俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

医療バッシング

2008-01-29 16:26:49 | Weblog
 昨今、病院や医師が非難されることが多い。しかし急患の受け入れ拒否や診断ミスで一方的に病院や医師が悪いと決めつけて良いものだろうか。急患を受け入れる余地が無いのに無理して受け入れて、不幸にも患者が亡くなってしまったら業務上過失致死罪に問われかねない。受け入れられない状態なら断って当然だ。非難されるべきなのは病院や医師ではなく救急搬送システムだろう。
 昨年、堺市で盲人の入院患者を置き去りにするという事件があった。当然その病院は非難されたが、家族が引き取りを拒否し料金も支払わず我が儘放題のモンスターペイシェントを病院はいつまで保護せねばならないのだろうか。
 代金を支払わない場合、ホテルなら追い出しても良いが病院は保護し続けねばならないとはどういうことだろうか?
 確かに病院には福祉施設としての役割がある。しかし一方的に福祉施設の役割を押し付けて自治体は知らん顔をしていて良いのだろうか。役割を押し付けるならそれに見合った補償が必要であり、それを伴わないなら医療制度そのものが破綻する。
 我々は患者の立場に立つので安易に病院や医師を非難するが、救急医療の関係者がマクドナルドの店長よりも劣悪な勤務条件で働かされていることは恐らく間違いなかろう。医療という人の命を預かる大切な仕事に取り組む人に対して不満を述べるよりも、もっと感謝するべきではないだろうか?

ゴールの無いマラソン

2008-01-29 16:08:50 | Weblog
 一昨日の大阪女子マラソンで、長距離トラックの女王・福士選手のマラソンデビューは残念ながら19位に終わった。福士選手の姿を見ていてマラソンほど過酷なスポーツは他に無いと改めて思った。2時間以上に亘って全力を出し続けねばならない種目は他には無い。しかし42.195km先には必ずゴールがある。ゴールがあるからこそ頑張れるのだろう。
 生きることにはゴールが無い。通過点なら沢山ある。入学、卒業、入社、結婚などの通過点はゴールではない。死こそが人生のゴールだろう。
 西行のように「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」という短歌を詠んでそのとおりに死ぬなど、凡人である私にはできそうにないが、「80歳で死ぬこと」を自分のゴールとして定めたい。
 これは実はなかなか大変な目標だと思っている。80歳まで金に困らず、耄碌せず健康であらねばならないということだ。少なからず知能は衰えて体力も落ちるだろう。それでも自分を失わずに80歳まで生きるためには今のうちから頭と体を適正な状態に保ち続けねばならない。これはかなりの努力を要することだ。
 もし80歳を過ぎても生きていたら・・・それはその時になってから考えよう。

四当五落

2008-01-29 15:51:33 | Weblog
 私が高校生の頃には「四当五落」という馬鹿馬鹿しい神話があった。睡眠時間を4時間まで削れば大学に合格できるが、5時間眠れば不合格になるという話だった。私はこんな神話は無視して7時間ほど眠っていた。
 こういう馬鹿げた話は質を無視して量だけに価値を認める悪癖でしかない。寝不足で呆けた頭で4時間勉強するより、たっぷり眠ってスッキリした頭で2時間勉強したほうがずっと効果があるに違いない。こういう苦行奨励型の倫理観はなぜか広く支持され易い。
 だらだらと10時間働くよりは充実した8時間労働のほうが良い結果に繋がると思う。これが良い意味での「成果主義」だろう。もともと生産性の低いホワイトカラーについては内容の無い長時間労働より、中身の濃い短時間労働のほうが企業にとっても好ましいのは当然だろう。
 長時間労働は労使双方にとっての無駄だ。

食品添加物のメリットとデメリット

2008-01-29 15:40:54 | Weblog
 加工食品には多くの添加物が使われている。添加物は悪だと考える人もいるが、私は保存料は必要悪であり、着色料は不要な悪(偽装)だと考えている。
 もし保存料を使わなければ次のような不都合が生じる。①価格が上昇②食品の廃棄量が増加③食虫毒が増加④利便性が低下。要するに保存性が下がるために食品の安全性がかえって損なわれる。
 保存料を使わない場合、弁当の利用者は次の選択肢からどれかを選ばねばならない。
①できたての弁当をすぐに食べる・・・もはや弁当とは言えない。
②傷みにくい料理だけを選ぶ・・・昆布とカツオブシと漬物だけになるとは言わないが随分メニューが乏しくなる。
③従来どおりの弁当を危険を覚悟して利用する・・・廃棄が増えるので大幅に高くなるだろうし、食中毒も増えるだろう。
 保存料は少なくとも短期的には安全性を高めるから充分メリットがある。塩素消毒しない水より塩素消毒した水道の水のほうが安全なのと同じことだ。コンビニ弁当を推奨するつもりは無いが、有害性だけを囃し立てて利便性を無視する議論は不毛だ。
 一方、着色料は色を綺麗に見せるという効果しか無い。タラコや沢庵は着色しないと売れないから着色せざるを得ないと言われているが、業界全体が着色を止めれば問題は解決する。黒ずんだタラコや茶色い沢庵が消費者の常識になればそれで済むことだ。色偽装は必要無い。
 天然色素を使った着色料なら安全だという反論があるかも知れないが、自然は安全で合成は危険だというのは偏見でしかない。フグやキノコやトリカブトの毒もHIVも合成物ではない。自然物だ。

