俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

地域間格差

2016-09-26 09:55:02 | Weblog
 昭和30年(1955年)にこんな歌が流行った。「♪田舎のバスはおんぼろ車。タイヤはツギだらけ窓は閉まらない。(中略)デコボコ道をガタゴト走る。♪(中村メイコ「田舎のバス」)」
 本当にそんなポンコツ車が走っていたかどうか覚えていないが道路がデコボコだったことは確かだ。剛腕の田中角栄代議士のお膝元の新潟では田んぼの畦道まで舗装されていると聞いて心底羨ましく思ったものだ。
 国鉄(日本国有鉄道・現JR)も東京優先であり地方の電車は中央からのお下がりが大半だった。山手線の電車として役割を終えた電車が大阪市内を走っており、関東の鉄道マニアは懐かしい車両を撮影するために阪和線などに遠征していた。
 関東以外でホームドアを見掛けることは殆んど無いが、関東の小さな駅のホームで事故があればすぐにホームドアの必要性が騒ぎ立てられる。関西にはそれらよりも乗降客数が遥かに多い駅も沢山あるがマスコミは関東にばかり注目する。待機児童が多いからと東京の託児所の充実の必要性が騒がれるが児童の待機率は決して高くない。それどころか地方都市にはまともな託児所さえ殆んど無い。沢山あるのは都会から溢れた老人を預かる老人ホームばかりだ。地方とは都会のための姥捨て山なのだろうか。
 そもそも待機児童ゼロは達成不可能な目標だ。仮に量が足りても質の問題が絶対に残る。そして質の問題は限り無くエスカレートする。託児可能時間とか自宅・駅・職場の3者との距離とか料金とか、幾らでも高望みをするから、当選しても辞退する人が増えるばかりで待機児童が無くなることは無い。これは失業率ゼロと同様に、地平線に辿り着こうとするような目標であることぐらい政治家もマスコミも知っているがこんな人気稼ぎが頻繁に行われている。
 今更こんな愚痴を並べ立てるのは昨今の災害で地域間格差を改めて痛感したからだ。東京ではホームドアや託児所のような贅沢な要求ばかりが並べられているが地方では土地の安全やインフラ整備でさえ不充分だ。
 危険な宅地は地方には沢山あるし傷んだ橋や道路も無数にある。これらは「予算が無い」の一言で見送られているが、都会の贅沢な暮らしを多少改めるだけで解決できることが決して少なくない。
 私の住む伊勢市の下水道普及率はこの9月現在で僅か46.5%であり、平成33年度の目標値は58%だそうだ。こんな数字を都会の人は信じられるだろうか。こんな酷い格差の元での地方創生など絵に描いた餅に過ぎない。一体全体どんな人が地方に住みたいと考えるだろうか。都会の高額な家賃を払えない人以外は殆んど皆無なのではないだろうか。こうして貧乏人も地方に輸出される。
 私は田舎で一人暮らしをする母と同居するために里帰りをしたが、これは生涯で最悪の判断だったと後悔している。里帰りをした時点で私の一生は殆んど終わったようなものだった。質的にも量的にも不本意な晩年を自ら選んでしまった。
 
 

