二つの世界といえば、私たちは常に二つ(あるいは二つ以上)の世界に住んでいるのですね。
たとえば、パソコンに向かってこれを書いている私の世界と
パソコンの中で繰り広げられる様々な世界。
本や映画やフィクションの中の世界。
現実と(言ってみれば)空想、想像、妄想、虚構の世界。
でも、こっちが現実というのは確かだろうか。
どっちが現実でどっちが虚構か・・
果たして、私は存在するのか?
・・とここまで来ると哲学的な問題になってきますが。
まあ、それはともかく、
夕べはHuluでちょっと変わった映画を見ました。
「タイム・チェイサー」
SFのタイムトラベルものです。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の亜流みたいな映画で、あまりお勧めじゃありませんが。
人物造形がイマイチな上に家族が死にまくるし、タイムトラベルのために無理やり作ったストーリーという感じです。
でもね、あの人が出ているんです。
ハーレイ・ジョエル・オスメント君。
「シックス・センス」の男の子。
成人し、髭もはやし、すっかり大人ですが、まだ面影はあります。
このハーレイ君が主人公のエロルを演じています。
エロルはMITに入れるくらいの数学の天才ですが、子どもの頃父親が失踪し、以来おかしくなってしまった母親を支えながら、細々と暮らしています。
そこへ、ある日、彼の祖父からとんでもないことを打ち明けられます。
父親が失踪したのは、実はタイムマシンで過去に戻り、アインシュタインに会いに行くためだったというのです。アインシュタインに会って原爆の開発をやめさせるとか何とか(この辺、よくわからなかった)そんな目的だったようです。
ここからはネタばれになりますが(まあ、見るまでもない映画ですが)
父親は、アインシュタインに会いにいく途上で、不運なことに暴漢に殺害されてしまいます。新聞記事からそれを見つけたエロル。
そこで、祖父は彼に、父親が作ったタイムマシンを使って過去に戻り、父親を連れ戻そうと提案します。
でも、エロルは彼女との間にアレコレあり、母親もアレコレありで、
身辺がゴタゴタしていて、おじいさんの提案には乗れないでいたのですが、
結局、母親も、彼女が身ごもった子どもも死んでしまい、現在に留まる理由がなくなります。この辺りがね、いかにもご都合主義ですね。何も殺さなくても・・
で、エロルは無事過去に戻り、父親を説得し、アインシュタインに会いに行くのを断念させるのですが、
この断念のさせ方も酷い。ここがいちばん酷いシーンだと思います。
彼はピストルで自分の頭を撃ち抜き自殺します。
なぜなら、そうでもしないと父親がアインシュタインに会いに行くことを断念しないと思ったからでした。
他に選択肢はなかったのか?
最後は、彼が幼い日、父親が出発した当日に戻ります。
父親はアインシュタインに会いにいくことを断念して帰宅し、
「あら、ずいぶん早かったのね」と奥さんに言われて、おしまい。
めでたしめでたし。チャンチャン。
とまあ、ひどい映画なのですが、それでもタイムトラベルものは面白い。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でも気になったのですが、
過去に戻り、過去を変えるたびに新しいタイムラインが現れる、というドクの仮説は、パラレルワールドが存在するという前提があってのことなんですね。
で、パラレルワールドが存在するとしたら、タイムラインが変わって父親が死なない世界のエロルは幸せに成長するのでしょうけれど、彼を送り出した祖父のタイムラインはそのまま残っているはずで、祖父にとっては皆いなくなってしまった世界に一人取り残されるということになるわけです。
エロルはどうやっても前のタイムラインにいる祖父に「僕は元気でいるから」と伝えることはできないのです。また、新しいタイムラインで自殺したエロルは、どうやっても生き返ることはありません。
こうして、事件が起きるたびに新しいタイムラインが発生するとなると、パラレルワールドは様々に枝分かれしてそれこそ星の数ほどの人生(の可能性)が一人の人間の一生の間に発生するわけですね。その辺りをうまく表現したのが、前回紹介した「ミスター・ノーバディ」でした。
話はころっと変わりますが、
9.11のアメリカ同時多発テロが勃発した夜のことは鮮明に記憶しています。
深夜おそくまでTV画面に釘付けになっていました。
その時、私はふと、こんなことを思ったのでした。
