俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

利害相反

2015-08-31 10:26:04 | Weblog
 小学生の頃こんな漫画を読んだ。小学生が将来の夢について語り合った。ある女児が言った。「私は女医になって、絶対に病気に罹らなくなる注射をみんなに打ってあげたい。」男児が突っ込みを入れた。「それじゃ商売にならない。」
 医師が医師であるためには患者が必要だ。患者がいなければ失業する。人が死ななければ葬儀屋の商売が成り立たないように、医師は患者を必要とする。そんな状況で医師は本気で治療や予防に取り組むだろうか。
 サラ金にとって最高の顧客はきっちり返済する客ではなく適度に滞納する客だと言う。返済されてしまえば客との繋がりが途絶えるが、滞納であれば関係が継続するし金利も当初よりも高くなる。最悪は自己破産によって債権を失うことだ。医師にとっての患者も縁が切れないことが望ましい。つまり完治したり死んでしまえば困る。
 医師にとっての理想の患者は慢性疾患の患者だ。現状を維持していれば文句を言わずに通院を続ける。だから医師は治療することよりも悪化させないことに注意を払う。医師にとって困るのは完治・死亡・転院だろう。これが生活習慣病の患者が一向に減らず逆に増え続けている一因だと思う。薬など使わず食事を含めた生活全般を改善すれば大半の患者が快癒するのではないだろうか。しかし医師はお得意様を失いたくない。
 予防においてはもっと顕著だ。予防してしまえば患者がいなくなる。そんなことは絶対に避けたいのが人情だろう。予防など許せない。万難を排してでもそれを阻止しようとするだろう。
 予防も治療も医師にとっては好ましくないことだ。しかし予防も治療も医師が任せられている。これは暴力団に警察権を預けるようなものではないだろうか。自分が損をすることに熱心に取り組む筈が無い。
 治療はともかく、少なくとも予防医療は医師に任せるべきではなかろう。栄養士などの治療に携わらない人による健康指導があるべきではないだろうか。慢性疾患の患者も医師による支配から逃れられればもっと健康になれるだろう。医療機関ではない公営の「健康指導センター」のような施設があって、薬に頼らない健康改善指導が行われれば良いと思う。

総合判断

2015-08-31 09:49:18 | Weblog
 カントの主著「純粋理性判断」は「いかにして先験的総合判断は可能か」がテーマだ。残念ながらそれは必ずしも成功しなかった。私はこの本に感動したが、それは主に「二律背反」に基づく理性の限界論だ。現象界に留まり知覚に依存する理性は、経験不可能な無限や永遠について知り得ないという論理に目から鱗が落ちた思いがした。それまで幾ら考えても矛盾に陥って悩み続けていた永遠や無限について考えることが理性による僭越であったと知らされて、その後は思考可能な領域に絞って考えるようになった。これが私の俗物化の原点だ。
 厳密な総合判断は不可能だと思っている。確率的に正しい総合判断が可能な限界だろう。だから私は確率や可能性に拘らざるを得ない。
 分析判断が常に正しいのは命題そのものに答えが含まれているからだ。例えば「私は医者になれない」と「私は天皇になれない」は命題の形式は似ているが質的に異なっている。前者は誤っているかも知れないが後者は分析判断だから必ず正しい。
 前者を否定することは簡単だ。これから医学部に入学して国家試験に合格すれば済むことだ。ところが後者を否定することはできない。「私」にも「天皇」にも特殊な意味が含まれているからだ。私は天皇家の一族ではないから天皇になるための資格を欠いている。もし何かの間違いで私が日本の独裁者になっても就ける地位は王が精一杯であり天皇にはなれない。偽天皇か天皇紛いに過ぎない。それは「天皇」の定義に基づく。中国の皇帝のように易姓革命が認められている訳ではない。
 歴史を繙けば、継体天皇か天武天皇で王統が変わった可能性がある。しかしそれを今更証明できないから、少なくとも今後の天皇の座には天皇家の一族しか就けない。従って先の命題は分析判断であり必ず正しい。
 総合判断はどう足掻いても帰納的にしかその正しさを証明できない。万有引力の法則のようにその可能性が極めて高い場合か、この天皇論のように総合判断を装った分析判断であれば演繹も可能だが、総合判断である限り例外の存在から免れることはできない。
 既に起こったことの総てに事象性(現実性)があり、未だ起こっていないことは可能性(非現実性)に過ぎないといった幼稚な現実主義を退けるためには確率論が必要になる。偶然と必然は明確に区別できるものではなく、黒と白の間にグレーがあるように、可能性としての無限のグラデーションが存在する。可能性が高いと考えられていたことが現実になれば必然と評価され、可能性が低い筈のことが起これば偶然と評価される。100%確実な必然性や完全な因果性はあり得ない。野球やサッカーのボールならどう跳ねるか予測可能だが、ラグビーのボールの跳ね方を予測することはできない。

