越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

翻訳詩のポエトリー・リーディング

2008年01月28日 | 小説
翻訳詩の朗読に感じた面白さ
――日中現代詩シンポジウム(朗読会)に出席して
越川芳明

 まずある詩人が自分の詩を朗読する。それから、外国語に翻訳された同じ詩が、外国の詩人によって朗読される。互いに自分の詩を自分の言葉と外国語で朗読しあう。

 そうしたやり取りがそんなに面白いのか、と訝しがる方もいらっしゃるだろう。実は、僕もそんな訝しがる側の人間だったのだ。ほんの少し前までは。

 たとえば、ある曲をだれかがピアノで弾いたあと、別の人がオーボエで演奏してみたと想像してみてほしい。同じメロディーでもずいぶん違って聴こえるはずだ。

 詩の朗読もまた、日本語と外国語ではずいぶん違って聴こえてくる。そういう意味では、単独の言語で行われる朗読会よりも楽しい。

 真冬にしては暖かいある昼下がりに、僕は上野の東京藝大で開かれた日中の詩人たちの朗読会をのぞいてみた。日本からは佐々木幹郎、高橋睦郎、井坂洋子、平田俊子の四氏。中国からは駱英、陳東東、唐暁渡、西川の四氏。

 僕には中国語がわからない。だから、冒頭に立った中国人の駱英さんが「経済学批判」という詩を朗読しているときは、音しか聴くことができない。それから、日本語に訳したものを、高橋睦郎さんが自分なりの解釈を交えて日本語の詩として朗読するとき、意味を伴って聴こえてくる。僕はそこで初めて、なるほどこういう詩だったのか、という確認をしながら詩人の音に耳を澄ます。

 日本語に翻訳された時点ですでに、中国語の詩は大きく変容したり何かを失っていたりするはずだし、日本語の詩でも同じことはいえるだろう。

 しかし、外国人同士の朗読会は、変容したり失ったりしても、なおそれ以上に多くの伝わるものを共有する試みだったといえる。ある詩が外国語で発音されるときの新鮮な驚きを、詩人と聴衆が共有できるライブ感覚あふれる場だった。

 



 司会を担当した、日本語の得意な中国人の田原(でんげん)さんが、ご自身が翻訳にかかわったらしい平田俊子さんの「うらら」という詩の一部にある「足紙」という語を取りあげて、翻訳に苦労したと「文句」をいっていたのが印象的だった。

 平田さんは「手紙がきても春は楽しい」という行のあとにつづけて、「足紙がきても春はうれしい」と歌うのだが、中国語には「足紙」はないという。おそらくどこの国にもそんな言葉はない。平田さんの造語だから。

 そんな場合、積極的に誤読や誤訳を行なって、自分の言葉で作るしかない。田原さんもそうしたように。

 日中の現代詩人たちによる朗読会には、そういう際どいスリリングな局面がひそんでおり、それをとても面白いと感じた。
(『現代詩手帖』思潮社、2008年2月号、134頁)


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