俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

徴候

2016-09-30 09:54:21 | Weblog
 25日(日)の夜、肺炎で病院の救急外来に駆け付けたが、病気に対してこんな下手な対応をしたのは初めてだ。夜になってから苦痛に耐えられなくなって医師や薬剤師などを振り回すなど全く恥ずかしい話だ。常識ある人間なら昼間の内にもう少し対処しておくべきだったと反省している。しかしいい歳をしてこんな失態を演じたのは全く理由が無いままではなく多分2つの特殊要因が絡んでいる。1つは癌と癌治療による体質の変化であり、もう1つは鎮痛剤の常用が招いた体内のセンサー機能の劣化に気付かなかったことだ。特に後者の影響が大きかったように思う。
 肺炎の徴候は17日(土)辺りから現れていたようだ。喉の調子が悪く会話にも不自由するほどだったが、私は健康だった頃と同じように放置した。自然治癒力を過信していたからだ。ところが20日(火)辺りから微熱が出始めた。しかしこれも放置した。25日(日)になって38℃越えが出るようになってから初めて焦るという泥縄ぶりだった。
 今から考えれば17日の時点からこれら以外にも肺炎の徴候があった。何度も訪れた気付くためのチャンスを悉く見逃してしまったのは癌発症以降に私の体に生じた体質の変化を軽視したからだろう。
 癌が発症するまで私の体は大切に扱われていた。放置していたことがなぜ「大切に扱った」という評価に繋がるのか疑問に思われるかも知れないが、対症療法を避けることはほぼ確実に有益だ。治療効果の無い対症療法薬による副作用が病気そのものに加わることと比べれば、病気に罹ってもそれに手を加えずに放置したほうがずっと良いのは当たり前だろう。
 私の体は免疫力の低下だけではなく警報センサーまで劣化していた。免疫機能が充分に働かなければ微熱や軽度の不快感などを通じたセンサーの機能も鈍くなる。だから免疫力の低下が原因になって危機感知力も低下する。それだけでは済まない。鎮痛剤が痛みや発熱を誤魔化してしまうから私の体のセンサーはズタズタ・ボロボロの状態になっていた。こんな状況では病に対して多少神経質になる程度では全く不充分であり、自分の体が発病し易くしかもそれを感知しにくくなっていることを自覚してそれなりに慎重な生活を心掛けねばならない。
 薬の副作用はまるで「風が吹けば桶屋が儲かる」の喩え話のように無限に連鎖する。そればかりではなく薬は他者にまで感染する。少なくとも環境を汚染する。薬は最も身近にある毒物だ。食品添加物の毒性とはレベルが違う。
 