娯楽

2016-09-25 10:37:19 | Weblog
 現実の殆んどが当然の結果か不本意な結果に繋がるが、fictionでは最高の結果に繋がる。だからfictionのほうがfactよりも圧倒的に面白い。小説やドラマのようなfictionの市場がfactの市場よりも圧倒的に大きいのはこんな事情があるからだろう。
 プロ野球のペナントレースにおいてセリーグは広島が優勝した。これは否定できない事実だ。しかし他のチームのファンにとってこれは面白くない。ところがfictionにおいてならどのチームを優勝させることも可能だ。事実を認めたくない人は幾らでもfictionの中で優勝の美酒を味わうことができる。
 パリーグは未だ優勝チームが決まっていない。だからその間、日本ハムとソフトバンクのファンは好きなように予想をすることができる。事実が確定しない内は可能性がある限りどんな予想をすることも許される。
 一般に事実は1つだが嘘は無数に可能だ。空想の世界であれば、織田信長が本能寺の変で死なず、中国の明を倒し更にロシアを経由してヨーロッパに至る史上最大の帝国を築いたといった荒唐無稽な話をでっち上げることもできる。
 こんな歴史の大転換ではなく身近なことの妄想ならもっと易しい。空想の中では誰でもヒーローになれる。つまらない日常の裏には波瀾万丈のドラマが潜んでおり、空想の世界を意のままにできる。空想は事実よりも素晴らしい。似顔絵に描かれた姿は写真よりも美しく、事実に基づくnonfictionよりも適度に脚色したfictionのほうが面白い話になる。だからテレビの歴史ドラマは脚色だらけ・嘘まみれになる。
 現実はドラマチックではない。サラリーマンであればいつものように家を出て何のトラブルも無く電車に乗り職場ではルーティンワークに就いて帰宅する。その間、特筆すべきことは何も起こらない。ドラマならそうではない。電車に乗れば別れた恋人に出会い職場ではトラブルに巻き込まれる。たとえ食事中であってもきっと何かが起こる。
 fictionであればこれらの事件が予定調和の如く上手く収束する。作家は読者・視聴者に満足を与えるために原稿を書くから物語は決して期待を裏切らない。
 人は現実に直面しようとしない。現実は醜いしつまらない。大半が期待外れに終わる。
 プラトンは詩人(作家)をアテナイから追放しようとした(「国家」)。それは詩人が面白くて有害な物語を作るからだ。現実を直視するのではなく勝手な空想世界で甘い夢を語るからだ。
 現代人もまた現実を直視したがらない。社会問題に取り組むことよりも空想やゲームの世界で総てが解決されることを望んでいる。fictionの世界で幾ら解決されても現実は何1つ変わらない。
 fictionに浸ることは逃避だ。そんなことで時間潰しをするよりも現実を直視すべきだろう。たとえ娯楽であっても現実を回避すべきではない。現実回避を奨励するfictionは総て有害だ。

健康

2016-09-24 09:48:38 | Weblog
 初夏に受けた健康診断の結果を見て呆れてしまった。総ての検査数値が基準範囲内つまり「健康」と判定されていたからだ。言うまでも無く当時の私の健康状態は既に生涯最低のレベルだった。食べることさえままならず余命1年程度と思える状態であり体力もボロボロになっていた。かれこれ30年間続けていた健康のための水泳を止めたのも丁度この頃だった。明らかな病人が健康時以上に高く評価される健康診断とは一体何なのだろうか。健康診断とは健康状態を見るための検査ではないようだ。死にそうな病人が健康と判定されるのは指標が根本的に間違っているからだろう。
 女性美の基準は健康診断よりも更に酷い。ミイラのように痩せこけた人が美しいと評価される。昔から佳人薄命と言われるのは、美しい人が夭折するからではなく、死にそうな人を美しいと評価するデカダンスの文化が日本を覆っているからだろう。アスリートの健康美こそ美しいと私は考える。
 異存は大いにあるだろうが、美とは他の価値評価に依存するものだと私は考えている。道具の美は機能性に従属し、女性の美は繁殖力に基づく。概して貧困国では太目の女性が、豊かな国では細目の女性が美しいと評価され勝ちだが、日本の場合、美だけではなく健康まで痩せ過ぎの状態の評価が高い。更に言葉まで歪められている。本来食事を意味するdietが減量の意味で、健康を意味するhealthyが低カロリーの意味で使われている。デタラメな言葉がすっかり社会に定着している。
 思想もデカダンス文化の支配下にある。現状や日本文化を否定する人が文化人とされているから、そんな不健全な社会で真にポジティブであろうとする人は常識を否定するニヒリスト、つまり現状のデカダンスの価値を否定する肯定的ニヒリストたらざるを得なくなる。ではなぜ日本人がデカダンス文化に汚染されたのだろうか?GHQによる洗脳が成功したからだろう。
 第二次世界大戦の終結時にアメリカおよび白人社会にとって重大な課題が2つあった。1つは白人による世界支配体制を維持することであり、もう1つは日本が2度とアメリカ等に逆らえなくすることだった。しかし前者はすぐに破綻した。インドネシア、フィリピン、インドなどで独立の気運が高まりアジア諸国は次々に独立を果たした。その一方で後者は成功を修めた。それは原罪意識を日本人に植え付けることに成功したからではないだろうか。
 キリスト教には奇妙な思想がある。アダムとイブが禁断の果実を食べたことが人間の根源的な罪=原罪とされていることだ。この原罪の思想はキリスト教の宗派によっても解釈が異なるほど難解なものであり、キリスト教ではない私にはさっぱり理解できないが、GHQは日本人に原罪に似た意識を植え付けた。日本人であるということだけで罪であり恥であるという自覚が日本人に植え付けられ、それが現在に至っているのではないだろうか。
 一部の民族には「選民思想」がある。こんな自分達だけが選ばれた特別な民族であるという排他的な思想など要らないが、日本人であるということだけで罪と恥を背負わねばならないという考え方は不合理かつ不健全だ。こんな偏見を植え付けられたからこそ次世代を残すことに罪悪感を覚えて人口は減り続けているのではないだろうか。ベビーブームの主役はこんな邪悪な思想を植え付けられる前の世代だった。

