俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

運転士

2009-04-28 15:05:43 | Weblog
 電車の運転士ほど責任と給与のバランスが崩れた仕事は無いように思える。常に数百人の命を担っているし、大きな事故を起こせば社長の責任さえ問われかねない。こんな責任の重い平社員は他に無い。鉄道マニアでなければ誰もこんな仕事を選ぼうとしないだろう。
 遅刻などはもってのほか。二日酔いで出勤する訳には行かないし、始発の運転士は前日からの泊まり込み勤務でありながら居眠り運転は絶対に許されない。
 こんな聖人君子のような人を大量に雇用することは不可能なので、鉄道会社は軍隊並みに厳しい規律で縛ってクソ真面目な社員を養成する。運転士は民主的であってはならない。会社の方針や上司の指示に疑問を持たず愚直に規則を守らねばならない。「モダンタイムス」の単純労働者より遥かに厳しく私情の入る余地の無い仕事だ。多分、体育会系の人にしか勤まらないだろう。
 大阪市営地下鉄の運転士の給与は高く、そのせいで慢性的に赤字が続いていると指摘されることがあるが、むしろこちらのほうが妥当な金額で、私鉄の運転士の給料が安過ぎるのではないだろうか。
 仮に運転士の賃金を大幅に上げれば現在の運賃では経営が成り立たず、値上げは避けられない。しかしそれでも良いと思う。危険できつく責任重大な仕事の報酬を増やすことは理に適っている。
 高い報酬に引かれて人材が集まることは利用者にとっても好ましいことだ。上司の指示に盲従するだけでなく、利用者のための改善を心掛ける運転士が増えれば電車はもっと快適で安全な乗り物になるだろう。

地球温暖化(3)

2009-04-28 14:52:29 | Weblog
 地球が温暖化すると砂漠が拡大するという説がある。どういう根拠かよく分からないが、温暖化と砂漠化は正の相関関係にあるという「事実」から導き出した理屈らしい。私にはこの理屈がさっぱり分からなかった。しかしある日地図を見ていてこのレトリックが理解できた。
 温暖化すればそれだけ水蒸気の蒸発が増えるが同時に降水量も増えるので地球全体での砂漠化に繋がる筈が無い。問題は「どこに雨が降るか」ということだ。
 温暖化すれば北半球では動物や植物の北限が北上する。これは北部での気温や水温が上昇するからだ。
 もし温暖化を気候の北上と捉えるならヨーロッパ人が温暖化を恐れる理由は一目瞭然となる。ヨーロッパのすぐ南には世界最大の広大なサハラ砂漠がある。もし気候が北上すればヨーロッパは砂漠になりサハラ砂漠は緑地となる。
 勿論、地形や気流・海流など余りにも複雑な要素が絡まるので事はこれほど単純ではなかろう。しかし大いにあり得る話だ。
 もしそうならヨーロッパ人はヨーロッパの砂漠化を恐れているだけで決して地球の砂漠化を危惧している訳ではない。「ヨーロッパの砂漠化」と言わずに「砂漠の拡大」と言って全地球的問題であるかのように問題を摩り替えている所がいかにも詭弁やディベートの本場らし過ぎる。

状況証拠

2009-04-28 14:32:36 | Weblog
 先日、和歌山の砒素カレー事件の林真須美容疑者に最高裁は死刑判決を下した。私は日本は恐ろしい国だと感じた。なぜなら状況証拠だけで死刑判決を下せる国は極めて珍しいからだ。
 かつてロス疑惑の三浦被告が無罪判決を受けた時には不満と同時に安心を感じた。「疑わしきは罰せず」が司法の大原則であり、どれほど黒に近くてもグレーを黒と判定すべきではない。物的証拠が無いにも関わらず死刑判決を下すようでは、戦前や敗戦直後の多数の冤罪事件を反面教師の教訓として生かせていない。半ば強制的な自供と状況証拠に基づいて多くの冤罪を生んだ前近代国家に日本は戻ろうとしているのだろうか。
 「保険金詐欺を犯すような悪人だから無差別殺人もやりかねない」という理屈は偏見や差別でしかない。逆に「保険金詐欺で稼いだ犯罪者が何の得にもならない、それどころか詐欺がバレかねない余計な犯罪などする筈が無い」という理屈のほうが筋が通っている。
 また判決文では「被告のみがカレーの入った鍋に亜砒素酸を秘かに混入する機会を有して」とされているが監視員のいない状況でなぜそんなことを断定できるのだろうか。それ以上に疑問なのは、煮込む前の材料作りの段階での混入もあり得、それなら容疑者は被告だけではないということになる。この可能性をどうして無視できるのだろうか。
 死刑制度そのものの是非が問われているのに、物的証拠の無い被告に対して最高刑を課すことは正当だろうか。せいぜい無期懲役までしか認めるべきではないと思う。死刑執行後に無罪と分かる可能性はゼロではない。冤罪こそ国家による犯罪だ。将来もし冤罪ということのなれば今回の裁判官5人こそ死刑に値する。