できないこと

2016-09-29 10:25:48 | Weblog
 私の記事は科学・医学・哲学に対する批判が多い。それはこれらがいい加減な学問ではなく最も真面目に取り組まれるべき学問だからだ。これらと比べれば経済学や工学などの重要性は低いから多少歪められても許容できる。しかし本来特に優れた学問であるべき科学・医学・哲学が歪められることは許し難い。
 西洋の学問は哲学と神学から始まったと思っている。その後神学が衰退する一方で哲学は深く根を降ろすと共に広く枝を張り広げて学問の主流を歩むようになった。数学も科学も自然哲学から派生したものであり、医学は自然哲学(科学)的手法に基づいて築かれた実学だ。
 私が最も激しく攻撃するのは偽科学と偽医学だ。それらの有害性が高まるのは、できないことをできると偽ることが主因となり勝ちだ。それは哲学が類似した失敗を犯すことによって学問としての存続の危機を招くという不名誉な行動の先駆者でありその恥ずかしい経験を有効活用すべきだと考えるからだ。かつて哲学は、理性に可能な限界を超えた超越論によって全く無意味な形而上学を肥大させてしまった。カントが「純粋理性批判」を著わしてこれらを否定していなければ、哲学は今も尚こんな空理空論を弄んでいたかも知れない。科学と医学に対する批判もまた可能な範囲を極力明確にすることから始めるべきだろう。
 医学においては既に内部から独自の見直しが始まっている。EBM(Evidence Based Medicine)つまり「根拠に基づく医療」が狙っているのは正しい情報分析に基づく医療だ。従来の医療がKKD(勘と経験と度胸)に頼っていたことを反省して統計的手法に基づく科学的な治療が目標にされている。
 基本的にはこの活動は有益かつ有効であり、医学の進歩に繋がり得る。しかし科学と数学に対する無理解のために科学と同じ失敗を続けつつあるのが恥ずかしい現状だ。それは科学的事実の多くが因果関係ではなく相関関係に過ぎないということに対する無理解だ。事実があくまで統計的事実に過ぎなければ事実が持つ意味も変わる。そのことに充分に注意しなければ相関性に過ぎない事実を因果性と思い込んでEBMそのものがオカルトに変質しかねない。プラシーボ効果やただの偶然に基づく相関性を真の因果性と見なすべきではない。
 哲学においては冷静な議論が当たり前で学者同士で議論をするから議論の技術もマナーも心得た大人による会話が可能だ。しかし科学においてはド素人や悪人まで参入する。だから科学技術を利用して一獲千金を狙う人も混じる。彼らが誇大広告を乱発するから科学も医学もオカルトによって穢されてしまう。既に侵入した害虫を駆除することは難しいが、できないことをできると詐称する詐欺師を徹底的に追い詰めて、学問と商売の両方から一刻も早く永久に追放する必要がある。
 科学と医学は俗世間から隔離して純粋な学問として培養したほうが良いのかも知れない。しかし折角民間利用が大いに進んでいて多くの民間人がその恩恵を蒙っているという事実があるのだから学問であるのと同時に民間人のために役立つ実学という立場も必要だ。丁度哲学が学問であるのと同時に高尚な市民のための教養であることと似ている。

落ちこぼれ

2016-09-28 09:59:06 | Weblog
 情報や知識の不足は誰にでも日常的に起こり得る。その際、人は様々な対応をする。最悪は不足しているという事実にさえ気付かないことだ。人の知覚には分断された情報の隙間を自動的に埋めようとする癖がある。だからこそアニメやパラパラ漫画が動いているように見える。それと同じように、知らないことを嘘や憶測によって埋めようとする。昔はこんな人しかいなかった。情報源が限られていたから庶民には宛てがわれた以上の情報は無く、人々は勝手に推測して独断を繰り返していた。マスコミがダイオキシンとか環境ホルモンとかいった訳の分からない化合物について報じれば大衆は無条件にそれを信じ勝手に尾びれを付けて過剰に怖がったものだった。
 しかし科学情報なら幾らでも検証することができる。関係する書物は無数に出版されているからだ。少し調べるだけでマスコミによる騒動が空騒ぎであることが分かる。意外なことだが、最も検証し易いのは科学情報だ。最も簡単に検証できる科学情報でさえ調べようとしない人は、政治・経済・社会といった調べにくい情報についてはマスコミ情報を鵜呑みにして、多少の矛盾など気にしない。不足している情報は推測や憶測やデマによって埋められる。
 ネット社会になってこの辺の事情は激変した。若い世代は分からないことがあればすぐにスマホで検索する。答を探すまえに少しぐらい考えたほうが良いと私のような旧世代人は考え勝ちだがそれが彼らの常識だ。答は考え出すものではなく見つけ出すものと位置付けられるようになった。私とは大いに異なるスタンスではあるが迷信や憶測のような不確かなものを信じず正しい情報を求めようとする姿勢は充分に評価できる。
 天気予報が外れたと愚痴をこぼす人は少なくないが、彼らはいつ取得した予報が間違っていたと怒っているのだろうか。多くの人は前日か前々日に発表された情報に文句を言っている。天気予報は刻一刻修正されており、どんどん正確な情報になる。だから1時間前の情報であればその正確性はほぼ100%に近い。もし情報を頻繫に見直していれば間違った情報を信じる可能性など殆んど皆無になる。
 勿論、数日前に立てねばならない計画もあるからこの場合は天気予報に裏切られる可能性もある。しかし文句を言っている人の多くは当日の天気に対する不満だ。洗濯物を干したまま外出して雨に会った人だ。彼らは直前のチェックを怠っている。社会は便利になっているのにそれを活用しないから自分だけ不便を強いられている。己の怠慢が招いた結果を他人の責任にすべきではない。
 天気予報と同じように、自らによる情報チェックを怠って他者に怒る人は少なくない。情報社会の落ちこぼれの人の多くが自らの怠慢のせいで情報不足に陥っておりその責任を他人に押し付けて怒っている。情報を求めるという行動は自己責任の元で行うべきだ。正しい情報を得るための努力を怠って損をすることは、現代のような情報社会においては自業自得に当たる。これを他人の責任にはできない。