道具

2016-09-23 10:12:23 | Weblog
 かつて「♪お前もいつかは世の中の傘になれよと教えてくれた♪(森進一{おふくろさん」)」という歌詞の歌がヒットしたように、「社会に貢献せよ」とか「人様の役に立て」とか割と平気で言われているがこれは有害な理念だろう。こんなことを教え込まれた人は「役に立たねばならない」と考えて自分を役に立つ人間に仕立て上げようとする。もし役に立つ人間になれなければ「駄目な人間」と考えるだろうし、役に立たない人を見れば「人間のクズ」と考える。
 知的障害者大量殺傷事件の植松容疑者はこんな有害な理念を教え込まれてそれを疑わずに実践しようとしたのだろう。しかし如何せん能力が足りなくて一般社会では「役立たず」だった。だから彼でも役に立てる福祉施設に就職した。しばらくの間、彼は役に立っている自分に満足していたことだろう。しかしその内、彼は気付いた。彼が世話を焼いている相手は「役立たず」ばかりだ。こんな役立たずを大勢生かしておくことは「社会にとって有害」だと思うようになった。そして彼らを殺すことこそ「社会にとって役に立つ」行動と確信した。だから彼は理想の実現のために大量殺人を犯した。これは決して狂気による犯行ではない。誤った理想に基づく狂信的な犯行だ。だから彼は犯行後に薄笑いを浮かべていた。その心境は宗教的理想に燃えて異教徒の殲滅を図るテロリストに似ている。
 数年前に奇妙な事件があった。母親が娘の点滴に異物を混入させて病状を悪化させるという事件だ。当時その母親は「代理ミュンハウゼン症候群」という奇病の患者と診断された。つまり献身的な母親を演じることが生甲斐となってその遂行のためであれば肉親に危害を加えることも厭わない特殊な病気とされた。
 これは病気ではあるまい。ただの異常心理だ。家庭内では役立たずであると自覚していた彼女はこんなやり方によって自分の居場所を創造しようとしたのだろう。「役に立たねばならない」という強迫観念が人を狂わせた。自立できない障害者や病人の世話をすることによって辛うじて自分を「役に立つ人」と位置付けようとするからこんな奇妙な事件が起こる。巷では当たり前のように言い触らされている「社会の役に立て」という言葉が歪みを増幅させる。
 この理念のどこが間違っているのだろうか?人を道具扱いしていることだ。自分を社会の役立つ道具に貶めようとするから他人を、まるで自分が役立つための道具であるかのように扱おうとする。道具と道具の関係だからこそ双方の道具がその道具性を最も発揮できる状況が求められる。しかし人は道具ではない。人は意味も目的も無く放り出された存在だ。無理に意味付けをしようとすれば自分も他人も道具に格下げされてしまう。
 虚構は虚構を要請する。元々意味の無い社会を意味のあるものと思い込もうとするから無理が生じる。意味の無いものに意味を付与しようなどと大それたことを企むから嘘まもれにならざるを得なくなる。嘘の上塗りは矛盾を増幅するだけでありいずれ破綻を招く。