「ああ、私はこちら側を選んでしまった・・」
つまり、どこかにまだ同時多発テロが起きていない世界があって、ちょっと手を伸ばせばそちら側に行くことができたのに、私は何を間違えたかこちらの世界に来てしまった・・とそんなことを考えたのでした。
もちろん、私の空想の産物なのですが、
先日、村上春樹が同じようなことを言っていたのをきいて、びっくりしました。
彼もまた、あの日、あのシーンを見て、こっちの世界を選択してしまった、と思ったというのです。
おそらく、そう感じたのは、私と村上春樹だけではないと思います。
多くの人たちが無意識のうちに、何かとんでもない選択をしてしまったと思ったにちがいありません。
世界を変えるほどの大事件の際には、それこそ星の数ほどの分岐が生じるはずで(こうなるとSFの世界の話になってくるのですが)その中の一つを選ぶ、というのはどういう運命のいたずらなんだろうか。そして、どういう理由で私はたった一つを選んだのだろうか。
別の世界を選んだ私もパラレルワールドの別のタイムラインにいて、いつか交差することってないんだろうか・・
なーんてことを、あれ以来時々考えます。
不思議なことに、そこでは、常に「私」が選ぶのであって、誰かに強いられるといった感じはありません。翻弄されるにしても、翻弄される人生を私が選ぶといった感じでしょうか。やはりどんな人生も私自身が選んだ結果なのでしょう・・
異論はあるかと思いますが、基本的に私の人生は私が選ぶしかないというのはやはり真実である気がします。
言ってみれば、どんな人生だって選ぶことができる(はず)なんですけどね。
だからこそ、荒唐無稽に見えるSFやタイムトラベルものが人気なのだと思います。
どこかに別の世界がある気がしてならない・・
そして、考えます。
どうすれば、そっちの世界に行けるだろうか、と。
たとえば、パソコンに向かってこれを書いている私の世界と
パソコンの中で繰り広げられる様々な世界。
本や映画やフィクションの中の世界。
現実と(言ってみれば)空想、想像、妄想、虚構の世界。
でも、こっちが現実というのは確かだろうか。
どっちが現実でどっちが虚構か・・
果たして、私は存在するのか?
・・とここまで来ると哲学的な問題になってきますが。
まあ、それはともかく、
夕べはHuluでちょっと変わった映画を見ました。
「タイム・チェイサー」
SFのタイムトラベルものです。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の亜流みたいな映画で、あまりお勧めじゃありませんが。
人物造形がイマイチな上に家族が死にまくるし、タイムトラベルのために無理やり作ったストーリーという感じです。
でもね、あの人が出ているんです。
ハーレイ・ジョエル・オスメント君。
「シックス・センス」の男の子。
成人し、髭もはやし、すっかり大人ですが、まだ面影はあります。
このハーレイ君が主人公のエロルを演じています。
エロルはMITに入れるくらいの数学の天才ですが、子どもの頃父親が失踪し、以来おかしくなってしまった母親を支えながら、細々と暮らしています。
そこへ、ある日、彼の祖父からとんでもないことを打ち明けられます。
父親が失踪したのは、実はタイムマシンで過去に戻り、アインシュタインに会いに行くためだったというのです。アインシュタインに会って原爆の開発をやめさせるとか何とか(この辺、よくわからなかった)そんな目的だったようです。
ここからはネタばれになりますが(まあ、見るまでもない映画ですが)
父親は、アインシュタインに会いにいく途上で、不運なことに暴漢に殺害されてしまいます。新聞記事からそれを見つけたエロル。
そこで、祖父は彼に、父親が作ったタイムマシンを使って過去に戻り、父親を連れ戻そうと提案します。
でも、エロルは彼女との間にアレコレあり、母親もアレコレありで、
身辺がゴタゴタしていて、おじいさんの提案には乗れないでいたのですが、
結局、母親も、彼女が身ごもった子どもも死んでしまい、現在に留まる理由がなくなります。この辺りがね、いかにもご都合主義ですね。何も殺さなくても・・
で、エロルは無事過去に戻り、父親を説得し、アインシュタインに会いに行くのを断念させるのですが、
この断念のさせ方も酷い。ここがいちばん酷いシーンだと思います。
彼はピストルで自分の頭を撃ち抜き自殺します。
なぜなら、そうでもしないと父親がアインシュタインに会いに行くことを断念しないと思ったからでした。
他に選択肢はなかったのか?