子供の自転車(2)

2015-08-29 10:09:14 | Weblog
 「子供は自転車に乗るな」とまでは言わないが、子供の自転車が危険であることはもっと理解されるべきだろう。子供は心身共に、自転車を安全に運転する能力を欠いている。厳しい指導が必要だ。
 小中学生は肉体的に未熟だ。運動能力が充分に発達していないからバランス感覚も悪くすぐに転ぶ。握力も弱いからブレーキを掛ける力も足りない。運動能力が乏しい分スピードを出せないのなら良いのだが、危険なのは下り坂だ。子供は極力ブレーキを掛けずにスピード感を楽しもうとする。多分、子供の自転車事故は下り坂で多発しているだろう。
 精神面の未熟さも危険を増幅する。子供はすぐに物事に夢中になって周囲が見えなくなる。横並びで走っていても仲間の方に注意が向かうし走行中にスマホを使えばそれ以外は見えなくなる。
 最も危険なことは道路交通法を知らずしかも遵法意識も乏しいことだ。平気で信号無視をするし必要な一時停止も怠る。子供に多くを要求してもどうせ守られないのだから、歩道走行のルールとマナーだけでも徹底的に叩き込むべきだと思う。
 一番初歩的なことは、歩道が歩行者優先であることだ。子供はなぜか「早いほうが偉い」と思い込んで歩行者を邪魔者扱いする。最低限この勘違いを正さねばならない。
 次に重要なことは歩道の車道側を走ることだ。多分、歩道上での自転車事故の大半は、建物側を走っている時に起こっているだろう。対歩行者・対自動車において、車道側を走ることによってどれほど安全性が高まるかを理解させる必要がある。
 もう1つは追い抜きだ。子供は歩行者を追い抜くことの危険性を知らない。歩行者は歩道上の車両を想定していないから突然左右に動く。すぐ横を摺り抜けようとしていれば追突してしまう。
 子供のほうが大人に優っているのは、飲酒運転の可能性がほぼ皆無であることぐらいしか無かろう。
 これらを実践できない限り、子供が自転車に乗ることを許すべきではなかろう。親だけではなく学校も責任を持って小中学生に教えるべきだ。学業成績よりも交通安全のほうが重要だろう。

根拠

2015-08-29 09:32:21 | Weblog
 根拠に基づいて信じていることを否定するためには根拠を否定すれば充分だ。しかし根拠を持たずに信じていることを否定することは不可能だ。天動説であれ創造(反進化論)であれ、こんな迷信を信じている人はどれだけ証拠を示されても頑なだ。
 医療においてもそんなオカルトが沢山あった。運動中は水を飲むなとか傷を消毒しなければ化膿するとか卵を1日に2個以上食べたらコレステロール値が上がるなどだ。消毒信仰は今尚、根強く、小学校の保健室で、擦り傷の児童に水洗いを施せば「消毒をしないことは職務怠慢だ」と怒鳴り込む親が少なくないらしい。それに対応するために学校では「まほうのみず」を用意しているそうだ。実はこれは水道の水をペットボトルに入れて冷やしただけのものなのだが、水道水で洗えば怒る親も「まほうのみず」なら納得するらしい。やはりオカルトに対応するためにはオカルトが最善手であるようだ。
 風邪の治療薬が無いことを多くの人が知っている。風邪の治療薬を作ればノーベル賞が貰えるとまで言われていることも広く知られている。それにも拘わらず医師が処方した対症療法薬や市販の総合感冒薬で風邪が治ると信じている。これは明らかに矛盾した行動であり知識と知恵が乖離している。
 宗教の弊害はもっと大きい。自分が信じている宗教だけが正しい宗教であり他の宗教は邪教と信じて異教徒の殲滅を企む。邪教徒を皆殺しにしても構わないと聖書に書かれているからだ。
 迷信に支配されている人は事実を知りたい訳ではない。自分が持つ歪んだ信念を正しいと保証して欲しいだけだ。だから彼らに幾ら事実を伝えても迷惑がられるだけだ。元々彼らは事実を知ろうなどとは思っていない。彼らが求めるのは安逸と平穏だ。彼らの迷信を暴くことは、結婚詐欺師に騙されそうな人を救おうとするようなものだ。せっかく良いことをしても「幸せを奪われた」と逆恨みされかねない。
 事実を知り得るのは事実を知ろうとする人だけだ。多くの人は事実を知って混乱するよりも現在のままでの安逸を求めるから事実を拒絶する。イデオロギーに凝り固まった人はどんなことであってもイデオロギーを守るために曲解して利用しようとする。凄まじい力で捻じ曲げるだけの知恵は持っているのだが、こんな人々と議論しても虚しいだけだ。「話せば分かる」訳ではない。