不良品

2016-09-22 09:56:59 | Weblog
 「可能性はゼロではない」という戯言のせいでどれほど多くの無駄が世に蔓延っていることだろうか。
 ネッシーや雪男などが存在する可能性は限りなくゼロに近い。こんなくだらないことを騒いでも無駄ではあるが所詮他愛のない嘘だ。人畜無害である限り言いたい人には言わせておいて無視すれば済む。
 問題になるのは、帰納法を使う限り避けられない、今後例外が見つかる可能性はゼロではないという弱点に付け込んだ誇大広告と過剰警戒だ。
 誇大広告は無数にある。最大かつ最悪のものは宗教だ。殉教すれば天国へ行けるという嘘が典型であり、天国という嘘を使って人の命まで奪おうとする。それと比べて殆んどの誇大広告はせいぜい金銭を奪う程度に過ぎない。健康法とか特効薬とか宝くじなどが挙げられる。幸いなことにこれらによる実害は宗教を除けばそれほど大きくない。しかし詭弁の限りを尽くした宗教のテクニックが流用されることによって騙しのテクニックも高度化し洗練されつつある。「買わなきゃ当たらぬ宝くじ」という宣伝文句は歴史にも残りそうなほど優れたコピーであり阿呆でなくても騙されそうなほど良くできている。
 誇大広告以上に過剰警戒が現代社会には蔓延している。「良い」という嘘には容易に騙されない人でも「悪い」という嘘には容易く騙されるのは実に奇妙なことだ。これは「良い」という嘘には商売が密接に絡んでいるのに「悪い」という嘘には利害関係が見えにくいからだろう。悪いという嘘は基本的には物品の販売を目論んではおらず、情報を売ろうとしているからその正体が気付かれにくい。人類史上、情報が商品価値を持った時代はごく短いから人類にはこんな有害物に対する免疫力が備わっていない。
 過剰警戒のネタはそれこそ無数にある。天が落ちる、地が裂ける、水没するといった天変地異は勿論のこと、病気・事故・失業・失恋・不合格等、何でも対象になる。これらの大半は物品の販売を伴わない。売るのは情報だけだ。だから犯人となるのは大半がマスコミだ。マスコミは情報を売るために徹底的に嘘を利用する。
 刑法上の重大な不備もある。不良物品の販売であれば数千年に亘る商業史に基づく商業倫理があり、それに基づいて世界中どこでも通用するような商業道徳が形成されている。ところが不良情報の販売についてはその歴史が余りにも短いこともあり商道徳が形成されていない。このことを図らずも証明したのが朝日新聞だ。
 朝日新聞は長年に亘って「従軍慰安婦の強制連行」という嘘を売り続けた。それにも拘わらず不良品を売ったことに対する刑罰を何1つ受けていないし読者による損害賠償請求にも応えようとはしない。これは現代の刑法では不良物品の販売に対する罰則はあっても不良情報の販売は免責されるということだろう。
 死にかけていたゴシップ週刊誌が急激に蘇ったのは朝日新聞の実例によって、個人に直接危害を加えない限りどんな嘘でも許されるということが証明されたからだろう。情報が今後ますます嘘まみれになると思えば絶望的な気分になる。「可能性はゼロではない」という詭弁を規制するルールを設けなければ情報の世界が今後はとんでもない嘘だらけの世界になってしまう。これは言論の自由のための課題でもある。嘘をつく権利が認められれば言論の場が混沌になり正しい情報が嘘によって埋め尽くされることにもなりかねない。正しい情報は基本的にはただ1つだが、贋の情報のバリエーションは無数に可能であり、しかも幾らでも面白可笑しく加工できる。正しい情報を見付けることが至難になれば言論の自由などあり得ない。

オカルト?

