俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

先天性

2013-10-31 10:27:36 | Weblog
 能力とは先天性×後天性だ。「+」ではなく「×」であるところがミソだ。先天的能力が1/2であれば2倍の努力が必要だし、先天的能力が2倍であれば半分の努力で済む。
 学芸であれスポーツであれ専門家は最大限の努力をしている。最大限の努力をして差が生じるのは先天性が異なるからだ。
 元アスリートの為末大氏が「その体に生まれるかどうかが99%だ」と発言したのはあくまでトップアスリートのレベルでの話であり、彼らが血の滲むような努力をしても超えられない先天性の壁を指摘したものだ。決して努力が虚しいと否定した暴言ではない。
 「努力は必ず報われる」と主張する人は多分、精一杯の努力をしたことの無いお山の大将だろう。努力だけでは届かない高い領域があることを知らないから努力至上主義を主張する。彼らに問いたい「100mを10秒以内で走れるか?」と。
 もし私が子供の頃から必死で練習を重ねていてもせいぜい11秒が限界だろう。その程度の先天性しか持ち合わせていないからだ。努力至上主義者は「もっと命懸けで頑張れ」と尻を叩くのだろうか。これこそ残酷なことだ。限度を超えて頑張ってもできないことはできない。当り前の話だ。
 町一番の俊足になら努力次第でなれるだろう。他に必死で努力する人が殆んどいないからだ。しかし日本一や世界一にはなれない。先天性を備えた人が同等以上に努力するからだ。努力で達成できるのはせいぜいローカルレベルでのNo.1までだ。
 指導者としてなすべきことは、その人に可能な最大限の能力を引き出すことであって、不可能な目標を押し付けることではない。「努力は必ず報われる」という言葉は先天性に恵まれない人にとってはこの上無く残酷な言葉だ。できなければ努力不足として否定されるからだ。無理なことは無理と諦めることこそ必要だ。可能な限り頑張っても世界のレベルに届かなければ先天性の違いと諦めることが正しい判断だ。

男女不平等

2013-10-31 09:54:32 | Weblog
 先日、世界経済フォーラムから「男女平等ランキング2013」が発表された。日本は先進国中最下位で136ヵ国中105位だった。日本より下位は韓国以外の大半がイスラム圏というなかなか凄い評価だった。
 例によってヘソ曲がりな論評をしようと思う。鍵となるのはアジア最上位国で5位にランクされたフィリピンだ。
 私はフィリピンが好きでこれまでに20回ほど訪れている。その経験から断言するのだが、フィリピン人の男は怠け者で女は勤勉だ。フィリピン人の男は仕事が大嫌いなだけではなく歩くことさえ嫌がるほどの怠け者だ。
 私は雄ライオンと同様、これがオスの本来の姿だと思っている。オスの本質は楽をすることしか考えない怠け者だ。
 メスはそうではない。哺乳類のメスは子育てをせねばならない。子育てという面倒な行為を厭わない勤勉さが先天的に備わっている。動物なら勿論のこと人類でさえ、子育てを煩わしく思うような遺伝子を持つメスは淘汰される。
 メスは先天的に勤勉であり、オスは繁殖活動以外では怠け者だ。これが哺乳類の本来の姿だ。人類のオスも本来、怠け者だ。小学校での放課後の掃除の時間を思い出して欲しい。どこの学校でも男子は怠けようとして女子に怒られていただろう。それが怠け者でないということこそ異常なことであり、そうしなければ生存できないという過酷な境遇に日本の男は置かれているということだ。
 権力は責任を伴う。権力を握って責任を負わされるのと、権力を持たないふりをして責任から免れるのとどちらのほうが利巧な戦略だろうか。
 ここで改めてランキング上位国を確認してみよう。①アイスランド②フィンランド③ノルウェー④スウェーデン。何のことはない、高福祉で男があくせく働かなくて済む国ばかりだ。こんな境遇であれば日本人の男もあくせく働かずに本来の怠け者になれるだろう。
 つまり日本の男は女のように勤勉だということだ。体が大きくて力も強い男が勤勉であれば女は社会参加などせずに女王様の役を勤めれば良い。日本において女性の社会参加が不充分なのは男という奴隷が身を粉にして働いているからだ。これを不平等と評価する西洋式基準こそ根本的に間違っている。日本で虐待されているのは女ではなく男だ。これは逆の不平等だ。

