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世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

島田雅彦氏絶賛、エリクソンの新作(翻訳)『エクスタシーの湖』

2009年11月02日 | 小説
手前味噌で恐縮ですが、スティーヴ・エリクソンの新作(拙訳)がまもなく刊行されます。

『エクスタシーの湖』(筑摩書房)です。エクスタシーから何を想像するかは、各自まちまちでしょうが、すぐにシャーマニズムの神がかりや憑依を連想する人はするどいです。

 小説家の島田雅彦氏が帯び文を寄せてくださいました。

 「パラノイア? いやシャーマンだ。他人の夢を奪う現代に夢見る力の点滴を行うエリクソンは21世紀のカウンターカルチャーの導師だ。」

 でも、この本はシャーマニズムに関する本ではありません。小説です。SFとミステリーとSMとがごった煮のごとく、駆使されまくります。過去の歴史と未来を取り込みながら、「アメリカとは何か?」と問うジャンル横断型の純文学です。形式が斬新で、二つの語りが同時併行します。最後に、そられが内容的にも語り形式の上でも見事にドッキングするのですが、どのようにドッキングさせるか、訳者冥利につきます。

以下の文章は、「訳者あとがき」の一部です。

巫女(ふじょ)の予言
 前作『真夜中に海がやってきた』では、主人公のクリスティンは、ダブンホール島のチャイナタウンで叔父によって育てられた「孤児」だった。

 十七世紀以降、親としてのヨーロッパから独立を果たし、新大陸で独自のアイデンティティを確立してきたアメリカ合衆国を「孤児」のメタファーで捉えるのはかならずしも突飛ではない。

 夢を見ない少女時代のクリスティンは、ホテルに泊まる男たちの寝込みを襲ってレイプを行なって、かれらの夢を奪おうとする。それは他者のヴィジョンの強奪という意味で、さしずめアメリカ史における先住民の迫害と虐殺を意味するのだろうか。
 
 さらに、本作ではクリスティンの名前の多様さが注目に値する。クリスティンは、息子を失って五年後にはルル・ブルーと称して別人の人生を歩んでいる。

 さらに、<赤いドレスの狂女>として野次馬たち興味の対象になるかと思えば、<聖クリスティン>として、シャトーXを根城に、怪しいカルト宗教をおこし、<ルル女王様>、<湖上の神託女王>、<ゼットナイトの女王>などとも呼ばれて、経血による占いやSM的行為を繰りひろげる。
 
 ルルになったクリスティンは、神がかり的なエクスタシー(脱魂)の技術によって、巫女(ふじょ)のごとくあの世とこの世の間を行き来する。
 
 小説はそうしたシャーマニズム的様相を帯びる一方、クリスティン=ルルの無意識(子どもを失う恐怖)が米国に民族的・階級的な対立から来る内乱や戦争を引き起こすかもしれないと示唆している。

 つまり、この小説自体が予言者としての巫女の機能を果たしている。
 
 その点で、興味深いのは小説の近未来的設定であり、アメリカ合衆国の各地で武装蜂起があり、内戦が勃発している雰囲気が仄(ほの)めかされていることだ。たとえば、2017(2016)年には、中国人ワンがカリフォルニアの軍事基地で特権的な地位にあり、湖上に人知れず流れてくる音楽が敵によるどのようなメッセージなのか、識者たちと検討しているシーンがある。
 
 2029年には、ブロンテとルルの二人が汽車に乗ってシカゴへ向かうシーンが出てくるが、アルバカーキより西に300キロの北アリゾナの先住民の村プエブロで、二人の旅は頓挫してしまう。それより先は戦時非常事態にあるためだ。
 
 米国における民族的対立のメタファーとして示されるのは、プエブロの隠れた歴史として開示される、スペイン系(白人)大農園主の末裔の男性による先住民女性に産ませた子どもの放棄(それは、ナバホの少女バルブラシタの出産でも繰り返される)である。

 そうした裏切り行為は先住民の虐殺というアメリカ史の禍根を象徴し、内乱はそうした行為への反逆といえる。
 
 そうした禍根の犠牲者で自殺したバルブラシタの幼子を引き取るクリスティンの行為は、負の歴史を引き受けるものであり、贖罪の行為と見なすことができよう。(以下省略)
 
 


コメント
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