沈黙の病

2016-09-27 09:58:36 | Weblog
 一昨日(25日)突然病状が悪化した。朝起きると右胸が痛み、当初は筋肉痛かと思ったがどうやら内臓が原因らしかった。日曜日でなければ迷わずに医師に頼るところだがどこも休診なので、それまで常用していた鎮痛剤を目一杯飲んで誤魔化そうとした。しかし全然治まらず夕刻には38℃台まで体温が上がった。この時点で初めてこれが肺炎だと確信した。
 食道癌を患って以来、頻繁に肺炎を起こすようになった。食道の癌が肺まで浸潤しており、放射線治療の際にそこに穴を開けてしまったらしい。ステントの装着によってこの穴が塞がっていると思っていたが小さな穴が残っているようだ。
 苦痛の原因が肺炎と分かれば対処方法は全然異なったものになる。食道癌の苦痛は鎮痛剤で誤魔化すことしかできないが、肺炎であれば抗生物質によって治療できる。治療可能な苦痛を対症療法で誤魔化したり苦痛に耐えることは全く不合理だ。市販の抗生物質を入手しようとして薬局に電話をしたところ、そこから医師を経由して紹介状を得、病院の救急外来での受診が可能になった。診断結果はやはり肺炎であり、数日前から発症していたとのことだった。
 思い当たる節がある。22日(火)頃から体調不良だったからだ。私はこれをいつもの癌による痛みと誤解して鎮痛剤で押さえようとした。私がそう思い込んだのは病気のシグナルが隠されていたからだ。肺炎に罹れば高熱が出る。ところが24日まではせいぜい微熱程度だった.だから肺炎の可能性を考慮しなかった。これが薬の落とし穴だ。鎮痛剤が熱を下げていたために発熱という警鐘が私に届かなかった。
 私の誤解もある。総合感冒薬に代表されるように、市販薬は様々な成分をブレンドしている。だから多少的外れであってもそれなりに効く。その一方で医師が処方する薬はピンポイントで効く。私は常用している薬を鎮痛剤と思い込んでいたが実は鎮痛解熱剤でありそれが肺炎による発熱を抑制していた。
 私が薬を避けようとする理由は主に3つある。①薬に対する耐性が高まり徐々に効きにくくなる②副作用③発熱・痛みなどのセンサー機能の低下、だ。
 今回肺炎に気付かなかったのは発熱が抑えられたからだ。今のところ露呈はしていないが、痛みを抑えることによる弊害はいつ現れても不思議ではない。だから私のような治療不可能な患者以外はこんなその場凌ぎの薬に頼るべきではない。今回のケースでは治療可能な病気の兆候が抑えられてしまったために対応が遅れて悪化させてしまった。対症療法薬の多くは症状を知覚しにくくするだけであり警報器の電源を切ってしまうようなものだ。知覚されにくくなった病気は音も立てず沈黙したまま進行する。鎮痛剤(実は鎮痛解熱剤)を常用していなければもっと早い時期に肺炎であることに気付いて早期治療をしていただろう。対症療法薬は病を沈黙させるだけであり病気の進行を妨げない。独裁者による言論弾圧のようなものだから効果は持続しない。

