俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

人体実験

2016-10-20 09:57:14 | Weblog
 薬や手術などの人体実験が増えているなどと書けば即座に「そんな馬鹿な」と反論されるだろう。しかしそれが現実であり事実から目を逸らして綺麗ごとに逃げ込むべきではない。
 先端医療の名の元で危険な人体実験が大っぴらに行われている。今、医療の現場で行われている先端医療は「実験的な医療」ではなく人体を使った生体実験だ。
 医療の対象が人間である限り最も貴重なデータは動物実験によって得られる。それは試験管やパソコンからでは絶対に得られない生々しいデータだ。動物実験はできるだけ人間に近い動物を使って行うべきでありもし何らかの事情でその動物を使えないのであれば少しでも近縁の動物を使うべきだ。象の心臓病の治療薬の実験にノミの心臓を使っても多分余り大した成果は得られないだろう。
 しかし世間の風潮は「生命尊重」だ。そして更に困ったことには人類に近い動物の生命ほど大切に扱われる。1に類人猿、2に哺乳類、以下爬虫類、魚類、原始生物といった具合にランク付けされ、人類から離れるほど実験動物として使い易くなるが、残念なことに人類から離れるほど折角の実験データが役に立たなくなる。
 確かに動物を使った実験は残酷であり倫理的には好ましくないかも知れない。動物実験を極力回避することには一理ある。しかし動物実験が不充分であれば人に対する治療のレベルが下がって、治療と言うよりも人を使った実験になってしまう。こんなことをしていれば動物愛護のために人命が危険に晒される。薬や手術などの動物実験が不充分であれば人に対する治療が危険極まりない人体実験に近付く。動物実験の回避が人体実験を増やし、それが犠牲者を増やす。これは当然の帰結だろう。
 動物実験とは何の罪も無い動物に危害を加える行為が大半だろう。実験対象にされることによって健康になる動物など殆んど皆無だろう。しかし動物実験が不充分であればどこか別の場所で実験を増やさざるを得ない。それが人体実験だ。動物実験の減少によるデータ不足を人体実験で補うなど本末転倒も甚だしい。人よりも動物を可愛がることは王より飛車を可愛がるへぼ将棋のようなものだ。
 医療にとって動物実験は情報の宝庫だ。このことを正しく評価してその貴重な情報を広く共有せねばならない。動物実験が不充分なままでの人に対する実験的な応用は医療ではなく人体実験に等しい。現状の心臓手術のレベルでは豚の心臓でさえ充分に治療できない。そんな低レベルな技術が人間に対して使われている。失敗すれば料理の材料に使えば良いというぐらいの軽い気持ちで豚を使った積極的な実験を試みていればもっと技術が高まって手術の安全性も向上するだろう。
 

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