大人の学力

2013-10-29 11:19:36 | Weblog
 OECDは24ヶ国を対象にして「国際成人力調査」を行い、その結果を今月の8日に発表した。日本は読解力も数的思考力も世界一でフィンランドなどの北欧諸国がそれに次いだ。(詳細データはPIAACで検索可)
 子供の学力では毎回上位にランクされている東アジア勢(中国、韓国、台湾、香港)では韓国だけが参加して、意外なことに平均点以下という結果だった。入試用学力ばかりを偏重しているせいだろうか。
 国別成績以上に興味深いのは年齢別学力だ。読解力も数的思考力も25~29歳をピークにして下降する。このことはOECD平均でも日本人でも同じ傾向なので普遍的事実と思われる。但し日本人の下降ぶりはかなり緩やかであり、OECD平均と日本人との差が最大になるのは、読解力も数的思考力も50~54歳の時だ。50代の日本人は若いということだろうか。
 数的思考力に注目すれば、日本人の50~54歳は20~24歳よりも高得点で、55~59歳でも16~19歳よりも高い。大学受験の時期はまだヒヨッコに過ぎず、経験を積んだ50代はかなり賢いということがこのデータから読み取れる。
 ライフステージと重ね合わせて考えれば、最も思考力が高い25~29歳がサラリーマンなら平社員であり最も考えない時期に当たってしまっている。これでは人材殺しにもなりかねず、少なからぬ企業が若手中心のプロジェクトチームの実験をしていることは良いことだと改めて思う。
 しかしなぜ25~29歳をピークにして知力が劣化するのだろうか。多分、全員が同等に劣化するのではなく、一部の人が先に劣化するのだろう。多数の砂山を作ってその高さの平均値を求めれば、刻一刻減少し続ける。但し皆が同じペースではなく、一部の山が大きく崩れてそれが平均値を下げる。砂山と同様、高齢者の知力も先に劣化する人が平均値を下げるのであり、各個人の知力はグラフに表されているように着実に劣化している訳ではないと、老化しつつある当事者としては考えたい。

印刷物

2013-10-29 10:45:44 | Weblog
 市役所が発行する印刷物を見ていて腹が立つことがある。12ページとか20ページとかいった経済的でない印刷物が少なくないからだ。これは多分、印刷知識も経費意識も欠いたド素人が作っているのだろう。頻繁な人事異動の弊害で専門知識を持つ者がいないようだ。
 デジタルの時代になっても印刷物は1ページずつ印刷されている訳ではない。A全と呼ばれる大きな紙(全紙)を使って印刷する。A全の半分がA2、A2の半分がA3、A3の半分がお馴染みのA4サイズだ。A4はA全の1/8に当たる。これを両面印刷するので16ページが経済的な印刷単位だ。8ページの印刷物なら2セットずつが同時に印刷される。従って2・4・8・16ページに収めるか16ページの倍数にしなければ無駄なページができて製本の時点で廃棄される。
 ページ数が多ければ厚紙を使った表紙が必要になる。例えば16×6=96で96ページの冊子に表紙を付ける場合、表紙は裏表紙と合わせて4ページなので総ページ数は100ページになる。たまたま区切りの良いページ数なのでこのページ数の冊子は少なくない。
 つまり印刷物は2・4・8ページにするか、16ページの倍数プラス表紙4ページにすれば無駄が生じない。民間企業の印刷物は総てこの基準に基いて作られており、コスト意識の低い役所の印刷物だけがこの基準を無視している。
 この基準から外れた印刷物は白紙部分のために製版代・印刷代を払い、その無駄な紙の代金だけではなく裁断費や廃棄費まで無駄遣いしていることになる。
 市民としてこんな無駄遣いを許すべきではない。チェックは簡単だ。そのページ数が16の倍数か2・4・8ページなら良いということだ。この程度のことなら小学生でもできる。そんなことさえ怠るほど低レベルな役所があるということだ。そしてこんな無駄の多い印刷物を請け負う非良心的な印刷会社は多分、天下り役員の温床になっていることだろう。