再生紙(改)

2008-01-29 15:18:28 | Weblog
 「再生紙を使用しています」と書いたカラー印刷物を見ると腹が立つ。これは「再生紙は環境に優しい」という間違った常識に便乗した恥知らずなイメージ広告でしかない。
 ワラ半紙やトイレットペーパーならともかく、カラー印刷をする紙に再生紙を使う必要は全く無い。国民の殆ど全員が紙のリサイクルに協力しているために再生紙を使うことが環境保護に貢献しているように錯覚し易いが、カラー印刷に使う再生紙を白くするために塩素などで漂白しているのだから、パルプを使う以上に環境を破壊する。再生紙などは所詮廃品の再利用のB級品なのだからそれに見合った使い方をすれば良い。無理やり偽装させて上質紙に見せる必要は全く無い。
 パルプの使用量を減らすためには嵩高紙が最良だと思っている。残念ながら余り知られていないが、嵩高紙とは空気含有量を増やした紙で、同じ厚さの紙に比べてパルプ使用量が3割程少ない。環境問題について書いた本が沢山出版されているのに、嵩高紙について書いた本が余り無いのは残念だ。
 書店には既に嵩高紙を使った本が沢山並んでいる。持った時に「軽い」と感じる本がそれで、出版社としてはパルプ使用量が少ない分だけ経費を削減できるだけではなく、、軽いので物流コストも軽減できる。

外風呂

2008-01-22 15:19:17 | Weblog
 私が子供の頃は家庭風呂を内風呂、銭湯を外風呂と呼んでいたが、最近では外風呂とは露天風呂を指すようになっているようだ。何しろ家庭風呂の普及率は96%だということだから、風呂と言えば家庭風呂のことであり、銭湯は風呂と思われていないのだろう。風呂の無い家庭が僅か4%ということは、生活保護を受けている家庭(11%)と比べても遥かに少なく、家庭風呂はもはや国民にとって当たり前の施設となっている。
 しかし各家庭に風呂があるということは必ずしも合理的とは思えない。家庭での熱エネルギー消費量の33%が給湯に使われ、水使用量の32%が風呂に使われているというデータを見て異常だと驚くのは私だけだろうか?
 当然の話だが、風呂は風呂としてしか使えない。まれに死体をバラバラにするためにも使われるが、それは超レアなケースであって、せいぜい一人1日1回しか使わない。特に一人暮らしの家庭風呂は問題が多い。一番風呂は危険だと言うが一人暮らしなら毎日一番風呂に入らねばならないし、もし水を惜しんで何度も使えばレジオネラ菌が繁殖しそうだ。
 もし風呂をなくせば1部屋増やせるか、1部屋分取得価格または家賃が安くなる。家庭風呂はそれほどの犠牲に値する施設なのだろうか。仮に日本に銭湯という施設が無ければ各家庭が風呂を備えねばならないだろうが、せっかく銭湯という半公共的な施設があるのだから、各家庭が風呂を持つことは大変な無駄遣いではないだろうか。
 銭湯は徐々に減りつつあり、今のうちに保存を図らねば壊滅してしまいかねない。わずか1・2人のために風呂を沸かすのは止めて銭湯を利用すればどれだけ省エネになることだろう。
 都市での移動手段が自動車から電車に移行するように、地価の高い都市でこそ家庭風呂を止めて銭湯利用に切り替えるべきではないだろうか。

死ぬべからず

2008-01-22 14:59:38 | Weblog
 今月11日の「責任転嫁」で「車内で眠るべからず」というニューヨーク市の規則を紹介したがそれ以上に呆れた法律がある。フランスのル・バランドー町で出された「死ぬべからず」がそれだ。墓地が足りなくなったためにこんな法律(条令?)が作られたらしい。誰かが死んでも埋葬する場所が無ければ町が責任を問われるが、こんな法律を定めておけば「死んだほうが悪い」と突っぱねることができる。
 変な法律の本場はシンガポールだろう。シンガポールは中国系77%、マレー系14%、インド系8%の複合民族国家のためそれぞれの民族の悪癖を法律で禁止している。主な変な法律は次のとおり。
・エレベーター内で放尿してはならない。
・トイレ使用後は水を流さねばならない。
・チューインガムの製造・販売・広告を禁ず。
・ボウフラを発生させてはならない。
・鳥や野良猫に餌をやってはならない。
・痰を吐いてはならない。
 シンガポールはfine countryと呼ばれている。このfineは「快適な」という意味と「罰金」という意味を兼ねている。
 本来モラルとして守るべきことを法律にして罰則を設けねば守れないということが何とも情けない話だ。いや、他の国を笑ってばかりではいられない。日本も徐々に同じような情けない国に変わりつつある。