最後は、彼が幼い日、父親が出発した当日に戻ります。
父親はアインシュタインに会いにいくことを断念して帰宅し、
「あら、ずいぶん早かったのね」と奥さんに言われて、おしまい。
めでたしめでたし。チャンチャン。
とまあ、ひどい映画なのですが、それでもタイムトラベルものは面白い。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でも気になったのですが、
過去に戻り、過去を変えるたびに新しいタイムラインが現れる、というドクの仮説は、パラレルワールドが存在するという前提があってのことなんですね。
で、パラレルワールドが存在するとしたら、タイムラインが変わって父親が死なない世界のエロルは幸せに成長するのでしょうけれど、彼を送り出した祖父のタイムラインはそのまま残っているはずで、祖父にとっては皆いなくなってしまった世界に一人取り残されるということになるわけです。
エロルはどうやっても前のタイムラインにいる祖父に「僕は元気でいるから」と伝えることはできないのです。また、新しいタイムラインで自殺したエロルは、どうやっても生き返ることはありません。
こうして、事件が起きるたびに新しいタイムラインが発生するとなると、パラレルワールドは様々に枝分かれしてそれこそ星の数ほどの人生(の可能性)が一人の人間の一生の間に発生するわけですね。その辺りをうまく表現したのが、前回紹介した「ミスター・ノーバディ」でした。
話はころっと変わりますが、
9.11のアメリカ同時多発テロが勃発した夜のことは鮮明に記憶しています。
深夜おそくまでTV画面に釘付けになっていました。
その時、私はふと、こんなことを思ったのでした。
「ああ、私はこちら側を選んでしまった・・」
つまり、どこかにまだ同時多発テロが起きていない世界があって、ちょっと手を伸ばせばそちら側に行くことができたのに、私は何を間違えたかこちらの世界に来てしまった・・とそんなことを考えたのでした。
もちろん、私の空想の産物なのですが、
先日、村上春樹が同じようなことを言っていたのをきいて、びっくりしました。
彼もまた、あの日、あのシーンを見て、こっちの世界を選択してしまった、と思ったというのです。
おそらく、そう感じたのは、私と村上春樹だけではないと思います。
多くの人たちが無意識のうちに、何かとんでもない選択をしてしまったと思ったにちがいありません。
世界を変えるほどの大事件の際には、それこそ星の数ほどの分岐が生じるはずで(こうなるとSFの世界の話になってくるのですが)その中の一つを選ぶ、というのはどういう運命のいたずらなんだろうか。そして、どういう理由で私はたった一つを選んだのだろうか。
別の世界を選んだ私もパラレルワールドの別のタイムラインにいて、いつか交差することってないんだろうか・・
なーんてことを、あれ以来時々考えます。
不思議なことに、そこでは、常に「私」が選ぶのであって、誰かに強いられるといった感じはありません。翻弄されるにしても、翻弄される人生を私が選ぶといった感じでしょうか。やはりどんな人生も私自身が選んだ結果なのでしょう・・
異論はあるかと思いますが、基本的に私の人生は私が選ぶしかないというのはやはり真実である気がします。
言ってみれば、どんな人生だって選ぶことができる(はず)なんですけどね。
だからこそ、荒唐無稽に見えるSFやタイムトラベルものが人気なのだと思います。
どこかに別の世界がある気がしてならない・・
そして、考えます。
どうすれば、そっちの世界に行けるだろうか、と。