Netflixオリジナル映画「ディック・ジョンソンの死」を紹介したいと思いますが、どう紹介すればいいか悩むところです。
すごくいい映画なので見るべし、とは言い難いけれど、でも、いろんな気づきがあるので、見てもいいんじゃないか、とまあそんな感じです。
キルステン・ジョンソン監督は、自分の高齢の父親ディック・ジョンソンの死を様々な形で演出し、それをドキュメンタリーフィルムにする、という手法で映画を作ることを思い立ちます。
これはその映画製作のドキュメンタリーであり、なおかつフィクションでもあります。
80代の父親ディック・ジョンソン氏が自らディック・ジョンソンを演じて、様々な死に方を演じるというちょっとありえない手法。
たとえば、ビルの上からPCが落下して直撃を受けて死ぬ、道を歩いていたらビルの角から長い鋼鉄を担いだ男が現れディック・ジョンソンの首を一撃し、彼は血を流して倒れ込む、あるいは心臓発作で路上で倒れ救急車で病院に運ばれる・・
下手すれば、悪趣味のおふざけ映画に見えなくもないところを、かろうじて救っているのが、ディック・ジョンソンその人のたぐい稀な柔和な表情です。本当に素敵な表情を見せてくれます。
この表情があるからこそ、この映画は人々に訴えかけるものになっているのですが、でも、現実問題として、果たして高齢の父親にここまで演じさせる必要があるのか? というあたりはかなり疑問です。
彼は長年精神科医として働いてきましたが、認知症の兆候が出てきたため、やむを得ず退職し、NYのキルステン監督の家に同居することになります。
その家にはキルステン夫妻と二人の幼い子どもたちがいて、とても賑やか。
映画はこの家族の様子を逐一撮影しつつ、なおかつ時折ディック・ジョンソン氏の死のシーンをさしはさみながら進行します。
何が現実で何がフィクションなのかは、見ていれば大体わかるのですが、終盤にさしかかるとジョンソン氏の認知症も進み、フィクションだとわかっていても、もしかすると本当に彼は道に迷ってしまったのかもしれない、あるいは本当に心臓発作で死んでしまったのかもしれない・・と思えてきます。
しかも、あろうことか葬式のシーンまであって、何が現実で何が創作なのかわからなくなってくる・・
(以下ネタバレ)
実は葬式もフィクションで、ジョンソン氏は自分自身の葬式をドアから覗き見て、最後に満面の笑みをたたえながら皆が集う教会に現れる、という趣向です。
全体にコミカルな作りになっていて、ディック・ジョンソンが死んで天国にいくと様々な人たちが天使となって迎えてくれるのですが、まるで小学校の学芸会の劇みたいな演出で、こういうのがアメリカ人は好きなんかい⁉ と思った。
好きか嫌いかは別として(私はイマイチ好きじゃないけど)、いろんなことを考えさせられる映画です。
自分の死というのはまだそれほど切実ではないけれど、遠からずやってきます。その時のために予行演習をしておくのもいいかもしれない。
避難訓練みたいに予行演習をしておけば、死ぬときも案外楽に死ねるかも・・
とはいえ、現実はイメージや想像とは全く違う、ということも私たちはよく知っています。そうではあるけれど、脳は案外容易に騙される、という事も知っています。
なぜこうした映画を撮ろうとしたかといえば、キルステン監督の家族全員がすでに父親の死を受け入れている(なぜならすでに母親の死を経験しているから)というところが重要かと思います。
一番の肝は、死を(自分にしろ親にしろ)どう受け入れるか、ということなのでしょう。それに対して、私たちはあまりに準備不足である、ということに気づかされます。
老齢の家族をお持ちの皆さん、あるいはご自身がすでに高齢である皆さん、
死への準備はできていますか?
私はまだです。
でも、いつか必ずやってきますね。その時はできれば抵抗せずに受け入れることができるよう、今から準備をしておくのもいいかもしれないですよ。