審判の権威

2013-10-28 13:08:10 | Weblog
 昨日(27日)の日本シリーズ第2戦で、勝敗を左右しかねない重大な誤審があった。7回2死1・3塁での藤田選手のタイムリー内野安打だ。報知新聞はこれを皮肉って「判定負け」という見出しにしていた。他のスポーツ紙も総てアウトと評価していた。
 プロ野球は判定を覆さないことを審判の権威と考えているようだが、これでは中国や北朝鮮の独裁制と同じだ。ビデオがこれほど普及している時代に黒を白と言いくるめることはできない。ミスジャッジの証拠が残るのだから、制度の不備が審判個人に対する攻撃にもなりかねない。ネット上などで個人攻撃に晒された審判が精神を患い最悪の結果を招くことさえあり得よう。個人攻撃をさせないためにはルールの見直しが必要だろう。実際の話、テニスやサッカーなどでもビデオ判定が導入されつつある。
 誤審を避けることに最も真剣に取り組んでいるのは意外なことに大相撲だ。最も古いスポーツが最先端を行っている。元々、行司は帯刀して、差し違えたら切腹するという覚悟を示していた。更に、審判員が常駐して疑わしければ「物言い」を付ける。それでも不充分として、何と昭和44年からビデオ判定も取り入れている。
 大相撲の判定に対する真摯な姿勢をプロ野球は見習うべきではないだろうか。間違いを認めないことが権威ではない。間違いを認める勇気こそ大切だ。孔子曰く「過ちて改めざる、是を過ちと謂う。」(「論語」より)

ぽっちゃり

2013-10-27 10:06:14 | Weblog
 最近、ぽっちゃり系がブームらしい。痩身願望を否定する私としては・・・・全然納得していない。私は細いことも太いことも推奨しない。健康体であることのみを勧める。極論すれば美は健康に従属するとまで言い切りたい。健康であることこそ美しく、不健康であれば無条件に醜い。
 痩せていなければ美しくないという信仰を痩身教として私は否定する。しかし浅田真央選手・福島千里選手・高橋尚子さんなどのアスリートは痩せているが美しい。健康だからだ。フィギュアの選手だった伊藤みどりさんは自ら「大根足」と自嘲していたがやはり美しい。
 少し歩くだけで息が切れるような人は痩せていようが太っていようが醜い。走れば膝を痛める人も、痩せていようと太っていようとどちらも醜い。膝を痛める原因がカルシュウム不足のせいだろうが過体重のせいだろうがそんなことはどうでも良い。美しさの絶対条件は細いか太いかなどではなく健康であるかどうかだ。
 勿論、美と健康は別の概念だ。それは真と善が異なるのと同じことだ。しかし両者には密接な関係がある。美にとって健康は必要条件であって十分条件ではない。健康でなければ美しくないが、健康でありさえすれば美しいという訳ではない。不健康な美しさはあり得ない。佳人薄命はデカダンスの美でしかない。
 大切なのは健康だ。容姿の良し悪しは主観的なものに過ぎないので時代性・地域性によって変わる不確実なものだが、健康は客観的かつ普遍的な価値だ。どう見えるかという美醜よりも、どうであるかという健康のほうが遥かに重要だ。
 細い・太いといった外見上の一要素よりも健康であることを重視すべきだ。健康でないまま幾ら外見を飾り立てようとも、見てくればかりのポンコツ自動車のようなものに過ぎない。

