壮大なポストモダン、アンチ=ケータイ小説
書評 アラスター・グレイ『ラナーク』(国書刊行会、2007年)
越川芳明
ケータイ小説全盛のこの時代に、スコットランド随一の現代作家の、アンチ=ケータイ小説めいた作品が、みごとな翻訳によって日本の読者の前に届けられたことを率直に慶びたい。
それにしても、ギガレベルの大作である。原書は六百頁、翻訳でも原稿用紙四百字詰めにして二千枚をくだらない。一九五〇年代から二十年以上にわたって書きついで、八〇年代初頭にようやく出版にこぎつけたのだという。これが著者四十五才のときのデビュー作というのだから、さらに驚きだ。
副題にあるとおり、4巻からなる、あるスコットランド人の伝記である。第1巻と第2巻は、ダンカン・ソーという冴えない美術学生について、作家の自伝的な事実にほぼ忠実にもとづいて描かれたリアリズム小説。一方、第3巻と第4巻は、ラナークという男の精神の彷徨を描くSFファンタジーだ。
ラナ―クの物語の中に、ダンカン・ソーの物語が内包されるという、ポストモダンのメタフィクションとしての仕掛けがある(第3巻から始まるのはその理由による)だけでなく、この作品はさまざまな奇想に富む。最後のほうの「エピローグ」で、作家自身が登場し、主人公ラナークと会話をしながら、作品の中身について、手の内を明かす自己言及的な章があったり、本作に直接あるいは間接に引用された過去の文学作品のリストやパクリの手口の数々を披露する「盗作索引」があったり・・・。二十世紀前半のエリオットやジョイスなどのモダニストがまじめにやっていた引用行為を博学ひけらかしのおふざけに転嫁してしまうのだ。
細かく見ていくことにしよう。第1部はダンカン・ソーの少年時代を扱っている。少年はグラスゴーに住んでいるが、第二次大戦で空襲があり、母と妹と疎開する。戦後はグラスゴーに戻り中高等学校に入るが、空想の世界にひたってばかりで、おまけに喘息の持病を抱えて学校の成績は伸び悩む。そのうち母が肝臓を患って亡くなる。
第2巻は、運よく奨学金がもらえて美術学校に入ることになるが、初日になけなしの金で買った画材一式を盗まれるというヘマをしでかす。美術学校の奇人変人たちと付き合いながら、一方で、教授の娘のマージョリーと身分違いの色恋ざたに憂き身をやつす。彼女にふられ、喘息と気管支感染症がひどくなり病院に入院し、たまたま隣のベッドにいた牧師に教会の内壁に壁画を描かないか、と打診される。壮大な壁画に着手し、大幅に遅れながらも完成するが、あえなく教会は取り壊しの運命に。街で拾った娼婦にも、体の湿疹で敬遠され、ついに殺人行為の幻覚まで見るようになり病院に入院することになる。
第3巻と第4巻の二巻は、精神を病んだソーの見た夢の世界という風に解釈することもできるが、その世界は、まさにダンテの「神曲」の地獄篇に近い。人間が人間を犠牲にすることに貪欲になっている現代の「地獄」だ。主人公は、ダンカン・ソーがあの世で転生したような、ラナークという名の男だ。
逆にいえば、作家グレイのグロテスクな想像力が壮大に展開するのが小説のこの部分である。とりわけ、ラナークがほとんど太陽の照らない都市アンサンクから一種の自殺行為を経て堕ちていく「施設」と呼ばれる「地下世界」は地獄絵のようにヴィヴィドに描かれる。というのも、この施設では、人間が「火蜥蜴」となって発する熱をエネルギーとして利用したり、人の一部を人工食料として活用したりしているのだから。
ここに作家のキリスト教への不審と反戦思想が読み取れる。大航海の時代以降、他民族を殺戮したり搾取することでしか繁栄を築いてこなかったヨーロッパのキリスト教諸国への批判が見られる。グレイは、エピグラフで人類を「残虐で恐ろしい怪物」として捉えたダ・ヴィンチの言葉を引きながら、作中でも一登場人物の言葉を借りて、「人間ってのは、自分で自分を焼いては食べるパイみたいなもの」だといっている。
(『スタジオ・ボイス』2008年2月号100頁)