2016-09-21 09:56:52 | Weblog
 昨日は台風16号が私の住む三重県を通過したために、腹痛が治まらない不快な一日だった。こんなことを書けば必ず突っ込みたがる人がいる。「天候と健康に因果関係は無い」と。こんな「科学的な」人が科学の発展の邪魔をする。実際には関係のあることに対して「非科学的」というレッテルを貼って頭から否定しようとする。
 天候によって慢性的な疾病が悪化することは確実な事実だろう。関節痛や頭痛などの増加は単に心理的なものではなく物理的な因果だと思える。それを非科学と決め付ける人がいるから学問の自由が奪われる。「元気がないのは天気のせいだ(俵万智『サラダ記念日』)」は充分に科学的だ。ドイツには健康への影響について論評する健康天気予報もあるそうだ。
 私は地震予知をオカルトと決め付けているが、新月や満月と地震は無関係ではなかろう。潮の干満の原因となる月と太陽は地殻変動にも影響する。偏見に基づいて考慮の対象から除外しようとする姿勢こそ非科学的だ。
 科学には少なからずタブーがある。人種や男女などの能力差について積極的に論じることは憚られている。これは能力の違いを価値の違いと同一視する愚かな人がいるからだ。まるで商品に対するように、人の能力差を金銭的価値に換算しようとする。他人を道具や商品のように見なす人は他人を道具のように位置付ける。自分にとって有用かどうかで評価する。あるいは社会にとって有用かどうかが客観的な価値だと思い込んでいる人もいる。しかし個人は他者によって利用されるための道具などではない。
 男性は女性よりも大きくて力も強い。しかしこのことを根拠にして男性のほうが優れているとは言えない。白人も黒人も黄色人種よりも大きくて力も強い。しかしそれを根拠にしてアジア人を劣等民族と考える日本人はいない。個体差は優劣ではない。差別をするためではなく共存するためにそれぞれの特性を正しく理解すべきだ。
 男性のほうが力が強いからこそ偉そうにするのではなく重い荷物を背負うべきだ。能力の違いを認め合うことによってお互いが快適に暮らせる。そんなことは、お互いが異なるということを認め合ってこそ可能になる。人種の違いも男女の違いもある。事実を知らせまいとする偏見に満ちた人が正当な研究に因縁を付けてオカルトのように扱わせようとする。
 星座とスポーツ、血液型と性格も決して無関係ではない。勿論、星座が人の運命を支配するなどと馬鹿なことを言おうとは思わない。原因になるのは学年分けだ。4月や5月生まれの児童は同級生よりも少しだけ成熟しており、特に低学年においてはスポーツのリーダー的立場を任され易い。だから日本の団体スポーツにおいては4・5月生まれの好選手が多くなる。その原因は星座ではなく学年の区切りだ。入学が暦どおりの1月である国では1・2月生まれのアスリートが多い。
 血液型は実は免疫型であり、病気に対する耐性がそれぞれ異なる。病気に備える姿勢が違えば社会への対応姿勢も変わりそれが性格の違いとして現れ得る。
 現代科学のジャンルから外れる研究をオカルトと決め付けるべきではない。かつてはオカルトだった錬金術は洗練されて化学の基礎となった。精神力によって物を動かす超能力はオカルトだったが、脳波を捕えて義足や義手を動かすことは最先端医療技術だ。事実を拒絶することが文明化・科学化の邪魔をする。

