電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『沖で待つ』

2006-02-19 11:49:25 | 文芸・TV・映画

 第134回芥川賞受賞作は、絲山秋子さんの『沖で待つ』という作品だった。私は、文藝春秋の3月号に掲載されているのを読んだ。これまでも意欲的に作品を発表してきた作家のようだが、私は絲山さんの作品は始めて読んだ。だから、この作品が彼女の作品の中でどのような系列に属するかは全く知らない。ただ、昨年までの芥川賞とは全く異質な作品であることは確かなようだ。彼女は、1966年生まれで、早稲田大学を卒業後、住宅設備機器メーカーに就職し、2001年に退職したというから、この作品は彼女のよく知っていた世界を素材にした作品であるようだ。しかし、今までの芥川賞を受賞した作品で、これだけサラリーマンとしてのふつうでありふれて人物像を描いた作品はないのかも知れない。

 主人公の「私」は、住宅設備機器の総合職に就職し、営業で全国を飛び回るいわばキャリアウーマンといってもいいのかも知れない。「私」と同期入社の牧原太(まきはらふとし)とよくある関係を描いている。よくある関係といっても恋愛関係なんかではなく、同期入社の関係である。入社早々に配属されたのが、九州の福岡である。戦争の時だったら、きっと戦友というのだろうな、というのが私の印象だった。二人とも東京の大学に入り、東京で大手の会社(全国にかなり大きな支社があるらしい)に入り、そのまま地方に配属されることになったわけだが、二人の出会いは、偶然であるが、二人はなんだか精神的につかず離れずの関係になる。

 牧原太は、福岡で社内恋愛をして、結婚する。数年後、彼は人事異動で東京に来る。そして先に埼玉に異動させられていた「私」とまた、再開することになる。そして、二人は、戦友のように、お互いの秘密がPCのHDDに隠されており、そのお互いのパソコンのHDDの中身をもし何かがあったら残った方にこっそり消して貰うことを約束し合う。当然、相手がそこに何を保存していたかは見ないことにして。二人は、そこに何があるか、あまり興味のない関係でもあるわけだ。気軽に約束したものの、そんな約束などきっと果たすようなことはないとたかをくくっていた「私」だが、約束を果たさなければならなくなってしまう。

 牧原太は、東京のマンションで出勤しようと出たところで、7階から投身自殺があり、直撃を受け即死してしまったのだ。何のミステリー性もないし、太が死ななければならない必然性もない。その死には、どう考えても何の「意味」もない。これほど無意味な死はない。そして、「私」は、会社で始めて泣き、泣き終わってから、かねてからの約束を実行することになる。「私」は、約束通り、死んだ牧原太のパソコンのHDDの中身を読めないようにした。そこに何が置かれていたかは、不明のまま。後日、牧原の奥さん(珠恵)に会いに行って、牧原が書いていた詩を見せられることになる。

珠恵よ
おまえは大きなヒナゲシだ
いつも明るく輝いている
抱きしめてやりたいよ

夕暮れおまえのことを思いだす
夕陽は九州に向かって沈んでいく
珠恵 珠恵 珠恵
夜になってもさびしがるなよ
俺の心はおまえのものだから(文藝春秋3月号p395)

 「私」はあまりに下手くそな詩にあきれつつも、「私」が消したHDDの中身はおそらく、こうした詩が一杯書かれていたことに思い当たる。ノートに書かれていた詩の一節に次のようなものがあった。

俺は沖で待つ
小さな船でおまえがやって来るのを
俺は大船だ
何も怖くないぞ(同上・p396)

 この詩の「沖で待つ」というのがこの作品のタイトルになるわけだが、下手な詩だけれども妙に心に主人公の「私」の心に残る言葉だった。

 太っちゃんはわはは、と笑って、
「ばかな一生だったなあ」といいました。
「同期って、不思議だよね」
「え」
「いつ会っても楽しいじゃん」
「俺も楽しいよ」
……中略
「楽しいのに不思議と恋愛には発展しねえんだよな」
「するわけないよ。お互いのみっともないとこみんなしってるんだから」(同上・p400)

 私とは、ちょっと理解の仕方が違うような気がするが、「同期」という関係が特殊な関係であることは分かるような気がする。それは、ある種の時代の共有感だと思う。ある種の時間と空間を一緒に過ごしたという偶有性とでも言えばいいのかも知れない。この小説の初めと終わりに書き留められている、死んでしまった太と「私」とのメルヘン的な会話は、何の必然性もなく死んでしまわなければならなかった太の「死」に対する作者の「鎮魂歌」なのかも知れない。なんだか、それだけが妙にリアリティーがあり、それ以外のところは、なんだが、すぐに忘れてしまいそうな印象なのだ。

 3年ほど前、私の大学の後輩が、9階建てのマンションの屋上から飛び降り自殺をした。幸い、だれも巻き添えを食ったものはいないが、場合によっては誰かを殺していたのかも知れない。死というのは、おそらく、自分の問題ではないのだ。彼のほうは、牧原太よりもう少し文学青年で、それなりの作品を書いていて、西行法師の命日に、西行法師に憧れてか、覚悟の自殺をした。もちろん、彼の言動や友だちからの印象では、生きることへの悩みなど読み取れなかったらしい。もちろん、彼の残された作品からいろいろ邪推することは可能だ。人は、誰かの「死」に出会うと、必ずその「死」の意味を考え、物語を紡ごうとする。しかし、「死者」は、何も語らないし、何も意味しないものらしい。

 私の野次馬根性からすれば、牧原太の上に投身自殺をした人間がどんな人間で、なぜ自殺などしたのか、そして彼は死んでしまったのかどうか、知りたくなる。しかし、『沖で待つ』の「私」は、それらについては、興味がないらしい。戦友は、年を取り、一人一人と死んでいく。そして、いずれ残された自分も最後は死ぬ。私の大学時代の同級生も、何人か死んだ。いつの頃か、そういうものだと諦めつつある自分に愕然とすることがある。会社の中でも、私より若い者が何人が死んだ。一時、噂と邪推で職場で話題となるがやがてそれらは風化し、忘れられていく。

 毎日、新聞をにぎわしている殺人事件には、動機があり、その社会性が新聞等で話題になり、ある種の物語を紡ぎ出すと、やがて忘れられていく。そうした物語は、たとえ忘れられていくとしても、おそらくそれなりの時代の象徴になった物語だと言うこともできる。絲山秋子さんは、決して時代の象徴になどなることのない、惨めな殺人事件(自殺した人に殺されたことになる)に巻き込まれ、ほとんど無意味に死んでしまったサラリーマンとのさめた心の交流を敢えて描くことによって、現代の賑やかな事件を相対化したかったのかも知れない。

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