俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

私有と共有

2011-05-31 14:05:54 | Weblog
 私有と共有は対立する概念ではない。うまく使い分ければ誰もがそのメリットを享受できる。使用頻度の高いものは私有したほうが良いし頻度の低いものは共有したほうが合理的だ。共有すべきものの典型的な例は通路だろう。多くの人が短時間使用するのだから共有されることによって価値が高まる。消防や救急などのシステムも同じだ。私有するよりも共有したほうがずっと合理的だ。
 カーシェアリングも広がりつつある。たまにしか自動車を使わない人にとっては私有するよりもシェアしたりレンタルしたりするほうが有利だ。
 車に拘りたい人は私有すれば良い。価値評価が異なる人とは共有できない。高く評価する人はそれを大切にするが、低く評価する人は雑に扱うからだ。大切な私有財の共有化は大切な飼い犬をノラ犬にするようなものだ。飼い主・飼い犬の双方にとって好ましくない結果を招く。
 私有財産を否定すれば多くの矛盾を生む。しかしもっと共有を増やしたほうが合理的ではないだろうか。自転車や傘などは共有を増やしたほうが便利に暮らせるようになるだろう。
 あるいは土地も私有ではなく共有したほうが良かろう。固定資産税を廃止して賃借料にすれば、相続税を払うために家屋を売らねばならないような不合理も無くなる。

正当化

2011-05-31 13:49:48 | Weblog
 人は命を犠牲にしなければ生きられない。このことを正当化するためにそれぞれの民族は詭弁を弄して来た。
 かつて日本人は獣を食べることを止めた。個人としてではなく民族のレベルで肉食を慎んだ例は極めて珍しい。これは原理主義に近い過激な思想と言える。
 西洋人は奇妙な理屈を捏造した。家畜は人類に利用されるために生まれるのだから食べても良いが野生動物は食べてはならないという理屈だ。それなら犬や猫を食べても構わないのかと問えばペットと家畜は違うと言う。
 この奇妙な理屈に基づいているのがシーシェパードなどの環境保護団体だ。鯨を食用にすることは悪であって、牛や豚を食べることは正当だという西洋人以外には理解できない奇妙な理屈だ。しかしこれこそが西洋人の食文化を肯定するための殆んど唯一の拠り所であって、この理屈を貫かなければ彼らによる正当化が覆ってしまう。
 日本人の感覚なら、家畜はペットに近い仲間であり疑似家族でさえあり得る。家畜を食べるよりは余所者に過ぎない野生動物を食べるほうが遥かに自然な行為だ。
 西洋人が鯨肉食に目クジラを立てるのは多分彼らが大きい動物には大きな命が宿っていると考えているからだろう。西洋人は鯨の他にも鮪とか象亀のような大きな動物の減少には敏感だが、昆虫などは文字どおり虫ケラとしか考えず平気で絶滅させる。少なくとも日本人のように一寸の虫にも五分の魂が宿っているとは考えていないようだ。

倫理の起源

2011-05-31 13:32:06 | Weblog
 倫理の起源は少なくとも5種類ある。
 ①権力者は自らの支配を安定させる類の性質を被支配者に求める。従順で秩序を守り滅私奉公に励み自己犠牲を厭わぬ者が彼らにとって都合が良い。社会であれ企業であれ権力者はこの方向に被支配者を馴養しようとする。そのため彼らの説く倫理は非常に胡散臭い。
 ②集団は自分達の利益を正義と主張する。そのことは企業であれ組合であれ訴訟集団であれ家族であれ大差は無い。自分達の利益に適うことこそ正義の執行であり利益に背くものを悪と規定する。
 ③市民は良い関係を継続できる性質を善と考える。盗んだり騙したりする人と良好な関係を保つことはできない。逆に他者の気持ちを慮れる人を善良と評価する。
 ④ロビンソン・クルーソーのような一人で生きる人であろうとも善悪の基準はある。善悪は他者との関係に依存するとは限らない。一人で生きる人であろうともその場限りの快不快が総てではない。自分を改良するものは善であり劣化させるものは悪である。従って向上や健康増進を善いことと評価する。
 ⑤最後に①~⑤とは別の次元だが慣習に基づく倫理がある。親を含む周囲によって植え付けられた倫理でありこれは上記の4つの倫理の亡霊に過ぎない。
 倫理はこのように5重構造になっている。そのために一貫性を欠きしばしば相矛盾する。私は①②⑤を否定し、③と④を肯定する。