見栄え

2016-09-20 09:57:38 | Weblog
 柔道にせよ総合格闘技にせよ、立ち技と比べて寝技は見栄えがしない。寝技が多ければショーとして成立しにくくなる。
 政治にも立ち技と寝技があり、有能な政治家は寝技に長けていた。ところがマスコミ受けが問われるようになると寝業師よりも小泉純一郎氏のような立ち技師が高く評価されるようになった。
 女性政治家が注目され易いのは立ち技で勝負をしようとするからだろう。地味な根回しよりもマスコミを味方に付けた大立ち回りを彼女らは好む。それは、彼女らが子供の頃から外見に気を配るように躾けられていたからだろう。
 しかし女性政治家の取り組み姿勢は薄っぺらと思えてならない。厚化粧によって外見を取り繕うばかりで内面的な深みは感じられない。ふと子供の頃のことを思い出した。小学生であっても問題を自分達だけで解決しようとするものだ。ところが「告げ口女」がいて自分一人だけ良い子になろうとして先生に告げ口をしてそれをぶち壊す。良い子ぶるとは実に卑劣な行為だと子供心に感じたものだ。
 政治家は男女を問わず見栄っ張りな人種だ。人気商売だから世間に注目されなければ票を集めることができない。そのためには冷徹なほどの打算が必要だ。堅実に仕事をこなしつつ注目を集めることはかなり難しい。多くの政治家はこんな社会で立ち技も寝技も磨いている。
 一方、今注目されている二人の女性政治家はどちらも芸能界出身者だ。芸能人として注目されるためのテクニックを充分に身に付けている。しかし女性芸能人は男性以上に外見によって評価され勝ちだ。そんな社会にした責任の大半は男性にあるのだろうが、二人共に口先だけの薄っぺらい人と思えてならない。これは全くの偶然だが二人の名前には「百合」や「蓮」といった花が含まれている。芸能界出身という経歴こそ最大の弱点だろう。確かに若くして有名人になる道は芸能かスポーツしか無いだろうが、芸能界はあらゆるビジネスの中で最も常識が通用しない社会でもある。そんな社会での経験は余り役に立たない。
 特に小池百合子知事には大いに不安を感じる。就任早々にちゃぶ台返しをして喝采を浴びたがどうオトシマエを付けるつもりなのだろうか。良識ある人であれば初めから落としどころを考えて騒動を起こすものだが、彼女にそんな深慮遠謀があったようには思えない。今後を問われると「指示をした」と繰り返すが「解決せよ」と指示をしても解決できる訳ではない。全くの世間知らずなのではないだろうか。幾ら幹部を補強しようとしても具体的なビジョンが欠けていれば患部ばかりが補強される。「良きに計らえ」に近い指示しか出せなければ殿様にならなれても首長の職務は勤まらない。
 攻撃力と守備力は一致しない。寝技の得意な老練な政治家であればまず身辺の守りを固めるが、攻撃に頼る人は守りを軽視して墓穴を掘り勝ちだ。小池知事は空に向かって唾を吐いた。それはいずれ自分の頭上に落ちて来る。どう対処するつもりなのだろうか。私は大いに不安を感じる。
 ここまで問題が拡大してしまえば最早豊洲への移転は不可能であり築地での存続が唯一の選択肢になってしまった。こんな強引なやり方が都民ファーストの名に値するのだろうか?
 私は男女には違った能力があると考えている。だからこそ女性政治家の活躍には期待したい。しかし全女性を代表すべきなのは、男性に媚びることによってその地位を得た芸能人崩れではなく、能力によって男性を凌いだ学者・研究者であるべきだろう。ドイツのメルケル首相もアメリカのクリントン候補も芸能界とは無縁だ。政治家にとって最も重要なのは泥臭い実務能力であって、見栄えに頼っていれば問題解決には繋がらない。最初の内こそ犯行を暴く探偵役が許されようが、知事に求められるのは解決力だ。そうでなければ行政の責任者は勤まらない。

