探しものは何ですか?
見つけにくいものですか?
カバンの中も、つくえの中も
探したけれど見つからないのに
まだまだ探す気ですか?
それより僕と踊りませんか?
夢の中へ、夢の中へ、
行ってみたいと思いませんか?
(「夢の中へ」井上陽水)
若い頃、井上陽水が好きでずいぶん聞きました。
今日も家の中で探しものをしながら、この歌が頭の中で響いていました。
そうです、カバンの中も机の中も探したけれど見つからないのは、
家の中がごちゃごちゃしていて、物がやたら多いからです。
一緒に踊ってくれる人もいないので、夢の中には行けず、あいかわらずはいつくばって物を探し続ける毎日です・・
昨日は、ベッド下にある開かずの段ボール箱を全部出して中身をチェックしました。
ここも去年は手をつけなかったところ。
そしたら何と50年以上前の高校時代の写真やノート、勤めていた学校で出していた文集などが見つかり、これまた座り込んで読み始め・・
といつもの癖ですぐに横道にそれるのですが、昨日はそのおかげで発見もありました。
写真やノートや文集などは、今ここにいながら、瞬時に50年前に引き戻してくれます。
時間というのは不思議で、日々をたどっていけば気が遠くなるほど長いのに、思い出すのは一瞬。
「まるで昨日のことのように」と言うけれど、まさに昨日のことのように鮮明に思い出します。
写真を撮ったときの教室の空気、みんなの声などが瞬時に蘇ってくる。すっかり忘れていた人の名前も思い出し、
そんな時代もあったねと、
いつか話せる日がくるわ、
あんな時代もあったねと、
きっと笑って話せるわ・・
(「時代」中島みゆき)
と、まさに今、私は笑いながら過去を振り返っているわけです。
少なくとも昨日見つかったモノたちは、私にとってのよい思い出ばかりで、そうそうこういう時代もあったなあ、あの頃は楽しかったなあ、と本当に幸せな気持ちになりました。
そして、当時一緒にいた人たちに心から、ありがとう! と言いたい気持ちでした。
様々な困難もあったはずなのに、それより楽しかった思い出のほうが色濃く残っているのは、記憶のもつ不思議な力のようです。
そして、自分の考え方や感じ方は、基本的に50年前と変わらない、ということも発見しました。三つ子の魂百まで、とはよく言って、人間の基本的な嗜好や思考傾向というものは、ほとんど変化しないのね、ということもわかった。
50年前と同じ疑問をいまだに抱き続け、同じことを繰り返しつぶやいているわけです。
進歩なし!
一体何を学んできたのだ、君は?
それはともかく、たまにこうして宝物を発見できるのも、モノを大事にとっておいたおかげよね、
と自画自賛しつつ、
モノをすべて捨てて「今ここ」に生きる、というミニマリストの生き方は、高齢者には必ずしもいい選択ではないかもしれない、と思いました。
過去は変えられないけれど、過去の見方は変えられます。
時間がたつと、過去の見方はどんどん変化していき、幸いなことに良い方向に変化していくようです。
105歳で亡くなった私の祖母は晩年女学校時代の話ばかりしていました。間の90年をすっ飛ばしてね。
女学校時代の話をする祖母はそれは幸せそうで、まるで16歳の少女のようでした。
お年寄りから過去を奪うのは考えものです。どんなに過酷な過去でもその人の生きてきた証であり、過酷さは薄れて今は幸せな思い出ばかりが残っているかもしれないから。
特に記憶力の衰えを感じている人(私も含め)には、過去のモノは案外必需品なのかもしれません。記憶をたどる縁(よすが)がなくなれば、記憶自体も減衰していくでしょう。
モノより思い出、といえるのは若い人たちだからで、年寄にはモノから手繰り寄せる思い出も必要なのかも、と思います。
とはいえ、年寄は過去に生きればよい、ということではなく、彼ら(私含め)もまたこの世界の住人の一人なので、今ここに生きている人たちと共に生きていけるようにしなくてはいけない、とも思います。
お互い、相手を尊重しつつ、過去も大事にしつつ、なおかつ「今」を生きる、と言う感じかしら。
ともあれ、モノ探しもたまにはいい思い出を運んでくれますね。
ちなみにこれらの文集やノート写真類は一部だけ残して大半は捨てることにしました。
思い出はモノクローム、色をつけてくれ・・
(「君は天然色」)
記憶の中では、思い出は総天然色よ。
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