地域間格差

2016-09-26 09:55:02 | Weblog
 昭和30年(1955年)にこんな歌が流行った。「♪田舎のバスはおんぼろ車。タイヤはツギだらけ窓は閉まらない。(中略)デコボコ道をガタゴト走る。♪(中村メイコ「田舎のバス」)」
 本当にそんなポンコツ車が走っていたかどうか覚えていないが道路がデコボコだったことは確かだ。剛腕の田中角栄代議士のお膝元の新潟では田んぼの畦道まで舗装されていると聞いて心底羨ましく思ったものだ。
 国鉄(日本国有鉄道・現JR)も東京優先であり地方の電車は中央からのお下がりが大半だった。山手線の電車として役割を終えた電車が大阪市内を走っており、関東の鉄道マニアは懐かしい車両を撮影するために阪和線などに遠征していた。
 関東以外でホームドアを見掛けることは殆んど無いが、関東の小さな駅のホームで事故があればすぐにホームドアの必要性が騒ぎ立てられる。関西にはそれらよりも乗降客数が遥かに多い駅も沢山あるがマスコミは関東にばかり注目する。待機児童が多いからと東京の託児所の充実の必要性が騒がれるが児童の待機率は決して高くない。それどころか地方都市にはまともな託児所さえ殆んど無い。沢山あるのは都会から溢れた老人を預かる老人ホームばかりだ。地方とは都会のための姥捨て山なのだろうか。
 そもそも待機児童ゼロは達成不可能な目標だ。仮に量が足りても質の問題が絶対に残る。そして質の問題は限り無くエスカレートする。託児可能時間とか自宅・駅・職場の3者との距離とか料金とか、幾らでも高望みをするから、当選しても辞退する人が増えるばかりで待機児童が無くなることは無い。これは失業率ゼロと同様に、地平線に辿り着こうとするような目標であることぐらい政治家もマスコミも知っているがこんな人気稼ぎが頻繁に行われている。
 今更こんな愚痴を並べ立てるのは昨今の災害で地域間格差を改めて痛感したからだ。東京ではホームドアや託児所のような贅沢な要求ばかりが並べられているが地方では土地の安全やインフラ整備でさえ不充分だ。
 危険な宅地は地方には沢山あるし傷んだ橋や道路も無数にある。これらは「予算が無い」の一言で見送られているが、都会の贅沢な暮らしを多少改めるだけで解決できることが決して少なくない。
 私の住む伊勢市の下水道普及率はこの9月現在で僅か46.5%であり、平成33年度の目標値は58%だそうだ。こんな数字を都会の人は信じられるだろうか。こんな酷い格差の元での地方創生など絵に描いた餅に過ぎない。一体全体どんな人が地方に住みたいと考えるだろうか。都会の高額な家賃を払えない人以外は殆んど皆無なのではないだろうか。こうして貧乏人も地方に輸出される。
 私は田舎で一人暮らしをする母と同居するために里帰りをしたが、これは生涯で最悪の判断だったと後悔している。里帰りをした時点で私の一生は殆んど終わったようなものだった。質的にも量的にも不本意な晩年を自ら選んでしまった。
 
 