地球に優しい容器

2008-01-22 14:43:07 | Weblog
 壜と缶とペットボトルと紙の4つを飲料の容器として比較した場合、どれが環境に対する負荷が小さいだろうか?
 多くの人は壜と考えるだろう。壜は洗うだけでリユースできるが、缶やペットボトルはリサイクルする必要があり、紙は使い捨てになると多くの人は考えるだろう。
 しかし単に消費の段階だけではなく、もっと総合的に負荷の大小を検討する必要がある。製造段階・流通段階・再生段階も含めて考えるなら、紙が最も地球に優しいように思われる。
[製造段階]
 金属を使う缶が多分最も多くエネルギーを使い、化学合成されるペットボトルが次に多く、紙が最も少ないと思われる。
[流通段階]
 壜が最も重いので多くのエネルギーを無駄遣いしていると思われる。紙が一番軽いので省エネになっているだろう。
[再生段階]
 壜は洗うだけで再利用できるので環境に良さそうだが、洗浄に使う薬品や洗浄工場への運搬も考慮すれば必ずしも理想的ではない。缶やペットボトルは再生するためにかなりのエネルギーが必要だ。結局、燃えるゴミにしかならず自然分解する紙が最も環境への負荷が小さそうだ。
                  *           *
 もし使用済みの紙をエネルギーとして利用するならバイオエタノールより遥かにエコロジカルなエネルギーになる。木材から紙を作って使用済みの紙をエネルギーとして活用するのだから、一度紙として利用している分、木材を乾かしてエネルギーにするよりも資源を有効にフル活用していると言えよう。
 使用済みの紙は再生紙にするよりエネルギーとしたほうがずっと合理的だと思われる。同じようにペットボトルもリサイクルするよりは燃料にしたほうが合理的ではないだろうか?

変化対応

2008-01-18 15:08:35 | Weblog
 生存が困難になるほど環境が変化した場合、動物には次の4つの選択肢がある。①滅ぶ②移動する③自分を変える④環境を変える。
 人間も動物の1種だから同じような選択肢から選ぶことになる。「移動」の例としては、寒冷期には南下しただろうし、水位が上がれば高地に逃げただろう。「自分を変える」例としては、新モンゴロイドの寒冷適応のように肉体を変えるだけではなく、衣服や各種の道具を開発するという方法もある。「環境を変える」のは人間だけに可能な選択肢だが、環境を変えればそれが招く恐ろしい副作用も覚悟せねばならない。むしろ破壊してしまった環境を修復することに力を注ぐべきだろう。
 あるビジネスが時代にそぐわなくなった場合も同じような選択肢で考えざるを得ない。人件費やインフラの高騰に音を上げて東北地方や海外に工場を移転するのは「移動」という戦略であり、高付加価値の商品に的を絞ったり松下電器のように社名を変えるのは「自分を変える」という戦略だ。インターネットを使ったビジネスなどのように新たに市場そのものを作り出すのは「環境を変える」という戦略に該当するだろう。

空騒ぎ

2008-01-18 14:55:10 | Weblog
 マスコミが鳥インフルエンザの恐怖について騒ぎ立てている。「鳥インフルエンザが突然変異を起こして人から人に感染するようになれば、誰も免疫を持っていないので大流行して大勢の人が死ぬ」と。
 しかしこの話は「突然変異を起こす」ことが大前提になっている。突然変異を起こさなければ鳥だけに感染するインフルエンザでしかない。そんな劇的な変異を警戒するよりは人インフルエンザをもっと警戒したほうが良い。人インフルエンザは既に人から人へと感染する性質を持っている。しかもいつも同じではなくしょっちゅう変異している。新型・人インフルエンザに対しては誰も免疫を持っていないから大感染になる恐れがある。鳥インフルエンザが人に感染するウィルスに変異する可能性よりも、人インフルエンザが更に危険なウィルスに変異する可能性のほうがずっと高い。
 別に他の動物を経由せずとも病原体が変異することは病原性大腸菌O-157の例を思い出せば分かることだ。鳥の病気について騒ぎ立てるよりは人間の既存の病気をもっと警戒すべきだ。鳥インフルエンザについて騒ぎ立てる人は何か口に出せない別の目的を持っているように思えてならない。