注意報

2015-08-27 10:26:01 | Weblog
 昨日(26日)昼のNHKのニュースでの三重県の天気予報には呆れた。天気予報では一日中曇としておきながら三重家県のほぼ全域に大雨注意報を出していたからだ。当たり前のことだが大雨の可能性よりも雨の可能性のほうが高い。雨と予報せずに大雨に対する注意を促すとは一体何を考えているのかと思った。結果としては、伊勢ではごく短時間、小雨が降っただけだった。これは万一大雨が降った場合に備えた責任回避なのだろうか。そんな無責任な予報をしていればイソップ寓話の狼少年のようになりかねない。
 こういう論理的に誤った告知は意外としばしば見受けられる。こんなパズルをご存知だろうか?
 A氏は大学の哲学科を卒業してサラリーマンになった。彼は定年退職後どう暮らしているだろうか。最も可能性が高いと思うものを選べ。①年金受給者②ブログを書く年金受給者③時々働く年金受給者。
 もし②か③を選んだ人がいれば論理学を基礎から学んだほうが良かろう。「最も可能性が高い」のは①だ。②も③も①に条件が加わるのだから可能性は①よりも低くなる。
 癌と診断された人は俄かに死について考えるようになる。これは奇妙な話だ。人は必ず死ぬ。人が死ぬ確率は100%だ。だから癌と診断されて初めて死を意識するのではなくそれ以前から意識すべきだろう。交通事故や心疾患などで明日にも死ぬかも知れない。だから人は自分や肉親や知人の死について備えておく必要がある。しかしそんなことは縁起が悪いという理由で考えまいとする。
 起こり得ることはたとえ考えなくても現実になり得る。これは災害に遭遇した人が目を塞いでも危機を免れ得ないのと同じことだ。見えなくなっても現実は変わらないし考えなくても起こるべきことは起こる。もし考えないことによって死亡率が下がるなら考えないほうが良かろうがそんなことはあり得ない。だから自分や関係者の死について予め考えておいたほうが良い。
 戦争は悲惨だ。だからそんなことは起こって欲しくない。しかし戦争について考えなければ戦争を回避できる訳ではない。戦争が起こらないように、そして仮に起こっても軽微な武力衝突程度で済むように準備をしておくことが大切だ。戦争などについて考えることさえ忌まわしいと考えて何もしなければ、いざという時に正しい対応ができない。備えあれば憂い無し。

