「父親」のいない「犯罪小説」
ーー中村文則『掏摸(スリ)』(河出書房新社、2009年11月)
越川芳明
犯罪者の視点から現代日本を見るという、実に小説家ならではの倒錯的な試みに挑戦した作品だ。
ちょうどドストエフスキーの『罪と罰』が、高利貸しの老女殺しを行なう男を主人公にして、貧富の格差の激しいロシア社会を見据えたように。
語り手の「僕」は中年の掏摸(スリ)だ。裕福そうな人間に狙いをつけて、電車の中や雑踏で財布を抜き取るのを生業とする。
そんな「僕」は、子供の頃から塔を幻視してきた。
それは彼方にありながらも、絶えず「僕」を見張っている。
「どこかの外国のもののように、厳粛で、先端が見えないほど高く、どのように歩いても決して辿り着けないと思えるほど、その塔は遠く、美しかった」(144頁)
「僕」にとって、塔とは何なのか。
一人称の語り手が読者に隠している情報もあるはずで、家族についてまったく言及しないことから推測するに、もしかすると、「僕」の父親のことかもしれない。
とはいえ、「僕」にとって、象徴としての抑圧的な父親は別に存在する。
チェスのコマのように他人の運命を弄ぶのが趣味という、木崎という名の不気味な男だ。
この男は、スリのようなせこい犯罪はせこい人間のやることだと言う。
闇社会に生きる彼は大物の政治家や投資家を狙うだけでなく、実行犯として参加させる「僕」やその仲間を犯行後、虫けらみたいに消すことも躊躇しない。
木崎のように絶大な権力を有する者が、塔によって象徴される屹立するペニス(男性中心的)だとすれば、「僕」がスリのターゲットとするポケットや鞄は、いわばヴァギナや子宮の象徴である。
母親や妻によって示される女性的価値が、家族のいない「僕」の前には、四年前に自殺してしまった人妻の佐江子や、スーパーで万引きする女性の姿をとって現われるが、彼女らはともに男性の犠牲となっている。
「僕」は、塔=木崎=権力者に圧倒され、追いつめられながら、ポケット=万引きの女=スリといった「せこい」が、女性的な行為/価値観によって救われる。
「僕」はひょんなことから「父親」となる。
万引きする女の息子に慕われて、木崎とは違う、抑圧しない女性的な父親の役割を果たす。
万引きの手口を少年に教える一方、万引きはやめるように諭し、母親の男の暴力に悩む少年を守るため、施設に入れようとする。
「犯罪小説」という形を取りながら、新しい父親のあり方を示唆した「家族小説」として読めるところが面白い。
(『すばる』2009年12月号、314頁)
ーー中村文則『掏摸(スリ)』(河出書房新社、2009年11月)
越川芳明
犯罪者の視点から現代日本を見るという、実に小説家ならではの倒錯的な試みに挑戦した作品だ。
ちょうどドストエフスキーの『罪と罰』が、高利貸しの老女殺しを行なう男を主人公にして、貧富の格差の激しいロシア社会を見据えたように。
語り手の「僕」は中年の掏摸(スリ)だ。裕福そうな人間に狙いをつけて、電車の中や雑踏で財布を抜き取るのを生業とする。
そんな「僕」は、子供の頃から塔を幻視してきた。
それは彼方にありながらも、絶えず「僕」を見張っている。
「どこかの外国のもののように、厳粛で、先端が見えないほど高く、どのように歩いても決して辿り着けないと思えるほど、その塔は遠く、美しかった」(144頁)
「僕」にとって、塔とは何なのか。
一人称の語り手が読者に隠している情報もあるはずで、家族についてまったく言及しないことから推測するに、もしかすると、「僕」の父親のことかもしれない。
とはいえ、「僕」にとって、象徴としての抑圧的な父親は別に存在する。
チェスのコマのように他人の運命を弄ぶのが趣味という、木崎という名の不気味な男だ。
この男は、スリのようなせこい犯罪はせこい人間のやることだと言う。
闇社会に生きる彼は大物の政治家や投資家を狙うだけでなく、実行犯として参加させる「僕」やその仲間を犯行後、虫けらみたいに消すことも躊躇しない。
木崎のように絶大な権力を有する者が、塔によって象徴される屹立するペニス(男性中心的)だとすれば、「僕」がスリのターゲットとするポケットや鞄は、いわばヴァギナや子宮の象徴である。
母親や妻によって示される女性的価値が、家族のいない「僕」の前には、四年前に自殺してしまった人妻の佐江子や、スーパーで万引きする女性の姿をとって現われるが、彼女らはともに男性の犠牲となっている。
「僕」は、塔=木崎=権力者に圧倒され、追いつめられながら、ポケット=万引きの女=スリといった「せこい」が、女性的な行為/価値観によって救われる。
「僕」はひょんなことから「父親」となる。
万引きする女の息子に慕われて、木崎とは違う、抑圧しない女性的な父親の役割を果たす。
万引きの手口を少年に教える一方、万引きはやめるように諭し、母親の男の暴力に悩む少年を守るため、施設に入れようとする。
「犯罪小説」という形を取りながら、新しい父親のあり方を示唆した「家族小説」として読めるところが面白い。
(『すばる』2009年12月号、314頁)