娯楽

2016-09-25 10:37:19 | Weblog
 現実の殆んどが当然の結果か不本意な結果に繋がるが、fictionでは最高の結果に繋がる。だからfictionのほうがfactよりも圧倒的に面白い。小説やドラマのようなfictionの市場がfactの市場よりも圧倒的に大きいのはこんな事情があるからだろう。
 プロ野球のペナントレースにおいてセリーグは広島が優勝した。これは否定できない事実だ。しかし他のチームのファンにとってこれは面白くない。ところがfictionにおいてならどのチームを優勝させることも可能だ。事実を認めたくない人は幾らでもfictionの中で優勝の美酒を味わうことができる。
 パリーグは未だ優勝チームが決まっていない。だからその間、日本ハムとソフトバンクのファンは好きなように予想をすることができる。事実が確定しない内は可能性がある限りどんな予想をすることも許される。
 一般に事実は1つだが嘘は無数に可能だ。空想の世界であれば、織田信長が本能寺の変で死なず、中国の明を倒し更にロシアを経由してヨーロッパに至る史上最大の帝国を築いたといった荒唐無稽な話をでっち上げることもできる。
 こんな歴史の大転換ではなく身近なことの妄想ならもっと易しい。空想の中では誰でもヒーローになれる。つまらない日常の裏には波瀾万丈のドラマが潜んでおり、空想の世界を意のままにできる。空想は事実よりも素晴らしい。似顔絵に描かれた姿は写真よりも美しく、事実に基づくnonfictionよりも適度に脚色したfictionのほうが面白い話になる。だからテレビの歴史ドラマは脚色だらけ・嘘まみれになる。
 現実はドラマチックではない。サラリーマンであればいつものように家を出て何のトラブルも無く電車に乗り職場ではルーティンワークに就いて帰宅する。その間、特筆すべきことは何も起こらない。ドラマならそうではない。電車に乗れば別れた恋人に出会い職場ではトラブルに巻き込まれる。たとえ食事中であってもきっと何かが起こる。
 fictionであればこれらの事件が予定調和の如く上手く収束する。作家は読者・視聴者に満足を与えるために原稿を書くから物語は決して期待を裏切らない。
 人は現実に直面しようとしない。現実は醜いしつまらない。大半が期待外れに終わる。
 プラトンは詩人(作家)をアテナイから追放しようとした(「国家」)。それは詩人が面白くて有害な物語を作るからだ。現実を直視するのではなく勝手な空想世界で甘い夢を語るからだ。
 現代人もまた現実を直視したがらない。社会問題に取り組むことよりも空想やゲームの世界で総てが解決されることを望んでいる。fictionの世界で幾ら解決されても現実は何1つ変わらない。
 fictionに浸ることは逃避だ。そんなことで時間潰しをするよりも現実を直視すべきだろう。たとえ娯楽であっても現実を回避すべきではない。現実回避を奨励するfictionは総て有害だ。

健康

2016-09-24 09:48:38 | Weblog
 初夏に受けた健康診断の結果を見て呆れてしまった。総ての検査数値が基準範囲内つまり「健康」と判定されていたからだ。言うまでも無く当時の私の健康状態は既に生涯最低のレベルだった。食べることさえままならず余命1年程度と思える状態であり体力もボロボロになっていた。かれこれ30年間続けていた健康のための水泳を止めたのも丁度この頃だった。明らかな病人が健康時以上に高く評価される健康診断とは一体何なのだろうか。健康診断とは健康状態を見るための検査ではないようだ。死にそうな病人が健康と判定されるのは指標が根本的に間違っているからだろう。
 女性美の基準は健康診断よりも更に酷い。ミイラのように痩せこけた人が美しいと評価される。昔から佳人薄命と言われるのは、美しい人が夭折するからではなく、死にそうな人を美しいと評価するデカダンスの文化が日本を覆っているからだろう。アスリートの健康美こそ美しいと私は考える。
 異存は大いにあるだろうが、美とは他の価値評価に依存するものだと私は考えている。道具の美は機能性に従属し、女性の美は繁殖力に基づく。概して貧困国では太目の女性が、豊かな国では細目の女性が美しいと評価され勝ちだが、日本の場合、美だけではなく健康まで痩せ過ぎの状態の評価が高い。更に言葉まで歪められている。本来食事を意味するdietが減量の意味で、健康を意味するhealthyが低カロリーの意味で使われている。デタラメな言葉がすっかり社会に定着している。
 思想もデカダンス文化の支配下にある。現状や日本文化を否定する人が文化人とされているから、そんな不健全な社会で真にポジティブであろうとする人は常識を否定するニヒリスト、つまり現状のデカダンスの価値を否定する肯定的ニヒリストたらざるを得なくなる。ではなぜ日本人がデカダンス文化に汚染されたのだろうか?GHQによる洗脳が成功したからだろう。
 第二次世界大戦の終結時にアメリカおよび白人社会にとって重大な課題が2つあった。1つは白人による世界支配体制を維持することであり、もう1つは日本が2度とアメリカ等に逆らえなくすることだった。しかし前者はすぐに破綻した。インドネシア、フィリピン、インドなどで独立の気運が高まりアジア諸国は次々に独立を果たした。その一方で後者は成功を修めた。それは原罪意識を日本人に植え付けることに成功したからではないだろうか。
 キリスト教には奇妙な思想がある。アダムとイブが禁断の果実を食べたことが人間の根源的な罪=原罪とされていることだ。この原罪の思想はキリスト教の宗派によっても解釈が異なるほど難解なものであり、キリスト教ではない私にはさっぱり理解できないが、GHQは日本人に原罪に似た意識を植え付けた。日本人であるということだけで罪であり恥であるという自覚が日本人に植え付けられ、それが現在に至っているのではないだろうか。
 一部の民族には「選民思想」がある。こんな自分達だけが選ばれた特別な民族であるという排他的な思想など要らないが、日本人であるということだけで罪と恥を背負わねばならないという考え方は不合理かつ不健全だ。こんな偏見を植え付けられたからこそ次世代を残すことに罪悪感を覚えて人口は減り続けているのではないだろうか。ベビーブームの主役はこんな邪悪な思想を植え付けられる前の世代だった。