悪名

2013-10-27 09:36:36 | Weblog
 最近の変な名前のブームは珍名・奇名を通り越して「悪名」のレベルに達している。この背景にあるのは「創造者気取り」だ。正解を自分が決めることができるので創造者になったような錯覚を味わえる。つまり実際には創造的でない人の創造幻想であり、マスタベーションにも等しい自己満足だ。
 最近、幾つかの悪名を知った。こんな名前を付けられた子供は可哀想だ。児童虐待だ。きっと学校でもからかわれることだろう。
 泡姫・・・「ありえる」と読むそうだ。これは絶対に読めない。多分、日本にたった1つしか無い悪名だろう。「あわひめ」としか読めないし常識的にはソープ嬢のことだろう。こんな悪名を付ける親がいるとは「ありえない」話だ。もしかしたら親は合成洗剤の「アリエール」を作っているプロクター&ギャンブルの社員かも知れず、少しでも宣伝したいと考えたのかも知れないが、酷過ぎる。
 愛保・・・「らぶほ」と読むそうだ。両親はラブホテルの経営者だろうか。いっそのこともう一捻りして「ローヤル」と読ませたらどうだろうか。絶対に読めないから必ず自己満足を得られる。但し数年もすれば意味が分からなくなるだろう。
 2012年1月31日付けの「珍名(2)」でも採り上げた例だが、海月・海星・心太といった名前もあるそうだ。日本語をよく知っている人ならそれぞれ「クラゲ・ヒトデ・トコロテン」と読むが、多分知らない人が名付けたのだろう。教養の無さ丸出しだ。無知は恥ずかしい。
 もしかしたら「椿子(ちんこ)」とか「蔓子(まんこ)」とか名付けられた可哀想な子供もいるかも知れない。親はそれぞれ「はるこ」「かずこ」と読ませるつもりでも周囲はそう読んではくれない。親は人を非難するだろうが自らの無知をこそ恥ずべきだ。
 捻った名前を付けるなとは言わないが、どうせ名付けるのなら親の知性を感じさせる名前のほうが良かろう。単に読めない名前にしたいのなら「桜」と書いて「うめ」とでも読ませたら良かろう。こんな名前なら「サクラと書いてウメと読みます」と若干自虐的な自己紹介をして印象を強めることもできるし、「通称サクラ」で通せば生活上、不便を感じることも少なかろう。

ドラフト会議

2013-10-26 10:20:54 | Weblog
 プロ野球のドラフト会議は面白い。12球団がお互いに権謀術数の限りを尽くして虚々実々の駆け引きをする。どの球団にとっても1対11の闘いであり三竦みよりも遥かに高度で難解な闘いになる。この複雑なゲームをただのクジ運と考えることは誤りであり、どれほど知恵を働かせたかということが如実に結果に反映される。
 球団としての理想は①意中の選手を単独指名する②意中の選手のクジを当てる③第二希望の選手を単独指名する④第二希望の選手のクジを当てる、ということになるだろう。クジ引きになれば当たる確率は1/2以下になり、しかも外れれば殆んどの場合、第三希望以下の選手しか指名できなくなるからだ。②と③の優先順位は逆である場合も少なくなかろう。
 ドラフト4位から大化けしたイチロー選手のような例もあれば、逆に1位指名でありながら一軍の試合には1度も出場しないまま引退した選手もいる。それほど選手の評価は難しく、球団内でもランク付けは揉めに揉めるそうだ。この難しいランク付けに更に他球団の思惑まで加味せねばならないのだからドラフト戦略はたとえスーパーコンピュータを使っても正解は得られない。
 今回、作戦勝ちをしたのは西武とオリックスだ。それぞれ森捕手と吉田投手の単独指名に成功した。どちらも重複指名必至と思われていた逸材だけに、他球団の思惑を読み切っての単独指名だろう。試合中だけではなくドラフト会議でもポテンヒットは生まれるものだ。
 逆に大失敗だったのは日本ハムだ。第一希望の松井投手を逃がしただけでは済まず、外れ1位も外れ外れ1位まで逃してしまった。最初から外れ1位の柿田投手を指名していれば単独指名できていただけに戦略ミスを悔やんでいることだろう。多分、今期最下位だったのでウェーバー制で2巡目が有利になることに甘えて強気になり過ぎたのだろう。
 勿論、一か八かのギャンブルが必要なこともある。かつての野茂投手や江夏投手のようなズバ抜けた逸材がいれば指をくわえて見送る訳には行くまい。そうでなければ、いかにして他球団を出し抜くかだ勝負の分かれ目だ。ドラフト会議は運ではなく知恵の勝負だ。