書評 アラスター・グレイ『ラナーク』(国書刊行会、2007年)
越川芳明
ケータイ小説全盛のこの時代に、スコットランド随一の現代作家の、アンチ=ケータイ小説めいた作品が、みごとな翻訳によって日本の読者の前に届けられたことを率直に慶びたい。
それにしても、ギガレベルの大作である。原書は六百頁、翻訳でも原稿用紙四百字詰めにして二千枚をくだらない。一九五〇年代から二十年以上にわたって書きついで、八〇年代初頭にようやく出版にこぎつけたのだという。これが著者四十五才のときのデビュー作というのだから、さらに驚きだ。
副題にあるとおり、4巻からなる、あるスコットランド人の伝記である。第1巻と第2巻は、ダンカン・ソーという冴えない美術学生について、作家の自伝的な事実にほぼ忠実にもとづいて描かれたリアリズム小説。一方、第3巻と第4巻は、ラナークという男の精神の彷徨を描くSFファンタジーだ。
ラナ―クの物語の中に、ダンカン・ソーの物語が内包されるという、ポストモダンのメタフィクションとしての仕掛けがある(第3巻から始まるのはその理由による)だけでなく、この作品はさまざまな奇想に富む。最後のほうの「エピローグ」で、作家自身が登場し、主人公ラナークと会話をしながら、作品の中身について、手の内を明かす自己言及的な章があったり、本作に直接あるいは間接に引用された過去の文学作品のリストやパクリの手口の数々を披露する「盗作索引」があったり・・・。二十世紀前半のエリオットやジョイスなどのモダニストがまじめにやっていた引用行為を博学ひけらかしのおふざけに転嫁してしまうのだ。
細かく見ていくことにしよう。第1部はダンカン・ソーの少年時代を扱っている。少年はグラスゴーに住んでいるが、第二次大戦で空襲があり、母と妹と疎開する。戦後はグラスゴーに戻り中高等学校に入るが、空想の世界にひたってばかりで、おまけに喘息の持病を抱えて学校の成績は伸び悩む。そのうち母が肝臓を患って亡くなる。
第2巻は、運よく奨学金がもらえて美術学校に入ることになるが、初日になけなしの金で買った画材一式を盗まれるというヘマをしでかす。美術学校の奇人変人たちと付き合いながら、一方で、教授の娘のマージョリーと身分違いの色恋ざたに憂き身をやつす。彼女にふられ、喘息と気管支感染症がひどくなり病院に入院し、たまたま隣のベッドにいた牧師に教会の内壁に壁画を描かないか、と打診される。壮大な壁画に着手し、大幅に遅れながらも完成するが、あえなく教会は取り壊しの運命に。街で拾った娼婦にも、体の湿疹で敬遠され、ついに殺人行為の幻覚まで見るようになり病院に入院することになる。
第3巻と第4巻の二巻は、精神を病んだソーの見た夢の世界という風に解釈することもできるが、その世界は、まさにダンテの「神曲」の地獄篇に近い。人間が人間を犠牲にすることに貪欲になっている現代の「地獄」だ。主人公は、ダンカン・ソーがあの世で転生したような、ラナークという名の男だ。
逆にいえば、作家グレイのグロテスクな想像力が壮大に展開するのが小説のこの部分である。とりわけ、ラナークがほとんど太陽の照らない都市アンサンクから一種の自殺行為を経て堕ちていく「施設」と呼ばれる「地下世界」は地獄絵のようにヴィヴィドに描かれる。というのも、この施設では、人間が「火蜥蜴」となって発する熱をエネルギーとして利用したり、人の一部を人工食料として活用したりしているのだから。
ここに作家のキリスト教への不審と反戦思想が読み取れる。大航海の時代以降、他民族を殺戮したり搾取することでしか繁栄を築いてこなかったヨーロッパのキリスト教諸国への批判が見られる。グレイは、エピグラフで人類を「残虐で恐ろしい怪物」として捉えたダ・ヴィンチの言葉を引きながら、作中でも一登場人物の言葉を借りて、「人間ってのは、自分で自分を焼いては食べるパイみたいなもの」だといっている。
(『スタジオ・ボイス』2008年2月号100頁)