道具

2016-09-23 10:12:23 | Weblog
 かつて「♪お前もいつかは世の中の傘になれよと教えてくれた♪(森進一{おふくろさん」)」という歌詞の歌がヒットしたように、「社会に貢献せよ」とか「人様の役に立て」とか割と平気で言われているがこれは有害な理念だろう。こんなことを教え込まれた人は「役に立たねばならない」と考えて自分を役に立つ人間に仕立て上げようとする。もし役に立つ人間になれなければ「駄目な人間」と考えるだろうし、役に立たない人を見れば「人間のクズ」と考える。
 知的障害者大量殺傷事件の植松容疑者はこんな有害な理念を教え込まれてそれを疑わずに実践しようとしたのだろう。しかし如何せん能力が足りなくて一般社会では「役立たず」だった。だから彼でも役に立てる福祉施設に就職した。しばらくの間、彼は役に立っている自分に満足していたことだろう。しかしその内、彼は気付いた。彼が世話を焼いている相手は「役立たず」ばかりだ。こんな役立たずを大勢生かしておくことは「社会にとって有害」だと思うようになった。そして彼らを殺すことこそ「社会にとって役に立つ」行動と確信した。だから彼は理想の実現のために大量殺人を犯した。これは決して狂気による犯行ではない。誤った理想に基づく狂信的な犯行だ。だから彼は犯行後に薄笑いを浮かべていた。その心境は宗教的理想に燃えて異教徒の殲滅を図るテロリストに似ている。
 数年前に奇妙な事件があった。母親が娘の点滴に異物を混入させて病状を悪化させるという事件だ。当時その母親は「代理ミュンハウゼン症候群」という奇病の患者と診断された。つまり献身的な母親を演じることが生甲斐となってその遂行のためであれば肉親に危害を加えることも厭わない特殊な病気とされた。
 これは病気ではあるまい。ただの異常心理だ。家庭内では役立たずであると自覚していた彼女はこんなやり方によって自分の居場所を創造しようとしたのだろう。「役に立たねばならない」という強迫観念が人を狂わせた。自立できない障害者や病人の世話をすることによって辛うじて自分を「役に立つ人」と位置付けようとするからこんな奇妙な事件が起こる。巷では当たり前のように言い触らされている「社会の役に立て」という言葉が歪みを増幅させる。
 この理念のどこが間違っているのだろうか?人を道具扱いしていることだ。自分を社会の役立つ道具に貶めようとするから他人を、まるで自分が役立つための道具であるかのように扱おうとする。道具と道具の関係だからこそ双方の道具がその道具性を最も発揮できる状況が求められる。しかし人は道具ではない。人は意味も目的も無く放り出された存在だ。無理に意味付けをしようとすれば自分も他人も道具に格下げされてしまう。
 虚構は虚構を要請する。元々意味の無い社会を意味のあるものと思い込もうとするから無理が生じる。意味の無いものに意味を付与しようなどと大それたことを企むから嘘まもれにならざるを得なくなる。嘘の上塗りは矛盾を増幅するだけでありいずれ破綻を招く。