障害者のスポーツ

2016-09-19 09:53:05 | Weblog
 パラリンピックの走り幅跳びを見ていてこんなことを思い出した。
 オリンピックの参加資格が「アマチュアであること」だった時代にこんなエッセイを読んだ。「20xx年からオリンピックの参加資格が大幅に緩和されて『人間であること』とされた。100m走の決勝に残ったのはいすれ劣らぬ超人ばかりになった。流石にジェット噴射までは認められないが、サイボーグや、薬によって徹底的に培養して作られた人、遺伝子操作による新人類、スポーツエリートを厳選してその人工交配によって生まれた超スポーツエリート、あるいはチーターと共に育てられて走ること以外何一つ学ばなかった野生人等、実に様々な顔ぶれとなり、3mを越える巨人もいた。レースは4本足で走るチーター男がスタート直後は先行したが最新のメカによって強化され尽くしたサイボーグ選手が圧勝した。優勝タイムは3.0秒だった。」
 こんな粗筋の寓話から始まって当時のステート・アマ制度を皮肉っていたが、今こんな話を聞けばパラリンピックに対する皮肉のように思える。アマチュアであることを障害者であることに置き換えればパラリンピックは非常に奇妙な見世物と感じられる。
 障害者であるということだけが条件であれば技術競争の場になる。選手ではなく補助器具の優劣が勝敗を決めるからだ。F1が自動車の性能競争であるようにパラリンピックは補助器具の競争の場になる。
 そんな競争になれば、時間を掛けて個人の能力を高めるよりも、その器具さえあれば誰でも超人になれる着脱自在な強化スーツが注目されるようになるだろう。その時点では参加者を障害者に絞る必要性など失せてしまう。最早スポーツでさえなくなって工業製品の品評会になってしまう。
 パラリンピックは既に工業技術を競争するたの場になっている。1台1500万円と言われる競技用車椅子はあらゆるスポーツ大会で使われる補助器具の中で最も高価だろうし、走力やジャンプ競技に使われるオーダーメイドの義足は勝敗の鍵を握る。何とも贅沢な競技だから、補助器具の市場が巨大な先進国でスポンサーを見付け出さない限り勝ち目は無い。
 パラリンピックの選手は2種類あり、先天的障害者と後天的障害者だ。後天的障害者は更に2種類に分けられ、交通事故の犠牲者と戦争での被災者だ。戦争での被災者は被災した市民と負傷した兵士に2分できる。常に戦争を続けているアメリカの場合、負傷を負った兵士の社会復帰が大きな社会問題になっており、障害者スポーツは重要な就職先になっているようだ。重い傷を負った兵士のための第二の人生の場まで提供するとは何と凄い「福祉大国」なのだろうか。ここまで配慮されているからこそアメリカ人は遠い異国まで出掛けて障害者になることさえ厭わずに「死の商人のために」戦うのだろう。

お節介

2016-09-18 10:12:57 | Weblog
 食道癌を患って以来、多くの人から色々な勧奨をされるようになった。民間療法であったり、健康法であったり、健康食品であったり様々だ。中には私が大学時代に好んだパスカルによる神の存在証を持ち持ち出す人もいるが、医療関係者からの真面目で科学的な推奨以外は総て門前払いにしている。
 最近では割と広く知られるようになったパスカルによる確率論に基づく神の存在証明とは次のようなものだ。キリスト教の信者には永遠の至福が約束されており、この教義が真実である可能性がたとえ一万分の1%であったとしてもその期待値は無限大になる(∞×1/1,000,000=∞)。こんな有利な賭けは他には無いのだから、どんな事情があろうともキリスト教徒になったほうが得だ、というものだ。同じ論法を使えるから癌を克服するためなら何にでもチャレンジするべきだと彼らは言う。
 40年以上前の時点ではパスカルによるこの証明は余り広く知られていなかったので私は頻繁にあちこちでい言い触らしたものだが、その後は様々な形で悪用されるようになってしまった。インチキ宗教や健康食品、あるいは「買わなきゃ当たらぬ宝くじ」などの「当たって砕けろ」式の所謂ポジティブ・シンキングの類いとしても乱用されている。バタフライ効果まで考えれば、私がこんな迷惑な勧誘方法の拡散に貢献してしまった可能性もあるだけに、私としては不愉快な記憶だ。
 この理屈が迷惑であるのは非科学の敷居を低くするからだ。否定されていないという理由だけで軽い気持ちで受け入れてキリスト教徒になってしまってから次々に試練が与えられてその内どっぷりと漬かってしまうことにもなりかねない。相手の敷居を下げさせて入り込む手口は今やFoot in the doorと呼ばれてセールスマンにとって必須のテクニックにまでなっている。宗教やイデオロギーにカブれている人の大半がそんな経験をしている。「お試し」のつもりで参加して酷い目に遭っている人は決して少なくない。こんな現状から断言できることは「とりあえずやってみることが大きな不幸を招く可能性もまたゼロではない」ということだ。その典型例がオウム真理教の信者だろう。
 誰でも1つや2つの迷信を持っている。もし100人からのそんな忠告を一々受け入れていれば身動きが取れなくなる。毎日ニンジンとキノコと納豆を食べ、7時には起床してジョギングをして腹式呼吸に励み、酒や煙草などは厳禁だ。取り敢えず受け入れていればこんな最大公約数的でくだらない漫画的な健康生活を強いられる。肉や酒の有益性と有害性についてはお互いに相容れない矛盾した提案を受けることになり、結局のところ自分の恣意的な判断に頼ることになる。
 アドバイスの中には有害なものも混じっている。無農薬・無添加食品や絶食療法などは有害である可能性のほうが高い。買わなければ当たらないと信じて宝くじを買い続けていればほぼ確実に貧乏になるだろう。
 他者依存によるこんな惨めな生活を避けるためには、信頼できる専門家以外からの無責任・無根拠な提案など一切無視するべきだろう。彼らの多くに悪意は無いだけに不本意なことかも知れないが、残り少ない余命を下手な鉄砲の試射場にしてしまう義務などあるまい。
 アドバイスする側も無責任な勧誘は慎んで、尋ねられたら答える、嫌がる素振りが少しでも感じられたら自重する、というぐらいの節度を持つべきだ。無知に基づく善意は個人的趣味の押し付けに過ぎないだけに迷惑この上無く、これを「余計なお節介」と言う。