器用貧乏

2009-04-21 16:19:44 | Weblog
 得意なことを伸ばすべきか苦手なことを克服すべきか誰でも迷うことだろう。私は、得意なことを積極的に伸ばすべきだと強く主張したい。なぜなら私自身がその逆をやり続けて失敗したからだ。
 私は本来、理科系の人間だった。ところが大学入試で1度失敗すると文科系に切り替えてしまった。そのため高校の全カリキュラムを受験レベルで履修したという珍しい経歴を持つ。
 私は本来、格闘技系、それも組み技に向いた人間だった。大学で背筋力を測ったら230kgだった。これはオリンピックの重量挙げ選手並みの凄い数値だった。しかし野球やサッカーなどの球技や水泳を楽しんだ。
 私は本来、学者タイプの人間だった。しかし世間の圧倒的多数がサラリーマンであるという現実からその生き方を自ら体験すべくサラリーマンの道を選んだ。
 サラリーマンになってからもこの悪癖は治らなかった。本来、企画力で勝負すべき人間だったが管理的な仕事も喜んでやった。時には「嫌いな仕事をするのが大好き」というオリジナルのパラドックスを作ったり自ら「コウモリ人間」と名乗って周囲を煙に巻いた。
 職場は転々とした。社内異動の多さ・多様さは多分社内一だろう。これで地位が上がればゼネラリストとして多才な人間と評価されたことだろう。しかしこの不況で事情は一変した。各ポストに最適な人材を貼り付けると、何でもできるがどれ1つとして一番でない私は居場所が無くなってしまった。非常時には専門馬鹿のほうが器用貧乏よりも役に立つからだ。
 個人としては苦手を作らないという選択はそれなりに意義がある。しかし社会人としてはどこかで専門分野を作っておかないと評価されにくい。

眠る技術

2009-04-21 16:06:46 | Weblog
 全く自慢できる話ではないが私は眠るのが下手だ。「睡眠よりはスイミングのほうが得意」という駄ジャレを使ったことがある程下手だ。数を1,000まで数えても2,000まで数えても一向に眠くならない。
 暗闇の中で意識だけが宙に浮いている状態は極めて気持ち悪い。死んで、動けず・知覚できずの状態で意識だけが残っている恐ろしい状態を想像して怖くなる。
 寝つきを良くするための最良の友は酒だ。9時頃から飲み始めてジワジワと酔いを深めて意識のレベルを下げる。まるで眠るための儀式のようなものだ。
 1つだけオリジナルの技術がある。「眠れなければ眠らなければ良い」と開き直ることだ。3時になろうと4時になろうと、眠くならなければ布団の中で延々と本を読み続ける。仮に眠らなくても安静にしているだけで睡眠の半分程度の効果が期待できると何かの本で読んだことがある。眠れなくても構わないと思えば眠れぬ夜もさほど怖くない。時々、殆ど徹夜状態で出勤することもあるが安静による体力回復があるので全然辛くない。眠れないことに悩むことのほうがずっと健康には悪い。

ゲロと便

2009-04-21 15:56:05 | Weblog
 ゲロも便も汚い。しかし体の中にある間は汚くない。誰もが体内にゲロも便も隠し持っているが外に出さない限り汚くない。もしかしたら便で膨らんだ女性の下腹部を美しいと感じる男もいるかも知れない。
 ゲロや便を隠し持っている人間を醜いと断罪したり、人間を巨大な糞袋として否定するつもりは全く無い。逆に、ゲロや便を持っていても人間は美しいと考える。
 「アンデスの聖餐」において、人は人を食べて生き残った。極限状態において人間は通常とは全く異なった行為を選択できる。このことをもって人間の本性を「悪」だと主張することは、ゲロや便を隠し持つから人間の本質は「汚」だと主張するようなものだ。
 極限状態に追い込まれない限り、人間は優しく思いやりがあり、お互いに気配りできる素晴らしい動物だ。優しさと人肉食は矛盾しない。これはゲロや便と「美」が矛盾しないのと同じことだ。隠れ潜んでいる醜い物があってもそれが「本質」という訳ではない。