可能性

2015-08-27 09:47:05 | Weblog
 稀な事例であっても事故があると大騒ぎをする。すぐに事故を根絶せよという話になる。エスカレータで事故が起こると、歩くから悪い、歩かせるな、と主張される。原発事故が起これば即時全廃という話が出る。航空機事故が起これば空港や基地を閉鎖せよと要求される。事故を起こした側には負い目があるから平身低頭で謝罪する。反論が許されない状況だから妙な要求であっても通ってしまうことがある。事故に付け込んだ恐喝事件も起こり得る。
 事故の後で基準が厳しくなるのは、それまでの危惧が単なる可能性ではなく現実になったからだ。可能性と現実は白と黒ほど違うように考えられ勝ちだが、それは可能性の意味を理解していないことに基づく誤解だ。杞憂も交通事故も可能性ではあるがこれらを同等に扱うべきではない。可能性はグレーのグラデーションでありこれを数値化するために確率という手法が使われる。
 分析判断とは違って総合判断は必ずしも正しくない。例えば「カラスは黒い」という命題は総合判断としては「現時点では総てのカラスが黒い」という意味に過ぎない。だから将来、白いカラスが現れる可能性を否定できない。ところが予め「黒くない鳥はカラスではない」と定義しておけばこの命題の対偶である「カラスは黒い」が分析判断になり常に正しい命題になる。分析判断とは違って総合判断は100%正確ではあり得ない。だから例外が発生する可能性は常にある。予測のためには確率という概念が欠かせない。
 天が落ちて来るという杞憂が1年以内に現実になる可能性は殆んどゼロであり、日本のどこかで交通事故が起こることはほぼ確実だ。宝くじで大金が当たる可能性は極めて低いがゼロではない。近日中に日本でエボラ出血熱によるパンデミックが起こる可能性もゼロではない。明日、白いカラスが見つかる可能性がゼロでないように、総合判断である限り例外の発生は避けられない。しかし事実の確実性は確率の高さで評価されるべきであって、起こったことは現実で起こっていないことは非現実などと乱暴に分類すべきではない。99%確実でありながら起こらないこともあれば1%の可能性しかないことが現実になることもある。たった一度買った宝くじで1億円当たってもそのことだけで現実的であると判断できない。そんなマグレ当りを現実として過大評価すべきではない。
 ルールは本来、非常時ではなく平穏時に、冷静に検討して定められるべきだ。事故を教訓にすることは必要だが、冷静でなければ妙な規制ばかりが増える。
 実際に起こったことであっても例外とすべきことは沢山ある。ワシが落とした亀が頭に当たって死んだ人がいても、空から亀が降って来ることを警戒することは無意味だ。危険性は確率的に考えるべきであって、例外を過度に騒ぎ立てるべきではない。リスクの高さは危険性×確率によって算出される。

名付け

2015-08-25 10:15:53 | Weblog
 愛知県大府市でアルバイトの男性が女性社長のパワハラによって蹴り殺された、と報じられた。なぜこの行為をパワハラと呼ぶのか理解に苦しむ。ただの暴行事件だ。パワハラは良いことではないが、暴行までパワハラと呼ぶことによってパワハラが極悪の行為であるかのように印象付けられる。
 いじめについても同じことが言える。学校での恐喝や暴行までいじめと呼ぶ。犯罪に該当しない行為のみをいじめと呼ばなければいじめの概念が無制限に拡張する。
 最近は余り使われなくなったが、ISをイスラム国と呼ぶことはイスラム教に対する悪印象を植え付ける。特異なものを一般名詞で呼べば一般名詞が穢される。
 コンプレックスという言葉がある。誤って劣等感の意味で使われることが多いが、正しくは「概念の複合」だ。本来、無関係の筈のものが無意識の領域において強固に結び付けられて人に異常な反応を起こさせる。レッテル貼りは人為的なコンプレックス作りであり、乏しい根拠しか無くても毛嫌いさせるために利用され勝ちだ。
 パワハラやいじめやイスラム教に悪意を持たせようとする人は概念の拡張によって偏見を植え付ける。
 戦前・戦中には「アカ」という言葉があった。多分狭義では「天皇制転覆を企む共産主義者」という意味だろうが、リベラルな考えの人まで「アカ」の烙印を押され人格を否定された。「アカは悪人だ」という命題だけが独り歩きをしていた。
 戦後こんなレッテル貼りは殆んど無くなったがなぜか「右翼」と「極右」という言葉がしぶとく生き残っている。「安倍首相は極右だから戦争を企んでいる」という論理性を欠いた理屈を使う人が今でもいる。
 ある食堂に豚汁定食というメニューがあった。豚汁とご飯だけの定食だ。ところがこれが常連客には人気のメニューだった。具沢山の豚汁が大きな器に入っており充分おかずになる食べ物なのにネーミングが悪い。「ちゃんこ鍋定食」や「豚ちゃんこ定食」と名付けて鍋に入れて出せば全然違った印象になり新規客の注文も期待できる。言葉は便利な道具だが、人は余りにもしばしば言葉によって騙される。