不快と苦痛

2016-09-17 09:58:11 | Weblog
 意識が無ければ痛みを感じない。最も極端な例は麻酔を使った手術であり、麻酔によって意識を失った患者は手術中も手術後も痛みを感じない。意識を失ったまま術死する患者は何の痛みも感じないまま死ぬ。泥酔している人も痛覚が鈍る。酔っ払いは怪我を余り気にしない。プラシーボ効果もノーシーボ効果も先入観が意識に影響を与えるから起こる。
 殆んどの子供は注射を怖がるが、彼らが本当に怖がっているのは注射の痛みではなく針を刺すという行為だろう。だから彼らは注射の痛みとは不釣合いなほど泣き叫ぶ。事故による同等の傷であればあれほど騒がない。
 激痛だけではなく人々が鈍痛まで怖がるのは本能の指示に基づく。本来、鈍痛は耐えられないほどの痛みではない。鈍痛が本能を刺激するから軽度な痛みまで恐れさせる。
 痛みは本来警鐘だ。ここが傷んでいる、ここを保護せねばならない、という情報だ。だから痛みがあれば人は必要以上に警戒する。それは痛みそのものではなく、痛みが本能に働き掛けることによって作られた恐怖があるからだ。鈍痛そのものは大した苦痛ではない。鈍痛は本能を刺激し刺激された本能が感情を動かすから大きな苦痛であるかのように錯覚する。
 不快感は必ずしも苦痛と感じられる訳ではない。ステントを装着する前であれば、私は多少の鈍痛があっても泳ぎに行ったものだ。しかしステント装着後はそれまでは不快感に過ぎなかった鈍痛が苦痛に変質して泳ぐ意欲を失わせた。もう治らないという意識が、鈍痛に対する評価を不快感から苦痛に変えた。
 子供の頃から私はずっと下痢体質だった。ところが抗癌剤治療をきっかけにして便秘体質に変わった。初めの内はこれを喜んでいた。トイレのために使われる無駄な時間が減ると思ったからだ。しかし2週間以上便秘が続くようになると評価を変えざるを得なくなった。下腹部の膨満感や排便時の痛みを経験することによって便秘を警戒するようになり当初のように無邪気に肯定できなくなった。
 初めての飲酒は決して快適なものではなかろう。体温が上昇して思考力が低下するのだから風邪の初期症状のようなものだ。これは決して快適ではない。これを心地良く感じるためには価値評価を逆転させる必要がある。飲酒時の軽い脳機能の低下を快適と感じるようになって初めて飲酒が楽しくなる。
 鈍痛などの軽度の不快感の大半は決して耐え難いレベルではない。鈍痛の位置付けが変わることによって不快から苦痛へと変質する。マゾヒストになる必要は無いが不快を受け入れることができれば苦痛が減少する。不快を恐れず毛嫌いさえしなければ不快との共存は可能だ。最早回復不可能な慢性的な不快に対して神経質であることは近所の騒音に過敏であるようなものだ。不快を許容できるようになれば苦痛が減少し、不快に対する不寛容は苦痛を増幅させる。