では到底そんな余裕は無く、多分、日中戦争時の満洲で始まりそれが各地に広がったと思える。
 これと全く異なるのがインドネシアの慰安所であり、当時植民地支配をしていたオランダの民間人に売春を強制させたと伝えられている。この関係者は戦犯として処刑されたためにこの件の真相は2025年に裁判記録が公開されるまでは謎のままだろう。
 自前の慰安所を知らないのは多分、世界中でアメリカ軍だけだろうが、このことは決して彼らの道徳レベルが高いからではない。防衛戦の経験が無いから現地調達によって性欲を充たし続けているだけだ。

恐怖の抗癌剤

2016-03-11 20:44:54 | Weblog
 抗癌剤が猛毒であることは広く知られているが自分自身が当事者になることによってその思いは一層強くなった。
 薬は薬効が無ければならない。少なくともそのデメリットに優るメリットが無ければならない。その原則が通用しないのが抗癌剤だ。癌細胞を縮小させる、あるいは拡大させない、または拡大の速度を遅れさせれば薬効があるとされている。最後の「遅れさせる」は曲者だ。もしその癌が猛烈な速度で増殖するなら遅れさせることも必要だが大半の癌の成長速度は意外なほど遅いのだから「遅れさせる」効果しか持たない抗癌剤が有効とは思えない。抗癌剤が癌の成長を遅れさせることなど問題外の早さで体の正常細胞は劣化させられる。
 入院直前まで私は元気な病人だった。固形物を自粛していたから体重は減りつつあったが、毎日1㎞以上を泳ぐという日課は守っていた。ところが抗癌剤による治療が始まるや一挙に病弱者になってしまった。一日にせいぜい2・3時間しか起きていられずあとは寝たきりに近い状態だ。全身の疲労感が激しくパソコンの画面を30分以上見続けることさえ辛い。
 比較的元気だった老人が寝たきりに近い状態になるのだから元気でない老人が抗癌剤の攻撃を受ければ一溜りも無かろう。私自身、全く認識不足だったのだが、抗癌剤の毒性はかなり長く持続するようだ。退院後10日以上経つが症状は一進一退を続けている。こんな体調のままで2回目の抗癌剤治療を受ければ本当に寝たきり老人にさせられかねない。そんな状態での延命など無意味だから私は抗癌剤治療の中止を申し入れた。
 結局、医師に説得されて22日から再度抗癌剤治療を受けることにしたのは、抗癌剤治療は次回限りでその後は放射線治療に切り替えるという言葉質を取ったからだ。
 体力・気力だけではなく知力も思考力、あるいは味覚を含めた中枢神経まで劣化しているために思うように表現できずのもどかしい思いをしている。これはあくまで病人による不本意な中間報告だ。