不良品

2016-09-22 09:56:59 | Weblog
 「可能性はゼロではない」という戯言のせいでどれほど多くの無駄が世に蔓延っていることだろうか。
 ネッシーや雪男などが存在する可能性は限りなくゼロに近い。こんなくだらないことを騒いでも無駄ではあるが所詮他愛のない嘘だ。人畜無害である限り言いたい人には言わせておいて無視すれば済む。
 問題になるのは、帰納法を使う限り避けられない、今後例外が見つかる可能性はゼロではないという弱点に付け込んだ誇大広告と過剰警戒だ。
 誇大広告は無数にある。最大かつ最悪のものは宗教だ。殉教すれば天国へ行けるという嘘が典型であり、天国という嘘を使って人の命まで奪おうとする。それと比べて殆んどの誇大広告はせいぜい金銭を奪う程度に過ぎない。健康法とか特効薬とか宝くじなどが挙げられる。幸いなことにこれらによる実害は宗教を除けばそれほど大きくない。しかし詭弁の限りを尽くした宗教のテクニックが流用されることによって騙しのテクニックも高度化し洗練されつつある。「買わなきゃ当たらぬ宝くじ」という宣伝文句は歴史にも残りそうなほど優れたコピーであり阿呆でなくても騙されそうなほど良くできている。
 誇大広告以上に過剰警戒が現代社会には蔓延している。「良い」という嘘には容易に騙されない人でも「悪い」という嘘には容易く騙されるのは実に奇妙なことだ。これは「良い」という嘘には商売が密接に絡んでいるのに「悪い」という嘘には利害関係が見えにくいからだろう。悪いという嘘は基本的には物品の販売を目論んではおらず、情報を売ろうとしているからその正体が気付かれにくい。人類史上、情報が商品価値を持った時代はごく短いから人類にはこんな有害物に対する免疫力が備わっていない。
 過剰警戒のネタはそれこそ無数にある。天が落ちる、地が裂ける、水没するといった天変地異は勿論のこと、病気・事故・失業・失恋・不合格等、何でも対象になる。これらの大半は物品の販売を伴わない。売るのは情報だけだ。だから犯人となるのは大半がマスコミだ。マスコミは情報を売るために徹底的に嘘を利用する。
 刑法上の重大な不備もある。不良物品の販売であれば数千年に亘る商業史に基づく商業倫理があり、それに基づいて世界中どこでも通用するような商業道徳が形成されている。ところが不良情報の販売についてはその歴史が余りにも短いこともあり商道徳が形成されていない。このことを図らずも証明したのが朝日新聞だ。
 朝日新聞は長年に亘って「従軍慰安婦の強制連行」という嘘を売り続けた。それにも拘わらず不良品を売ったことに対する刑罰を何1つ受けていないし読者による損害賠償請求にも応えようとはしない。これは現代の刑法では不良物品の販売に対する罰則はあっても不良情報の販売は免責されるということだろう。
 死にかけていたゴシップ週刊誌が急激に蘇ったのは朝日新聞の実例によって、個人に直接危害を加えない限りどんな嘘でも許されるということが証明されたからだろう。情報が今後ますます嘘まみれになると思えば絶望的な気分になる。「可能性はゼロではない」という詭弁を規制するルールを設けなければ情報の世界が今後はとんでもない嘘だらけの世界になってしまう。これは言論の自由のための課題でもある。嘘をつく権利が認められれば言論の場が混沌になり正しい情報が嘘によって埋め尽くされることにもなりかねない。正しい情報は基本的にはただ1つだが、贋の情報のバリエーションは無数に可能であり、しかも幾らでも面白可笑しく加工できる。正しい情報を見付けることが至難になれば言論の自由などあり得ない。

オカルト?