安心

2013-10-25 10:10:59 | Weblog
 10歳ぐらいの頃に被毒妄想を患ったことがある。何が原因になったのか思い出せないが、食卓上の食べ物を一品一品「これを食べてもどうもない?(「大丈夫か?」の方言)」と尋ねて母からこっぴどく叱られたものだ。
 今でも強迫神経症的傾向が残っており、感情だけで判断するととんでもない失敗をしてあとで悔やむことになる。この欠陥を克服するために論理学や確率的思考法などを身に付けざるを得なかったのだが、それでも3つのことに命の危険を感じている。剃刀と飛行機と自転車だ。
 理髪店で咽を剃られるのが大嫌いだった。もし今地震が起これば咽を切られると思って冷や汗を流したものだった。今では髭剃りの無い理髪店を使っているし、自分での髭剃りには電気シェーバーと安全剃刀以外は使わない。
 可能性が低いことが分かっていても飛行機は怖い。事故の大半が離着陸時に起こることを知っているから乗り継ぎは大嫌いだ。死亡する確率が2倍になるからだ。
 自転車も怖い。まだ事故を起こしたことは無いが乗る度に、今日こそ事故に遭うと本気で考える。大阪在住時には安全この上ない電車ばかり利用していたからだろうか。実際の話、自転車の危険性は電車の1万倍以上だろう。
 これらは主観的な危険感覚だ。咽を剃られることが怖くない人も飛行機が平気な人も自転車を危険と思わない人も皆、正常だ。では私が異常なのだろうか。そうとも言えまい。何を怖いと感じるかは個人の勝手だ。饅頭が怖いと主張する権利もある。
 迷惑なのは主観的な価値観を絶対視して他人にまで強制しようとする人だ。合成保存料が怖いのなら自分がそれを買わなければ良いのであって保存料禁止などと訴えるべきではない。事勿れ主義の役人がこれに同調して合成保存料を禁止したら食中毒は百倍ぐらいに増えるだろう。
 安全に客観的な基準を設けることは可能だが、安心は主観的なものであり社会に対して要求すべきことではない。

リサイクル

2013-10-25 09:36:00 | Weblog
 リサイクルは決して好ましいことではない。資源保護の方策はリデュース(削減)・リユース(再利用)・リサイクル(再生)の順であり、リサイクルは最後の手段に過ぎない。それどころかリサイクルできるという言い訳があるために、最も重要なリデュースが軽視されているのではないかとさえ思っている。
 リユースは必ずしも安全ではない。ビール瓶などがリユースされているが、これがビールの容器として使った瓶のリユースなら問題は無い。工場で殺菌・消毒・洗浄をすれば再利用しても構わない。問題なのはビール以外を収容した容器だ。農薬などの薬品や放射能汚染水の保管に使われた瓶までがリユースされている恐れがある。空瓶の使用履歴までチェックされている訳ではない。
 リサイクルの代表例は紙だ。再生紙が藁半紙や新聞紙に使われるのなら余り問題は無い。駄目なのは印刷用紙として使うことだ。印刷用紙に使われる再生紙は塩素などを使って漂白されている。これによる環境破壊は森林伐採よりも重大だ。むしろ国内で放置されている森林から間伐したほうがずっと良い。放置された森林では木が茂り過ぎて新しい樹木が育てないほどに酷い「自然状態」になっているからだ。
 リサイクルの優等生はアルミ缶だ。アルミ缶はゴミではなく資源として有償で取引されるほど価値がある。アルミ缶のリサイクルが有効なのはアルミ精錬には大量の電気が必要であり、日本では電気代が高過ぎるので精錬するよりもリサイクルしたほうが低コストになるからだ。
 但し日本にも1ヵ所だけだがアルミ精錬工場がある。日本軽金属㈱の蒲原工場だ。ここでは自家用の水力発電を使って低コストな電気を得ている。しかし私はこの工場の存続に関して大きな危惧を抱いている。単純に企業収益だけを考えれば、国による電力買取制度を利用して電力を売り、工場を海外に移転したほうが得だからだ。そんなことになれば産業の空洞化が一層進む。農家に対する戸別所得補償のようなバラ撒きなどやめて、こんな工場こそ国が支援すべきなのではないだろうか。