文学の未来は外部からやってくる
清水良典『文学の未来』(風媒社、2008年)
越川芳明
冒頭に、純粋文章(それを短くした形で純文章)という語が出てくる。「純粋」とか「純」なんて、右翼っぽいなと思うかもしれないが、これは反語である。
というのも、「純文章」とは、「雑文」と等価といえる概念だから。「雑文」より上にある小説――そんな文壇の常識を覆すという大胆な意図があり、誤解を避けて「雑文主義」といっていないだけだ。著者の心意気は在野精神にある。なぜなら・・・
「純文章」とは、著者によれば、(一)既成のジャンルに属さない。(二)名づけられない種類の「文」をカテゴライズする名称である。(三)ジャンル横断的な文章を評価する方法である、からだ。
たとえば、著者はともすれば批評家から見過ごされがちな作家を高く評価している。谷崎松子、幸田文、武田花、島尾伸三、青木奈緒ら、「文学者の縁者」の「雑記」や「作文」を取りあげ、かれらの文章が「小説」や「随筆」といった既成のジャンルに収まりきらない野性の力を秘めているという。
著者のいわんとするところは、誤解を恐れずに一言でいえば、日本の近現代文学自体も、そういった「純文章」の担い手たちによって形成されてきたということだ。
正岡子規の「写生文」にしても、夏目漱石の『吾輩は猫である』にしても、当時としては小説とも随筆とも名づけられない「純文章」だったのであり、硯友社の尾崎紅葉の装飾的な文章への対抗として生まれてきた。
二葉亭四迷をはじめ、泉鏡花にしろ永井荷風、芥川龍之介、谷崎潤一郎、内田百﨤にしろ、前世代の慣習的な様式の外部に立ち、「異形」や「異物」と見える新文章の創出によって次世代の作家が登場してくるのが日本文学の伝統なのだ、と。
その点は、有島武郎と同様、英語で書いたものを日本語に翻訳することでデビュー作『風の歌を聴け』の文体を創出したという村上春樹でも、「みすぼらしい」を「偉大な」と言い換えるなど、文章の一切を反語法で書き換えた『さようなら、ギャングたち』の高橋源一郎でも同じであり、さらには笙野頼子、川上弘美、赤坂真理、小川洋子、柳美里ら現代作家にも当てはまる。
著者は一世を風靡した『高校生のための文章読本』の編者の一人でもあった。本書でも、これ以上はない適切な例文を引き合いに出しながら、畳み掛けるように説得力をもって語りかけるが、その内容は挑発的だ。
書店の「小説」という棚に置かれているもので、どれだけ「純文章」を実現しているものがあるだろうか、と。
『すばる』2009年3月号
清水良典『文学の未来』(風媒社、2008年)
越川芳明
冒頭に、純粋文章(それを短くした形で純文章)という語が出てくる。「純粋」とか「純」なんて、右翼っぽいなと思うかもしれないが、これは反語である。
というのも、「純文章」とは、「雑文」と等価といえる概念だから。「雑文」より上にある小説――そんな文壇の常識を覆すという大胆な意図があり、誤解を避けて「雑文主義」といっていないだけだ。著者の心意気は在野精神にある。なぜなら・・・
「純文章」とは、著者によれば、(一)既成のジャンルに属さない。(二)名づけられない種類の「文」をカテゴライズする名称である。(三)ジャンル横断的な文章を評価する方法である、からだ。
たとえば、著者はともすれば批評家から見過ごされがちな作家を高く評価している。谷崎松子、幸田文、武田花、島尾伸三、青木奈緒ら、「文学者の縁者」の「雑記」や「作文」を取りあげ、かれらの文章が「小説」や「随筆」といった既成のジャンルに収まりきらない野性の力を秘めているという。
著者のいわんとするところは、誤解を恐れずに一言でいえば、日本の近現代文学自体も、そういった「純文章」の担い手たちによって形成されてきたということだ。
正岡子規の「写生文」にしても、夏目漱石の『吾輩は猫である』にしても、当時としては小説とも随筆とも名づけられない「純文章」だったのであり、硯友社の尾崎紅葉の装飾的な文章への対抗として生まれてきた。
二葉亭四迷をはじめ、泉鏡花にしろ永井荷風、芥川龍之介、谷崎潤一郎、内田百﨤にしろ、前世代の慣習的な様式の外部に立ち、「異形」や「異物」と見える新文章の創出によって次世代の作家が登場してくるのが日本文学の伝統なのだ、と。
その点は、有島武郎と同様、英語で書いたものを日本語に翻訳することでデビュー作『風の歌を聴け』の文体を創出したという村上春樹でも、「みすぼらしい」を「偉大な」と言い換えるなど、文章の一切を反語法で書き換えた『さようなら、ギャングたち』の高橋源一郎でも同じであり、さらには笙野頼子、川上弘美、赤坂真理、小川洋子、柳美里ら現代作家にも当てはまる。
著者は一世を風靡した『高校生のための文章読本』の編者の一人でもあった。本書でも、これ以上はない適切な例文を引き合いに出しながら、畳み掛けるように説得力をもって語りかけるが、その内容は挑発的だ。
書店の「小説」という棚に置かれているもので、どれだけ「純文章」を実現しているものがあるだろうか、と。
『すばる』2009年3月号