作話

2015-08-25 09:42:12 | Weblog
 記憶はしばしば嘘をつく。都合の悪い事実を忘れて空白を作り、その空白を適当に埋める。
 凶悪犯罪者が訳の分からない自供をすることがある。これは必ずしも狂っているからでも、無罪になるために狂人のフリをしている訳でもない。多くは意識的な作話ではなく無意識が生んだ作話だろう。犯行の記憶を抑圧してしまえば話が繋がらなくなる。記憶の空白を埋めるために話が作られる。これが言い逃れを目的とした意識的な作話であれば辻褄の合う話にするが、悪魔やドラえもんに導かれたといった荒唐無稽の話は夢と同じように無意識の領域で作られた疑似体験に基づくからだろう。
 人には辻褄を合わせる癖がある。分からないことを勝手に埋め合わせる。電車がトンネルを抜ける所を見ている人は、トンネルの中でも直前と同速度で走っているものと勝手に想像して通り抜ける瞬間を予測する。こうしてトンネルに入る前と後を整合させる。
 同じように事実と事実の空白を勝手に埋める。情報が欠けていても空想を差し込んで連続した情報にする。ドラマの途中で居眠りをしても前後の話を繋ぎ合わせて勝手に物語を作る。
 これは便利な機能ではあるがその反面、困った機能でもある。辻褄を合わせるために作話がされるからだ。よく知られているのは認知症患者による窃盗妄想だ。財布に入れていた1万円札が無くなったのは嫁が盗んだからだと主張する。実は自分で使っておきながらそのことを忘却することによって起こる妄想だ。
 財布に1万円札があった→今は無い→誰かが盗んだ→嫁が盗んだ、こんな思い込みを事実と信じるからトラブルになる。
 認知症でない人も同じようなことをする。事実と異なることを信じている人はそれを問い詰められると主に3種類の言い逃れを使う。「みんなが言っている」「テレビで言っていた」「新聞に書いてあった」。これらは検証困難だから言い訳として使い勝手が良い。デマをバラ撒く人は勝手にそんな事実があったと信じ込んでいる。本人が作話であることを知らないのだから迷惑この上ない。
 人は事実を知ることよりも都合の良いことが事実であることを望む。好きなことの良い情報と嫌いなことの悪い情報が選択的に収集されるから歪む一方だ。こんなプロセスで信じ込んだ嘘を守るためにも作話が使われる。
 神の存在を証明する事実は何1つ無い。それにも関わらずアメリカ人の半数以上が神の存在を信じている。一旦誤った信念を持てばそれを覆すことがどれほど難しいか、このことだけでも分かるだろう。彼らは都合が悪くなれば作話に逃げ込む。

分別

2015-08-23 10:30:33 | Weblog
 消費税は悪い税制だ。万人に平等に負担させるからだ。平等に負担させることに合理性は全く無い。年金生活者であれば収入は一定だから、消費増税の度に可能な消費は少なくなる。それどころか赤貧に喘ぐ人にまで納税させる惨い税制は他には人頭税しか無かろう。
 ではなぜこんな酷い税制が認められているのだろうか。平等が良いこととされているからだ。消費税を否定するためには平等を否定せねばならない。誰もそんな面倒な議論などしたがらない。
 憲法第14条は「法の下の平等」を定めているだけであり、税金を平等に収める義務など無い。消費税が悪税であるのは逆進性があるからではない。みんな騙されている。平等な負担であるからこそ悪税なのだ。逆進性を根拠にした批判は事実に背くから説得力を持ち得ない。消費税の是非に関する議論は根本から誤っており、消費税に逆進性など無く、悪しき平等性がある。
 平等という概念に反対すれば短絡的に「差別主義者」とレッテルを貼られかねない。しかし広辞苑に依れば差別とは「正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと」であり「正当な理由に基づいて正当に扱う」ならこれは差別ではなく区別だ。
 区別は必要なことだ。例えば学校給食において平等な扱いをすれば、体の大きい大食漢は必要量を食べられず、その一方で少食の人は食べ残す。配膳係が気を利かせればこんな無駄は無くなる。同じ給食費で多寡があるのは不平等だと文句を言う人もいるだろうが、給食が残ってゴミになるよりずっとマシだろう。
 荷物を運ぶ際、力の強い人は重い物を担当すべきだろう。体力が異なるのだから同じ重さを担わせることこそ不公平だ。同様に、収入の多い人は多くの税金を納めるべきだろう。
 公共投資は一括りにされるから評価が分かれる。当たり前のことだが良い公共投資と悪い公共投資がある。それを仕分ける尺度が乗数効果だ。良い公共投資であれば民間投資を呼び込んで大きな乗数効果が生まれる。例えば東海道新幹線が作られた時、鉄道事業が巨大なビジネスチャンスであっただけではなく、完成後には遠隔地との事業が活性化されてとんでもない乗数効果が生まれた。逆に乗数効果が最低であるのは高額所得者に対する年金の支給だろう。当時日本一の金持ちと言われた松下幸之助氏は自分が年金受給者であることに驚愕したそうだ。この場合の乗数効果はほぼゼロだろう。
 高額所得者に対する減税は投資ではないがこれを敢えて投資と考えるなら、松下氏に対する年金の支給と同様に、乗数効果はゼロに等しい。ヒグマしか通らない道路を作ったり、穴を掘って埋めるだけの公共事業も乗数効果を生まない。公共投資は良いものと悪いものに分別する必要がある。無分別(ムブンベツ)こそ無分別(ムフンベツ)だ。