豚まん

2011-05-22 15:12:29 | Weblog
 全国的には「肉まん」が普通だが関西では「豚まん」と呼ぶ。関西らしい下品な呼称だが決して面白がってこう呼んでいる訳ではない。関西では「肉」と言えば基本的には牛肉を指すからだ。焼肉も肉じゃがも肉うどんも牛肉を使わねばならない。豚肉を使ったら客が文句を言う。
 初めて「牛焼肉定食」というメニューを見た時は驚いた。なぜ蛇足とも思える「牛」を冠するのかと思った。場末の汚い大衆食堂ならともかく、関西では焼肉に牛を使うのは当たり前だ。「ステーキ」と言えばビーフステ-キを意味するのと同じことだ。豚を使う場合に「ポークステーキ」と表示して区別すれば済むことだ。「牛焼肉定食」という言葉にはそれほどの違和感を覚えた。
 肉野菜炒めは例外で豚肉を使っても構わない。多分、中華料理から広がったからだろう。
 関東では肉じゃがに豚肉を使うと聞いた時には絶句した。これは絶対に許されない。肉じゃがの歴史に背く料理でありこれこそ「豚じゃが」と呼ぶべきだ。
 肉じゃがの起源は割りとよく知られている。日露戦争の英雄東郷平八郎元帥が英国留学時に食べたビーフシチューを和風で作らせた料理だ。従って絶対に牛肉でなければならない。

豚と羊

2011-05-22 14:55:21 | Weblog
 イソップ寓話にこんな話がある。
 豚が人間に連れて行かれそうになって泣き叫んだ。それを見た羊が言った。「見苦しい。私は何度も人間に捕まえられたが一度も泣いたことはない。」豚が反論した。「君は毛か乳を取られるだけだが僕は肉を取られる。」
 毛を刈られるのと肉を取られるのとでは意味が全然違う。毛を刈られても再生可能だが肉を取られたら命を失う。
 牛や羊は植物の葉しか食べない。従って植物は再生する。一方、山羊は植物を根こそぎ食べてしまう。
 牛や羊が放牧されても植物は滅びないが山羊の住む土地では緑が失われる。牛や羊は植物と共生できる。ヒンズー教が牛を神聖視するのは牛が殺生をしない動物だからだそうだ。
 人間は牛を見習うことができるだろうか。草食においては可能だろう。種と根を守れば植物は再生できる。
 動物性蛋白質はどうだろうか。乳を取るだけなら生命を奪うことにはならない。鶏卵も殆んどが無精卵だから命を奪ってはいない。それではタコを飼ってその足を少しずつ切って食べていれば殺生をしない肉食は可能だろうか。タコを草食化することは多分不可能だからタコの飼育のためには他の生命を犠牲にせざるを得ない。

ビタミンC

2011-05-22 14:37:41 | Weblog
 大半の動物は体内でビタミンCを合成することができる。ビタミンCを合成できないのは霊長類・ゾウ・モルモット・フルーツコウモリ・メダカなどだけとのことだ。
 何と奇妙な取り合わせだろうか。進化の系統樹とは全く無関係に点在している。こんな奇妙な進化が起こったのは食物が原因だろう。ビタミンCの豊富な物を常食していれば体内でわざわざ合成する必要がなくなるのでその機能を失ったのだろう。
 このことから人類の祖先の主食は果物だったと思われる。人類が肉や魚を食べる雑食動物になったのは火の使い方を知ってからだろう。なぜなら生肉や生魚を食べるという食文化は一部の民族にしか存在しないからだ。生肉食はイヌイット(エスキモー)の食文化以外では馬刺しとユッケと生肝ぐらいしか私は知らない。生魚を常食したのは日本人だけだろう。
 肉や魚を加熱して食べるようになってから人類の食生活は飛躍的に向上した。果物以外に動物性蛋白質を食べれば摂取カロリーは激増する。肉や魚を食べるようになってから脳が大幅に発達したと思われる。人間の脳は体重の2%に過ぎないのにエネルギーの20%を使う最も非効率な器官だ。こんな非効率な器官を発達させるためには充分なエネルギー源が不可欠だ。
 脳が発達したから豊かな食生活になったのではなく、食生活の向上が脳の発達を促したと言える。衣食足りて礼節を知るようなものだろうか。