事実と虚構

2009-04-13 14:23:39 | Weblog
 変な言い方だが私は「肉体は俗界に、魂は聖界に」という立場を貫きたいと考えている。
 肉体は現世に置くしかない。そしてその現世は決して高尚な世界ではない。多分社会を動かす最も重要な要素は「金と女と権力」だろう。しかし「こんな社会は間違っている」とダダをこねても仕方が無い。なぜ「金と女と権力」が社会を動かすのかということを冷静に分析したいと考えている。
 物理学が事実に基づいて理論を作るように哲学(思想)も事実に基づいて築かれるべきものだ。「事実」は善でも悪でもないし、勿論、美でも醜でもない。善悪美醜以前のもの、あるいは善悪美醜の大元となるものだ。事実を否定して虚構の中で砂上の楼閣を築くことは詩人に任せておけば良い。私は宙に浮いた幻の花ではなく、汚れた沼に咲く蓮の花を目指したい。

進行方向

2009-04-13 14:07:16 | Weblog
 歩道を歩いても車道を走っても、同じ方向へ進む人よりも逆の方向へ向かう人のほうが多いと感じる。追い抜かれたり追い越したり並んで進む人と比べてすれ違う人のほうが圧倒的に多い。
 それは当然だ。同じ方向へ向かう場合、速度差が無ければ追い越しも追い抜かれもしない。もし全員が4km/hで同方向に歩いていれば追い越しも追い抜かれも発生しない。
 一方、逆方向へ向かう人とは必ずすれ違う。すれ違う数のほうが圧倒的に多くてもそのことが少数者である証となる訳ではない。逆方向へ向かっている人にも同じ現象が起こっているからだ。
 芸能人がスキャンダルを起こした場合、非難の電話やメールが殺到する。非難90に対して擁護10の割合だったとしても多数者が非難していると決め付けるのは誤りだ。進行方向の例と同様、同調者は少なく見える。非難する人と比べて擁護しようとする人は行動を起こす動機に乏しいし、更にそれをスキャンダルだと考えない人は擁護しようとさえ思わない。
 全く違った例も挙げよう。ポール際の微妙な打球がホームランと判定された時に抗議するのはファウルだと思った人だけだ。ホームランだと思った人は沈黙する。判定を擁護して主張するのはむしろ「もしかしたらファウルだったかも知れない」と思った人だけだろう。かつてニクソン大統領はこれをサイレントマジョリティと名付けた。言い得て妙だ。

過剰反応

2009-04-13 13:51:28 | Weblog
 「過剰反応するな」という命令は常に正しい。「過剰反応」は「誤った極端な反応」であり「正当な反応」のほうが望ましいことは言うまでもない。
 しかし「過剰反応だ」という主張の多くは間違っている。決して過剰な反応ではなく「正当な反応」だからだ。
 世論の反応に不満を持つ政治家は「世論がおかしい」とは言えないのでその代わりに「過剰反応だ」と言う。これは詭弁術の一種だ。
 抽象論では分かりにくいので具体例を挙げよう。北朝鮮によるミサイル発射に関して北朝鮮を擁護しようとする人は「日本人は過剰反応している」と言う。しかし「過剰」か「正当」かの普遍的な基準などどこにも無い。ただ単に「日本人の大半が私の基準とは違った反応をしている」ということを「過剰反応している」という言葉を使って否定しようとしているだけだ。
 私個人の意見としてはマスコミは量的には過剰反応したと思う。総ての他のニュースを葬り去るほどのニュースバリューは無いにも関わらず、北朝鮮のミサイルのニュースばかり見せられて些かウンザリした。
 量的には過剰な反応だったが質的には過剰とは思えない。厳しい言論統制と思想統制をする危険な近隣国が核兵器とミサイルを持つことが日本の安全を脅かすことは確実だ。北朝鮮の立場を支援しようとする国でさえ擁護できないほどの理不尽な行為であることは国連での各国の対応を見ても明白だ。