神の火

2015-08-23 09:45:54 | Weblog
 「ソドムとゴモラ」はなぜ滅ぼされたのだろうか。「創世記」の記述ではさっぱり分からない。先に成立していた創世記を補完するために書かれたと思われる「エゼキエル書」にも「高ぶり、食物に飽き、安泰に暮らしていたが、彼らは乏しい者と貧しい者を助けなかった。彼らは高ぶり、私の前で憎むべきことを行った」としか記されていない。これが「硫黄と火を降らせて(中略)ことごとく滅ぼす」に足る悪徳だったのだろうか。ノアの洪水にしてもなぜ動物まで罰したのか理解できない。旧約聖書の神は、気に入らない者がいればその個人だけではなく無差別に片っ端から滅ぼしてしまう乱暴な神であるようだ。
 突然聖書の話を持ち出したのはこれが西洋人の精神の根幹だからだ。彼らは子供の頃から聖書の物語を読み、知識や知恵として共有する。聖書の倫理観は彼らの血肉となっている。彼らの行動原理には聖書がある。
 極東のちっぽけな島に棲息していたイエローモンキーが不遜にも白人に戦いを挑んだ。白人は彼らをコテンパンに叩きのめすだけでは飽き足らず、神罰として原爆というそれまでの兵器とは全く次元が異なる「神の火」によって惨殺し二度と逆らう気を起こさないほどの恐怖を植え付けた。これは「神の火」と言うよりむしろ異教徒を掻き尽くす「地獄の業火」だろう。
 これが原爆投下の本音ではないだろうか。彼らは神に倣って広島と長崎を殲滅することによって神の座に着こうとした。これは白人の絶対的優位性を示威するために必要な宗教的行動だった。実は日本が1944年からソ連経由で講和を求め続けていたのにアメリカ側がそれを無視し続けていたことが、後になって公開された機密文書によって証明されている。アメリカとしては原爆という「神の火」によって戦争を終結させたかったのだろう。
 ではなぜ白人は神の座から落ちたのだろうか。アジア諸国の独立だ。それまで白人に逆らう劣等人種は日本人だけだったが、第二次世界大戦後、アジア全域で独立運動が起こった。彼らは「神の火」を恐れなかった。
 アジア諸国の独立に日本がどれだけ貢献したかは人それぞれが勝手に評価しても構わない。しかし独立戦争に協力した元日本兵が決して少なくなかったという歴史的事実は認められるべきだろう。彼らの多くは本当にアジア諸国の解放のために命懸けで戦ったのではないだろうか。
 アメリカの黒人はリンカーンによる奴隷解放で一挙に人権を獲得できた訳ではない。今でも警察官による暴行がしばしば報じられるように差別意識は根深い。アジア諸国が独立することによって白人は神の座から引き摺り降ろされ、そのことが黒人を勇気付けたのではないだろうか。
 アメリカを神のように崇めているのは大火傷を負わされた日本人だけではないだろうか。日本人は「神の火」の恐怖から未だに逃れられず、忠実な僕であり続けている。GHQによる7年近い言論統制によって日本人は言論の自由を失ったままだ。東京裁判では呆れた事後法である「平和に対する罪」や「人道に対する罪」によって日本の指導者が裁かれたが、本来裁かれるべきなのは前者はルーズベルト、後者は原爆投下を命じたトルーマンではないだろうか。