安全基準

2011-05-20 15:26:04 | Weblog
 ユッケによる食中毒事件をきっかけにして生食肉に関するルールが見直されたが、こんなマイナーな食品だけではなくもっとメジャーなものを見直す必要がある。1年間に53億食が消費されるインスタントラーメンだ。
 インスタントラーメンによる食中毒など聞いたことが無いが常食すれば有害であることはほぼ確実だろう。医学的根拠は曖昧だが消費者には次のような常識がある。
 ・同じメーカーの品ばかり食べ続けると微量の有害物質が蓄積されるので複数のメーカーの品を食べたほうが安全。
 ・麺を茹でた湯には低品質の油が溶けているので、湯切りをした麺を新しい湯で作ったスープに入れたほうが良い。
 ・卵や野菜などを加えれば栄養価は高まる。
 ・古いインスタントラーメンは油が変質している。
 ・ラーメンスープは塩分が多いので飲まないほうが良い。
 どの程度本当なのか分からないがこれらが俗説として罷り通っている。河豚や生肉のような危険な食品の規制も必要だが常食されている非健康食品に対する啓蒙はもっと重視されても良かろう。
 老若を問わず一人暮らしの男性はインスタントラーメンに頼り勝ちだ。このことが単身男性の短命化を招いているのかも知れない。多くの消費者が実際にいるのだから、厚生労働省はジャンクフードと決め付けるだけではなく、安全な食べ方を指導すべきだろう。あるいは比較的安全な物を推薦すべきだろう。

自然エネルギー

2011-05-20 15:10:48 | Weblog
 原発の危険性が露呈したことで政治家やマスコミは自然エネルギーに注目している。
 しかし長らく本命視されていた太陽エネルギーは面積効率が悪過ぎて日本で大規模に導入することは不可能だ。個人の需要を充たすためには1人当たり300㎡の太陽電池パネルが必要とのことだ。太陽電池パネルの下には光が届かないので、使いようのない土地か建物の屋上と南面にしか設置できない。人口が1/10にでもならない限り補助電力でしかあり得ない。
 地震国であるから原発が危険であるのと同様に、台風国でもある日本は風力発電にも向いていない。これまでに多数の風力発電機が倒壊している。
 地熱発電は比較的有望だろう。温泉は天然の地熱エネルギーだ。しかしこれを大々的に利用すると温泉が涸れてしまう。実際に地熱発電のせいで温泉が冷泉になってしまったと思われる実例もある。
 水力発電もダムを使った大規模なものではなく、自然の水流によってタービンを回せば環境破壊は少ない。しかし小さな発電所を多数作ることは高コストになるので現実的には難しい。
 一番確実な方法は電気使用量を減らすことだろう。危険な原発に頼った便利な生活か、原発に頼らないやや不便な生活かの二者択一だ。安全で便利な生活は諦めるべきだろう。日本の人口は多過ぎるから自然エネルギーだけでは賄い切れない。これが現実だ。

原発の危険性

2011-05-20 14:58:30 | Weblog
 津波と外部電源喪失にさえ備えれば原発は安全になると日本人は信じさせられようとしている。これは危険なことだ。原発の危険性はそれだけでは回避できない。
 津波に隠れて地震そのものの危険性が軽視されている。巨大断層が原発の真下に生じる場合を想定する必要がある。原子炉などの施設がどれほど頑丈であろうとも、地盤が崩壊すればどうしようもない。例えば5mの断層が縦か横に生じた場合に原発はどうなるだろうか。絶対に無事では済まない。今回の津波被害とは比較にならないほど酷い損傷を被るだろう。
 今回の原発事故から学ぶべきなのは、原発が津波と電源喪失に弱いということだけではない。原発が危険な施設だということを痛感せねばならない。
 今回の直接原因である津波と電源喪失のみに対処することは対症療法と同じで問題解決には繋がらない。次の原発事故ではきっと、津波には対処できたが想定外の大きな地震には耐えられなかったということになってしまうだろう。これではまるでモグラ叩きのようなものだ。津波と電源喪失にさえ対処できれば原発は安全なものになるという盲信は新たな安全神話に過ぎない。