2016-09-21 09:56:52 | Weblog
 昨日は台風16号が私の住む三重県を通過したために、腹痛が治まらない不快な一日だった。こんなことを書けば必ず突っ込みたがる人がいる。「天候と健康に因果関係は無い」と。こんな「科学的な」人が科学の発展の邪魔をする。実際には関係のあることに対して「非科学的」というレッテルを貼って頭から否定しようとする。
 天候によって慢性的な疾病が悪化することは確実な事実だろう。関節痛や頭痛などの増加は単に心理的なものではなく物理的な因果だと思える。それを非科学と決め付ける人がいるから学問の自由が奪われる。「元気がないのは天気のせいだ(俵万智『サラダ記念日』)」は充分に科学的だ。ドイツには健康への影響について論評する健康天気予報もあるそうだ。
 私は地震予知をオカルトと決め付けているが、新月や満月と地震は無関係ではなかろう。潮の干満の原因となる月と太陽は地殻変動にも影響する。偏見に基づいて考慮の対象から除外しようとする姿勢こそ非科学的だ。
 科学には少なからずタブーがある。人種や男女などの能力差について積極的に論じることは憚られている。これは能力の違いを価値の違いと同一視する愚かな人がいるからだ。まるで商品に対するように、人の能力差を金銭的価値に換算しようとする。他人を道具や商品のように見なす人は他人を道具のように位置付ける。自分にとって有用かどうかで評価する。あるいは社会にとって有用かどうかが客観的な価値だと思い込んでいる人もいる。しかし個人は他者によって利用されるための道具などではない。
 男性は女性よりも大きくて力も強い。しかしこのことを根拠にして男性のほうが優れているとは言えない。白人も黒人も黄色人種よりも大きくて力も強い。しかしそれを根拠にしてアジア人を劣等民族と考える日本人はいない。個体差は優劣ではない。差別をするためではなく共存するためにそれぞれの特性を正しく理解すべきだ。
 男性のほうが力が強いからこそ偉そうにするのではなく重い荷物を背負うべきだ。能力の違いを認め合うことによってお互いが快適に暮らせる。そんなことは、お互いが異なるということを認め合ってこそ可能になる。人種の違いも男女の違いもある。事実を知らせまいとする偏見に満ちた人が正当な研究に因縁を付けてオカルトのように扱わせようとする。
 星座とスポーツ、血液型と性格も決して無関係ではない。勿論、星座が人の運命を支配するなどと馬鹿なことを言おうとは思わない。原因になるのは学年分けだ。4月や5月生まれの児童は同級生よりも少しだけ成熟しており、特に低学年においてはスポーツのリーダー的立場を任され易い。だから日本の団体スポーツにおいては4・5月生まれの好選手が多くなる。その原因は星座ではなく学年の区切りだ。入学が暦どおりの1月である国では1・2月生まれのアスリートが多い。
 血液型は実は免疫型であり、病気に対する耐性がそれぞれ異なる。病気に備える姿勢が違えば社会への対応姿勢も変わりそれが性格の違いとして現れ得る。
 現代科学のジャンルから外れる研究をオカルトと決め付けるべきではない。かつてはオカルトだった錬金術は洗練されて化学の基礎となった。精神力によって物を動かす超能力はオカルトだったが、脳波を捕えて義足や義手を動かすことは最先端医療技術だ。事実を拒絶することが文明化・科学化の邪魔をする。